ジョナサン・アンダーソン(Jonathan Anderson)のDIOR(ディオール)デビューがとても良いものだった理由のひとつとして、デザイナーが誰であるかがほぼ分からなくなっていたことが挙げられる。とは言えもちろん、アンダーソンの作品やスタイルをよく知る人なら、学生風セーターやウォッシュ加工のジーンズなど、彼らしい要素が簡単に見つけられたことだろう。

しかし、このアンダーソンによるDIORコレクションの真の価値は、その中身が本当に良い服である、ということを誰の目にも明らかな形で見せていた点にある。

作家の消滅。これこそがラグジュアリーファッションの現状だ。よりにもよって文学の引用が数多く散りばめられていたコレクションで「作家の消滅」を語るのも皮肉ではあるが、これも重要な時代の変化を物語る現象だ。

2025/26年秋冬シーズンを締めくくったデムナ(Demna)のBALENCIAGA(バレンシアガ)最後のショーは、10年にわたる栄華の時代の終わりを告げたのみではない。

それは、デムナが2015年にBALENCIAGAのデザイナーに就任した頃にできた非公式ムーブメント、作家型ファッションデザイナーの最終章でもあった。

作家型デザイナーの着任や退任は、2015年から2019年にかけて相次いだ。ヴァージル・アブロー(Virgil Abloh)のLOUIS VUITTON(ルイ・ヴィトン)、キム・ジョーンズ(Kim Jones)のDIOR、ジョナサン・アンダーソンのLOEWE(ロエベ)、マチュー・ブレイジー(Matthieu Blazy)のBOTTEGA VENETA(ボッテガ・ヴェネタ)、フィービー・ファイロ(Phoebe Philo)、および彼女に続くエディ・スリマン(Hedi Slimane)のCELINE(セリーヌ)、アレッサンドロ・ミケーレ(Alessandro Michele)のGUCCI(グッチ)、リカルド・ティッシ(Riccardo Tisci)のGIVENCHY(ジバンシイ)、そしてデムナのBALENCIAGAがこれに当たる。

これらデザイナーらは個々に、それまでを上回る大きなトレンドやテイストを明確に打ち出し、それらトレンドやテイストの創始者として明確に認識された(感謝ばかりではなく非難されることもあったが)。作家型デザイナーという概念はそこに端を発する。

ダニエル・リー(Daniel Lee)は「#newbottega」の生みの親と言えるのか? 「#newbottega」は彼の後任のマチュー・ブレイジーによってダニエルのものとなったのではないのか? など詳細については議論の余地があるかもしれないが、これらデザイナーはファッションにおける唯一無二の影響力について語るにあたって今後も間違いなく挙げられる、それぞれの時代において非常に重要な存在だった。

最後の偉大な作家デザイナーとして、デムナは彼自身が有名にした(また逆に彼を有名にもした)ブランドを去った。GUCCIでは引き続き活躍していくが、デムナが圧倒的な足跡を残したのは何年も昔のことだ。

ラグジュアリー業界は作家型デザイナーに代わり、地に足の着いた服に新たな魅力を見いだすようになった。DHLのTシャツやGUCCIのファーのスリッパのようなものはもてはやされなくなり、クラシックなシャツと痺れるジーンズが前面に出ている。

ファッションにまつわる視座が貧弱になくなってきているということではない。デムナの退任直前にデビューしたアンダーソンのDIOR、ジュリアン・クロスナー(Julian Klausner)のDRIES VAN NOTEN(ドリスヴァンノッテン)、マイケル・ライダー(Michael Rider)のCELINEには、それぞれ明確な違いがある。しかしいずれも等しく、かつてのデザイナーコレクションには不可欠であった重厚なシグネチャー装飾を避けている。真のファンであれば微妙な違いが見分けられるが、そうでない多くの人にとっては主に着やすさを堪能するものとなっている。

ファッションデザイナーの作家時代が終わり、良い服の時代が始まった。

消費者に個性を売り込み続けようとする試み(もはや時代とも言えぬほど短命に終わったサバト・デ・サルノ(Sabato De Sarno)のGUCCI時代など)はラグジュアリー業界を低迷に陥れた。解決には、実質とスタイルの両方が必要だ。

もはやデザイナーに服の着こなし方を教わる時代ではないからだ。

デザイナーには、着る価値のある服を作れるかどうかが問われる時代となった。夢を売る立場から服を売る立場へと、デザイナーの立場が変わった。