ディストピアの到来:ドゥームスクロールの時代を予言したニューウェーブカルトバンド、DEVO
分裂が激化する現代だが、物事が悪化しているということとその勢いが止まらないという事実だけは、全員の意見の合うところだろう。ドゥームスクロール(スマートフォンなどで、ニュースサイト等のページをスクロールし、悪いニュースを読み続けること)の時代が到来している。どれほどの楽天家であっても、今我々が生きている時代ほど暗黒の時代はないのではという思いは、振り払えるものではない。気候は崩壊し、ロシアはウクライナに侵攻し、アメリカは「The Bachelor」シーズン26の評価で忙しい。まさにディストピアだ。こんな時代が来るなら、早く知らせて欲しかった。
いや、知らされてはいたのだ。不安に満ちた、メディア依存度の過度に高い世代が、こぞって社会の欠点を分析するようになるはるか前から、現代社会の光沢の下にある腐敗した核心部を暴き出すマルチメディアマニフェストを発表していた、アメリカ、ラストベルトのコンセプチュアルアーティストとミュージシャンの気鋭グループがいた。今我々の直面している現象は単なる劣化ではなくシステム的な腐敗だ。人間は問題を増やす存在どころか、問題そのものだ。人類は今、自然の摂理を大きく覆す退化と呼ぶべき現象の真っ只中にある。これは、その果てに我々の知る生命というものが滅亡するほどに深刻なものである、と彼らは主張していた。
彼らはDEVOと名乗り、この理念を推進。その思想は50年以上にわたり我々の潜在意識に浸透してきた。80年代のキッチュ的なものとして見放されることもあるバンドだが、今日のポップカルチャーは究極的に彼らの美学、哲学的イメージによって塗り変えられてきたものであると言え、その影響は「ニュー・ウェイヴ」やニコロデオンの番組にも及んでいる。
DEVOファン以外の層も今ようやく、彼らの主張してきた内容に気づき始めている。ある春の日の午後、バンドの創設者でヴォーカリスト、作曲家、クリエイティブディレクターであるマーク・マザーズボー(Mark Mothersbaugh)とジェラルド・”ジェリー”・キャセール(Gerald “Jerry” Casale)に電話インタビューを行った。DEVOが今年のロック殿堂入りを果たす候補バンドとなったことが発表されたところだった。偉業ではあるが、彼らにとっては3度目のノミネートでもあり、達成感は薄いかも知れない。
「(ロックの殿堂入りは)ポップミュージックに変化と革新をもたらした人物を讃えるものみたいだから」とマザーズボー。「今の時代、革新や独自性が評価されるのであれば、自分達がそれに値することは確かだと思う」。
DEVOの種が蒔かれたのは美術学校でのことだ。パフォーマンスアートを専攻していたキャセールは、その頃から物議を醸す不遜な作品を作っていた。卒業制作では地元のショッピングモールのクリスマスディスプレイを乗っ取り、短パン姿に胸元を曝け出し、電極をつけ、宇宙飛行士のヘルメットをかぶって記念写真を撮ったという。マザーズボーが記憶に留めているキャセールの作品も、ベルベットのロープが巻かれた長椅子の上でホットドッグが焼かれ、ロシアの電波を妨害するサウンドトラックが流れるという、異世界のバカンスを演出したものだったという。マザーズボーは当時、よりビジュアルな性格の強い作品を手がけていた。「グラフィティアーティスト」という言葉が生まれるずっと前だったが、街にグラフィックを描いていた当時の自身を、「オハイオのシェパード・フェアレイ」だったと笑って語る。
ジェイク・インディアナ(JAKE INDIANA):お互いの第一印象はいかがでしたか?
