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Life beyond style

昨年は「バスタブ」を意味するフランス語 “Baignoire(ベニュワール)” が世界的に浸透した。外国語学習支援アプリ「DuoLingo」のおかげではない。この名を冠したCartier(カルティエ)の腕時計が今一番熱いためだ。

どの腕時計のことか、ご存じだろう。ホワイトのダイアルにCartierのクラシックなブラックローマ数字、ブルースティール製剣型針、ブルーサファイアをはめ込んだリュウズというお馴染みの構成ではあるものの、それが楕円形のケースに収められていることが特徴のあの腕時計だ。ゴールドのブレスレットやバングル、ストラップバージョンがある。タイラー・ザ・クリエイター(Tyler, the Creator)もオースティン・シティ・リミッツ・ミュージック・フェスティバルのステージにこの腕時計を着けて登場した(その数カ月前にもやはりCartierのクラッシュを身に着け、見る者を魅了した)。エマ・チェンバレン(Emma Chamberlain)も、Cartierブランドアンバサダー契約前の段階からゴールドのブレスレットバージョンを着用。ケンダル・ジェンナー(Kendall Jenner)も同じバージョンを着用している。このケンダル・ジェンナーのスタイリングについてVogue UKは「『競うようにトレンドの波の中をかき分けるイットガール集団の中で、独自の道を切り開く』彼女にふさわしい」と評した。露出が高まるにつれ、ベニュワールを次の流行必至アイテムとするTikTokの解説動画も増加。さらに2023年春夏のAimé Leon Dore(エメレオンドレ)のルックブックでのカメオが熱狂に火を着けた。

「パーティーに行くと10人くらいがベニュワールを着けている、というようなことが最近何度もあった」と語ったのは、ベニュワールを2020年夏に購入したニューヨーク在住の25歳のシェフ、フリン・マクガリー(Flynn McGarry)。2020年夏といえばわずか4年前だが、その時点でのベニュワールはCartierの他の人気商品の影に隠れており、ラグジュアリー品再販サイトTheRealRealでの彼の購入価格は当時1,300ドルだった。今では5,000ドル(より人気の高いものでは10,000ドル近く)で取り引きされていることを考えると破格だ。

遥か昔からベニュワールを購入し、そのマイナーさに関わらず、というよりもむしろコアなCartierファンでないと知らないほどマイナーであったからこそ、ベニュワールを愛好してきた層も、ベニュワールがこのような知名度を得るようになったことには驚いているようだ。ベニュワールへの関心の高まり、圧倒的バズには、衝撃に近いものがある。「ベニュワールはファッション界における知る人ぞ知るステータスシンボルであり私も長年愛用している。憧れていた昔の上司も話題になる前からベニュワールをひっそりと着けていた」 と『marie claire』編集長ニッキ・オグナイク(Nikki Ogunnaike)も言う。

Cartierの他の多くの腕時計同様、ベニュワールにも、やや暗いとはいえ、長い歴史がある。1912年、ルイ・カルティエ(Louis Cartier)がロシアのマリア・パヴロヴナ大公妃(Maria Pavlovna)のためにカスタムメイドしたのが最初のベニュワールと言われている。1950年代後半になると生産量が増え、デザインも現在のようなものに進化したが、当時はまだ単に「オーバル型」と呼ばれていた。「ベニュワール」という名称をCartierが正式に使うようになったのは1973年に入ってからのことだった(由来についてはフランスの高級バスタブ、ガルニエ宮のオペラのVIP席等諸説ある)。どのような経緯があったにせよ、ベニュワールはその頃までに一度目の脚光を浴びていた。

1945年から1974年までCartierロンドン支店の支店長で、JJCタンクの名前の由来となった故ジャン=ジャック・カルティエ(Jean-Jacques Cartier)の孫で『The Cartiers: The Untold Story of the Family Behind the Jewelry Empire』の著者であるフランチェスカ・カルティエ・ブリックウェル(Francesca Cartier Brickell)も「1960年代から70年代、ロンドンのCartierで、JJCタンク以外でいちばん人気のあった時計はオーバルだったと祖父が話していた」と言う。

現在の一大ブーム到来以前のベニュワールの人気は、フランスの女優ロミー・シュナイダー(Romy Schneider)やカトリーヌ・ドヌーヴ(Catherine Deneuve)、ビートルズのマネージャーであったブライアン・エプスタイン(Brian Epstein)などの有名人が身につけたことで急上昇した可能性が高い。エプスタインは自身とジョージ・ハリスン(George Harrison)向けにこのベニュワールを購入したと言われている(お揃いの腕時計というわけだ)。楕円形の腕時計ベニュワールはその後もグロリア・スタイネム(Gloria Steinem)、俳優のジェームズ・ガーナー(James Garner)(身長185cmの彼は2000年に26mmのものを着用していた)など多くが身につけ、男女を問わないスタイリッシュな腕時計として浸透した。ガーナーのベニュワールは昨年の春、フィリップスにおいて、予想額の2倍近くの高値で売られた。

その後Cartierではほかの腕時計が脚光を浴び(80年代、マイケル・ダグラス(Michael Douglas)ことゴードン・ゲッコー(Gordon Gecko)が “Greed is Good” のスピーチの際に着用していたのはサントス。90年代にグウィネス・パルトロウ(Gwyneth Paltrow)が着用していたのはパンテールだった)、ベニュワールはひっそりと影を潜めていった。そして2000年代に入り、あらゆるものに関してスーパーサイズ化現象が発生した。アンティーク品やヴィンテージウォッチの販売で知られるFoundwellのディーラー、アラン・ベッドウェル氏(Alan Bedwell)は「20年前、憧れの的と言えばROLEX(ロレックス)のデイデイトを着けたジェニファー・アニストン(Jennifer Aniston)だった。その頃、素敵な若い女性がベニュワールを欲しがることはなかった。ベニュワールの価値は理解されていたものの、母親世代の時計というイメージがあったのだと思う。上品なCartierのドレスウォッチは敬遠され、もっとスポーティで男性的なものが求められていた」と語る。ジェニファー・アニストンに倣ってROLEXのデイデイトを身につけるか、そうでなければJay-Z(ジェイ・Z)を真似て巨大なAudemars Piguet(オーデマ ピゲ)のロイヤル・オーク・オフショアにする、リンジー・ローハン(Lindsay Lohan)のように大きなROLEXのスポーツウォッチをダブルで着ける、またはキモラ・リー・シモンズ(Kimora Lee Simmons)がBaby Phat(ベビーファット)のバックステージでしていたようにJacob & Co. (ジェイコブ)のファイブ・タイム・ゾーンを着ける、といった辺りが相場であった。#y2k(2000年代)の美学はソーシャルメディアやイギリスの通販サイトDepop上に居場所を見出したが、オーバーサイズの腕時計はVon Dutch(ボンダッチ)やローカットジーンズと並んで、居場所を見出すことができなかったようだ。とは言え、ベニュワールの時代は自ずと到来したわけではない。「(ベニュワールは)つい最近までいけている層がこぞって身につけるようなアイテムではなかった」とベッドウェル氏も言う。

ベニュワールに関する話を聞くようになったのは、筆者が女性と腕時計に特化したプラットフォームDimepieceを始めて1年が経った2021年頃になってからのことだった。その話を筆者の耳に入れてくれた人物こそがベッドウェル氏だった。ベッドウェル氏が我々の初対面(初の腕時計面談とでも言おうか)の場にポーチに入れて持ってきてくれたのがベニュワールだった。ベッドウェル氏以前に、このキュートでクラシックでありながら非常にモダンな腕時計、ベニュワールを紹介してくれる人がいなかったことに衝撃を受けた。ベッドウェル氏の方も、筆者がこの時計をとても気に入ったことに衝撃を受けていた。ヴィンテージウォッチ専門販売歴20年のベッドウェル氏だが、ベニュワールに関してはこれまで特定のタイプの顧客にしか売れなかったという。