ジェラルド・キャセール:あの頃マークは髪の毛が腰ぐらいまであって、すごくシャイだったね。でもいいアートをやってるなと思った。
マーク・マザーズボー:ジェリーの方が雄弁だった。自分の作品についてしっかり語ることができていてすばらしいと思った。その力をジェリーは僕のアートにも使ってくれた。僕の作品について代弁してくれた。だからすごく打ち解けた。
2人が通っていたのはケント州立大学。1970年5月4日、2人は、ベトナム戦争に対して穏やかに抗議をしていた同級生4人がオハイオ州兵に殺害される事件の目撃者となった。この事件は全米に衝撃を与え、深い傷を残した。当時、犠牲となった4人のすぐそばにいたキャセールは「あの日にヒッピーをやめた」と語っている。その悲劇に媒介される形で、人間の衰退という彼らの観念が形成されていった。
インディアナ:ケント州立大学の銃乱射事件は、DEVO誕生のきっかけとなった出来事ですね。事件後のことを教えてください。
キャセール:誰かが撃たれて死ぬ光景を間近で見るなどという経験をすれば、人が変わる。犠牲になったのが知人ともなればなおさらだ。神話やプロパガンダを鵜呑みにする受け身の人間ではいられなくなる。非合法権力に対する見方が霞んでくる。さらに世間には、犠牲になった同級生を嫌悪して、もっと大勢を殺すべきだったと考える人がいて、あの日のことが逆転した形で語られる。犠牲者側を虐げる方向で捉える見方が歴史として残る。そんなものに触れれば、こちらは怒りが頂点に達する。優勢なものに対する疑問、優勢な集団とは逆の立ち位置に立つことからDEVOが生まれた。
義憤に駆られたキャセール、マザーズボー、そしてキャセールの弟ボブを含む数人の仲間は、その後数年の間にメンバーを何度か変えながら(常に親戚内での編成を繰り返し、最終的にはマザーズボーの兄弟2人が加わった)バンドの第1世代を結成した。キャセールは当時バンド活動をしており、マザーズボーは昔キーボードを弾いていた。しかし DEVOは何より、アイデアバンドであった。煮え続ける思いを一気に爆発させるきっかけとなったのが、1972年、キャセールの出会った『The Beginning Was the End』という本だった。ユーゴスラビアの人類学者オスカー・キス・マース(Oscar Kiss Maerth)の著作で、現在の人類は、共食いをして脳を食す猿の一種から進化したものだと主張する理論書だ。
マザーズボー:人間は……ろくでなしだと、思わせられるようなことがいろいろとあった。人類だけが不自然な種ということかも知れないけれど。
彼らはこの発想をもとに、初期の人間の残忍性から、アメリカの若者に押し付けられる男性らしさを誇張する文化までを一本の線で結ぶように示した。この理論が集約されたのが、 DEVOの初期のシングル「Jocko Homo」だ。見事なまでに簡潔なミッションステートメントであるこの曲は、 DEVOというバンドそのものの混沌を歌うテーマソングとも言える。「我々は人間ではないのか?」という問いかけコールへの、「我々はDEVOだ!」というレスポンス。その中で彼らは人間の本質を公然と問いかけている。「神は人間を作ったが、そのために使ったのは猿だった」。
DEVOが曲を発表することは、チャレンジングなライブが展開されることを意味していた。そして DEVOは、言ってしまえば、かなりハードコアであった。初期の録音は、耳障りな電子音に歪んだロカビリー曲で人間本来の価値を批判するという、狂気に満ちたものであった。パンクの精神に則り、不穏さを真髄としていた。マザーズボーもキャセールも、当時聴衆を唖然とさせたことを思い出しては笑う。あるときには、頼むから、支払いをするからライブを早くやめてくれと、拝み倒されたことさえある。
インディアナ:初期のライブに対する反応はどうでしたか?観客側はついて来ていたでしょうか?
キャセール:いや全く!何せ1970年代の、反知性的で、ベトナム戦争を肯定するような右翼文化が蔓延するオハイオ州北東部で、誰からも理解されないような音楽を作っていたから。哀れまれたりからかわれたり、刺すような目つきで見られたり。こんなものを作るとはね、と誰もが憤慨していた。味方がいなかった。
マザーズボー:本当にそう。いろいろな意味で孤立していた。でもそのおかげで、自分たちの活動について考える時間があった。ほら、然るべき人から嫌われれば、強くなれる。「なるほど、これが嫌いなのか。それならもっとやってやろう」とね。
無防備な観客に初期のパンクを聞かせること以外でも、 DEVOはさまざまな衝撃を与えていた。当初からマルチメディアプロジェクトとして誕生していた彼らは幅広いライブ演出を行っており、「ブージー・ボーイ」と呼ばれる、メガネをかけ、マネキンのようなゴム製仮面をつけた子供っぽい男など、恐怖を与えるキャラクターを頻繁に登場させていた。
無防備な観客に初期のパンクを聞かせること以外でも、 DEVOはさまざまな衝撃を与えていた。当初からマルチメディアプロジェクトとして誕生していた彼らは幅広いライブ演出を行っており、「ブージーブジ・ボーイ」と呼ばれる、メガネをかけ、マネキンのようなゴム製仮面をつけた子供っぽい男など、恐怖を与えるキャラクターを頻繁に登場させていた。
インディアナ:ライブのデザイン面についてはどのようにお作りだったのでしょうか。黄色い防護服などは、特に時代を先取りしたセンスでしたよね。ステージ上の人物像を考えるときに意識していたことは?
キャセール:五銃士のイメージ。誰よりも偉大な集団という意味で。それぞれ個性はあるけれど、軍事教練チームとしてまとまることで力が生まれる。資金に余裕ない中でああいう厳しさや真剣さを表現する方法はないかと考えていた。当時、メーカーのグラフィックの仕事をしていて、その会社のカタログをデザインしたんだ。そのカタログに、危険な化学薬品を散布するときに着る安全服が載っていた。黄色くて、当時1着2.65ドルだった。
マザーズボー:そう。安かったね。「これなら使い捨てできるな」と思った。クリーニング料金の心配も要らないし、ステージで膝のところが破れても問題ない。当時よく古着屋や救世軍ショップに通っていて、50年代の女性物の伸縮性のあるシンチベルトを見つけた。「これでウエストを絞ればカッコよくなる」と思ったら、思った通りだったね!
キャセール:本当にキマってた。世界のヒーローみたいな感じでね。しかも安いからビリビリに破けても構わなかったし、下に何か別のものを着ておいて、早着替えをすることもできた。それがまた演出になった。
これに加え、 DEVOはステージ上の集団に合わせた映画の世界観を構想していた。そして1976年、アクロン周辺で、「Jocko Homo」と60年代ロックのヒット曲「Secret Agent Man」のカバーを収録した映像作品「 The Truth About De-Evolution」 を撮影。仮面姿のバンドの殺伐とした映像や、「Jocko Homo」を病院の講義に見立てた錯乱したような演出は、「ツイン・ピークス」や「アダルトスイム」の深夜番組に見られる凝固版アメリカーナと笑いのシュールレアリズムを思わせた。
アクロンの図書館からプロジェクターを借り、 DEVOはこの映像をライブのイントロダクションとして上映した。映像の中で演奏された曲を直後にライブで聴いてもらってね、と、マザーズボーが語る演出は、狙い通りの効果を上げた。口コミで評判が広がり、乗り込んだニューヨークの街を驚嘆させた。アメリカの中央部で長年冷ややかな反応を受けてきたDEVOにとって、その反応は予期していないものだった。
「オハイオでは、誰にも相手にもされなかったからね」とマザーズボー。「でも、ニューヨークでは爆発的に話題が広まった。最初のライブの後、ゲストリストが欲しいと盛んに言われた。だから、ライブ1回で150ドルくらいしか稼いでないのに、あいつらはデヴィッド・ボウイ(David Bowie)から6ドル、ブライアン・イーノ(Brian Eno)やジョン・レノン(John Lennon)からも6ドル、それにTHE ZAPPA BAND全員、THE ROLLING STONES、ジャック・ニコルソン(Jack Nicholson)、ありとあらゆる有名人からもチケット代をもらっているだろうなんて言われたね」。
事態は急速に進展を見せた。デヴィッド・ボウイが、 DEVO初の正規アルバムをプロデュースする意向を示し、その後この件は彼の友人で音響の魔術師として知られたブライアン・イーノの手に渡った。ストーンズの名曲「 (I Can’t Get No)Satisfaction」のカバーについて了承を得るべくローリング・ストーンズのマネージャー事務所に出向いたマザーズボーとキャセールはそこで、 DEVOのカバーはお気に入りだと、ミック・ジャガー(Mick Jagger)本人からお墨付きをもらう。
1978年に発売された彼らのデビュー作「Q:Are We Not Men? A:We Are DEVO!」 は、誇大な評論、商業的売り出しをすることもなく受け入れられ、今でも、知的なエッジと重厚なフックでパンクとニューウェーブの世界の架け橋となったポップミュージックの試金石、史上屈指のアルバムとみなされている。
インディアナ:いきなりメジャーレーベルでアルバムを作ることになって、物の見方は大きく変わりましたか?