ベッドウェル氏が筆者との初対面時にベニュワールを持ってきてくれたのはなんとなくでのことだったという。自身も長年ベニュワールの大ファンであるベッドウェル氏は、腕時計コミュニティではあまり関心を持たれていないモデルであるとはいえ、もしかすると筆者が興味を持つかも知れないと思ったのだという。時計販売を生業とする者にとって、ベニュワールはほかの高額アイテムと比べ大きな収益を産む腕時計ではない。オークションに出品されることすらほとんどない(チャーリー・チャップリンのベニュワールがサザビーズで二倍の高値で落札された経緯もあるためそれが事実とは言い切れないが)。ライブ販売対象となるのは、ブランドにもよるが、通常1万ドルから2万ドル程度の品物であり、ベニュワールはそのレンジに届かないためだ。比較的低価格であるベニュワールは、Cartierのクラッシュのようなほぼ入手不可能なほどの激レアアイテムとは性格を異にする。フランス語で「長く引き伸ばされたバスタブ」を意味するベニュワール・アロンジェも数十万ドル単位で取り引きされるため、ベニュワールとはレンジが異なる。ちなみにクラッシュの形状は自動車事故で変形したベニュワール・アロンジェからできたものと言われている。

ベニュワールは2023年初頭、Aimé Leon Doreのキャンペーンに登場したが、即座に人気を集めることはなかった。腕時計を扱って11年のガイ・ゴハリ(Gai Gohari)もALDのキャンペーンでシンプルで魅力的なベニュワールを選んだが、ある種彼の予想通り、まだ世間はそこについてきてはいなかった。「ベニュワールが売れるまでには時間がかかった。眠れる獅子のような存在だった」とゴハリ氏。

筆者はしかし、数年前にベッドウェル氏がポーチからおそるおそる取り出したベニュワールに一目惚れし、すぐに腕時計に関する自分のInstagramアカウント Dimepieceで情報を発信し、『小さな腕時計を守りたい』(当時小さな腕時計にはまだ擁護が必要だった)と題した記事などを書きもした。

少しパンチの効いた腕時計を探していたシェフのマクギャリー氏がベニュワールを購入したのは2020年のことだった。「友達が持っているのがみんなタンクで、皆と同じものは欲しくなかった」とマクギャリー氏。タンクと言えば、スチールスポーツウォッチルックに替わる選択肢とされることの多い、Cartierで最もアイコニックな腕時計だ。そこであれこれ調べた結果としてマクガリー氏が見つけたのがベニュワールだった。Cartier愛好家の好む特徴を全て備えていながら知名度の低いクラシックウォッチ。従来「メンズウォッチ」とされてきた40mm以上のサイズでは持て余してしまうような細身の手首にも馴染む。彼にとってベニュワールは初めて購入した高級腕時計だった。

しかしその後、ベニュワールは至るところで見かけられるようになった。

「以前であればベニュワールの買い付けはよく考えてするようにしていた」とゴハリ氏。「でも、今は違う。必ず売れるので。価格も当然上がっている。ベニュワールは2023年春頃本当に売れ筋商品になった」

Cartierは2023年3月、時計の国スイスのジュネーブで開催された世界最大の時計見本市Watches & Wondersにおいてベニュワールの再リリースを発表した。そしてそれは単なる再販ではなく、デザインが幾重にもひねられていた。ひねり度合いの控え目なレザーストラップモデルに加え、最大の目玉として発表されたのがゴールドのバングル(18Kイエローゴールドまたはローズゴールド)に取り付けられた11,800ドルのミニ・ベニュワールだった。それは腕時計でありながらジュエリーともいえた。ジュエリー&ウォッチメイキング・クリエイティブ・ディレクター、マリー=ロール・セレード(Marie-Laure Cérède)は「Cartierの腕時計は、時計とジュエリーという2つの伝統工芸両方の最高峰を織り交ぜている。ミニ・ベニュワールの艶めきのある洗練されたデザインはそこから生まれたもの」と説明した。しかし見本市での発表を行なったCartierの担当部門により、このミニ・ベニュワールが「カジュアルに着用する洗練されたデザインで、重ね着けにも向く」と紹介されたことには飛び上がるほど驚かされた。腕時計業界というこの上ないほど保守的な業界において、「重ね着け」は腕時計の品位を損なうタブー行為とみなされているためだ。