マザーズボー:変わった部分もあるし、そうでもない部分もある。メジャーレーベルでのアルバムをやってみようと思ったそもそもの理由のひとつに、ケントでのことがあった。ニューヨークに行く前から「どうしたら社会を変えられるか」を考え始めていた。反乱という選択肢はない。反乱を起こせば、知事の手で大勢が銃殺されて、逆らうものは鎮められてしまう。実際アメリカ全国で起きたことだ。すべてが静かに封じられてしまう。いろいろ考えているうちに、アメリカという国で物事を変えようと思った場合、マディソン・アベニューみたいなものがひとつの例になるのかも知れないと思った。人にひどい食べ物を食べさせて、くだらない車に乗らせて満足させている。それを見て「道徳の破壊こそが社会を変える」と思った。
1980年になる頃には、 DEVOはメジャーでの成功に漕ぎ着けた。ミュージックビデオのパイオニアである彼らの努力が、1981年のMTV開局をもって実を結ぶ。 DEVOが撮り溜めてきた催眠的ショートフィルムのフルカタログが、MTVで繰り返しほぼ常時放送されることとなったのだ。そして1980年リリースのアルバム「Freedom of Choice」では収録曲「 Whip It」 が爆発的ヒット。現在でも彼らの代表曲であり続けている。1980年代を通してDEVOは優れた作品を作り続けたが、その創作野心は瞬く間に、リスクを避けるスローなスタジオシステムの犠牲となっていった。
インディアナ:DEVO時代、最も困難だったことは何ですか?あるいは逆に、最高の達成は?
キャセール:長く善戦を続けること、自分達のアートに忠実であり続けること。革新し続け、考え続けること。「Whip It」を作ったとき、また同じような曲を作ることを期待された。それが実際求められていたものだし、商売上手なバンドならその通りにしていただろう。でも自分達は自分達がやりたいことをやった。新しいアイデアを出した。結果、それは歓迎されなかった。前進し続けたことで罰せられたんだ。
マザーズボー:後になって「Whip It」だとかを聴いてくれた人達に「この歌はどういう意味だろう?なぜ、人間が世界を破滅させていると言っているんだろう?」と思ってもらえるのは最高だ。自分達は、自分達なりのやり方を試してみたくて出てきたからね。それが実を結んだのがうれしい。
90年代の幕開けとともにDEVOは活動休止に入ったが(2010年に再結成、アルバム発売)、彼らの作品は世間の注目を浴び続けた。マザーズボーとキャセールが、業界で細かく活動を継続してきたことがその理由に挙げられる。マザーズボーは「ピーウィー・プレイハウス」「ラグラッツ」「ロケット・パワー」などの子供向けテレビ番組作品を手がけた。子供達は彼の作品に触れて育っていった。一方キャセールはミュージックビデオ・ディレクターとして、THE CARS、SOUNDGARDEN、FOO FIGHTERSなどの映像を監督した。マザーズボーはまた、ウェス・アンダーソン(Wesley Anderson)監督とクリエイティブの同志となり、 DEVOの代表曲「Gut Feeling」が採用された『The Life Aquatic with Steve Zissou』など、アンダーソン監督の映画音楽を複数担当している。
DEVOの作品がクリエイティブに与えた影響の度合いを測定することは不可能に近いが、彼らのアイデアの拡散の程は、その目安になると言えるかも知れない。DEVOのレガシーは、人類が、愚かさと、人類の進歩の正当性を真剣に疑う能力、アメリカという国が国民に教え込んでいる超男性的、消費主義的なドグマを拒否する能力から成るディストピアの中に生きているのだという残酷な事実の認知にある。我々はこの地球にとって最良の存在ではないかもしれないが、DEVOなのだ。
インディアナ:DEVOの作品は、不気味なほど今という未来を言い当てていた感じがしますね。それで正当だという印象でしょうか。それともがっかりしますか?
マザーズボー:自分達が正しかったことが悲しいよ。
- Words: Jake Indiana
- Translation: Ayaka Kadotani