汎用性の高い女性的な時計への現代的需要に対し、Cartierがベニュワールで賭けに出た背景には、ベニュワールが長い間、コレクターズ市場において支持され、ステータスを高めてきた事実がある。その賭けは功を奏した。この新ベニュワール・バングルには、昨年6月の店頭販売前から数カ月待ちの予約が殺到し、通常であれば世界に名だたるロイヤル・オークやデイトナでもない限りなかなか見られない「割り当て」販売の様相を呈した。クオーツ式レディースウォッチではまずあり得ない状況だ。

「今年2月、Cartierのイエローゴールドのベニュワールバングルが6カ月経ってもまだ届かないとの問い合わせがあった」と中古高級時計のオンライン・マーケットプレイス「Bezel」のウォッチ・オペレーション責任者、ライアン・チョン氏(Ryan Chong)は語った。「ベニュワールバングルは今、小売の枠組みを超えたところ(二次市場)でも取り引きされている。Cartierの腕時計では、限定版やクラッシュでもない限り、あまりないことだ。そう知ると、クライアントも驚いていた」。

腕時計界の動きはこれまで非常に鈍かっだが、今やデジタル時代の荒波で事実チョン氏の言うような状況にある。2023年9月、ニューヨーク・タイムズ紙に「Cartier’s Baignoire Watch Is Having a Moment」の見出しで掲載された記事には、eBayが「2023年4月から7月の「ベニュワール」の検索数が2022年同期比90%増を記録した」旨を発表したとある。検索数の急上昇に加え、ベニュワールはわずか1カ月のうちに多数のファッション誌掲載も獲得し、POP Magazineではエマ・マッキー(Emma Mackey)、L’OFFICIEL USAではエマ・コリン(Emma Corrin)と、偶然エマ同士となった2人のカバーガールの手首も飾った。

上記のニューヨーク・タイムズ紙の記事を担当した編集者兼ジャーナリストのジル・ニューマン記者(Jill Newman)はベニュワールに個人的思い入れを持った人物だ。ベニュワールは彼女が『Women’s Wear Daily』誌で働いていた90年代、初めて購入した高級時計だった。ラグジュアリー品に関する記事を書き、目立つ立場にあった彼女が30年あまり所有してきたベニュワールだったが、かつて話題にされることはなかったという。それが今ではもちろん話題にされるどころか、切望されている。「あのバングルウォッチは驚異だった」と畏敬の念を込めてニューマンは語った。

それほど求められるようになったということはつまり、もはやベニュワールは知る人ぞ知るアイテムではなくなったということだ。「自分のものは売ってしまおうかとも思う」とシェフのマクガリー氏は言う。ベニュワールは終わったということだ。しかし本当にそうなのだろうか?

HODINKEEのスタイル・エディターで、流行を嫌うマライカ・クロフォード(Malaika Crawford)は、ベニュワールの潜在力を依然強く信じている。彼女自身がマイアミで重ね着けしているベニュワールがCartierからの貸し出し品であるから、ということではない。「ベニュワールのバングルは、女性用腕時計のデザインにこれまでなかったものをもたらしたと思う。こうした、現代の好みや流行を考慮したモダンなデザインは、ずっと求められていた」とクロフォード。つまり、ベニュワールのピークはまだまだこれからということだ。

腕時計業界全体の軌跡をよく観察してさえいれば、ベニュワールの復活は時計製造業の未来が明るいことを意味するものだと理解できる。女性のためにデザインされ(それでいてユニセックスの魅力もあり)、ジュエリーと腕時計のバランスを保っている。さらに着けやすい。技術的、機械的卓越性が重視されがちな腕時計の世界において、着けやすさはなかなか見落とされがちな点だ。

もちろん、ブランドが流行や「クール」といった刹那的概念に屈することを望む者はいない。そこに屈してこなかったからこそ、スイスの時計製造業は潤ってきた。しかしバングルスタイルのベニュワールは、腕時計が伝統に根ざし誠実であり続けながらも、現代の感性にマッチする美しいデザインを見せていくという、(願わくば)近い将来の姿を予感させてくれる。