KOHEI ARANO
アーティスト・新埜康平:動き出す余白、日本画とストリートの交差点。
ストリートカルチャーを原体験とし、スケートボードやグラフィティに親しみながら育った新埜康平。自由で即興的なカルチャーが、やがて彼を「日本画」という一見対極にある表現へと導いた。この流れ自体がユニークだが、彼の絵にはそれ以上に深く、日本画の本質に根差した精神が潜んでいる。
「一色一色が一期一会」と語る。水と膠に溶かれた顔料は、湿度や温度にも左右され、描いたその瞬間には完成形が分からない。乾き、変化して初めて、その表情をあらわにする。それはまさに、自然への畏怖と信頼に満ちた「受容」の態度だ。どれほど技術が進んでも、水という神秘の力に抗えない。だからこそ、描き手は画材に、自然に、そして “時間” に委ねることになる。即興性を受け入れ、曖昧なまま、余白を残す——そこにこそ、日本的な美意識が宿る。
彼の作品には、日常の中の一瞬が切り取られている。誰もが見過ごすような風景に、価値を見いだし、丁寧にサンプリングして再構築する。「描かないことで描く」。説明し過ぎず、観る者に委ねるスタイルは、仏教や神道、ひいては神仏習合の精神性にも近い。多様性を許容し、明快な答えよりも曖昧さの中に美を見いだすその感覚は、まさに東洋的寛容さの表現だ。
日本画という枠にとらわれず、それでもなお、日本画の本質へとにじり寄る。そこには、合理性に抗い、手間を惜しまず、変化を受け入れながら世界を見つめる新しい “日本的感性” が息づいている。

——最初の芸術体験、印象に残っているアートについて聞かせてください。
美術館には結構行っていました。大学生のときのフランシス・ベーコンは印象に残っていて、美術館で受ける感動は毎回ありました。ベーコンは人物を歪ませたり結構デフォルメしてるんですけど、それが意外と描写してる人間の顔より人間らしいというか、心情をうまく表現している気がしてすごく印象的でしたね。
——大学から専門的な学びになっていったと思いますが、その前の美術体験はどんなものでしたか?
カルチャー色が強い足立区で生まれ育っているので、元々スケートボードをしたり、グラフィティも好きだったので、ストリートカルチャーに興味を持つ方が早かったです。港区だとすぐ警察が来るけど、こっちだとある程度1、2時間だったら平気で滑れます。
——そういう地域性があったのですね。
ローカルスポットも、川沿いの高架下とか、めちゃくちゃありました。
——スケーターはオリンピックで一気に盛り上がりましたよね。
僕はもうあまりやってないですけど、ストリートにずっといた人間からするとオリンピックが異常でした。
——ストリートと競技は違うと言う人が多いですもんね。
全然違うと思います。
——ストリートにどっぷりはまっていたのはどのくらいのときですか?
中学くらいから始めて20歳くらいまではやってました。
——サーフやスケボーなどの横乗り系のカルチャーが日本に入ってきたのはもっと前ですよね。
もっと前ですね。入ってきてちょっと経ったくらいに中学生くらいだったので、普通にスケートショップとかもたくさんありました。もう今はなくなっちゃいましたけど。いろんなところでカルチャーに触れることが多くて、僕は先にそっちから入っていったんです。
——そこからどうして美術に興味を持つようになったんですか?
スケボーをやってるうちに何か表現したいというのはありました。父が元々ペイントの倉庫に勤めていたので、めちゃくちゃスプレー缶が家にあったんです。そこからスプレーで表現し始めました。それを仕事にしようなんてことは全く思ってなくて。
——武蔵野美術大学に行かれるきっかけはなんだったのでしょう?
スケボーが好きで、ロサンゼルスに1カ月くらい一人で行きました。僕はちょっと遅れて大学に入っているので、19歳とか20歳くらいのときです。留学というか遊びにいくテンションで行って、そのときに何か表現したいなと思っていました。油絵とかをやると思ってたんですけど、向こうで日本のカルチャーを外から見たときに、面白いし、特殊だなと思ったし、自分は日本人的な思想がやっぱり強いんだなと思ったんです。ずっとHIPHOPとか洋楽とかスケボーとかが好きだったので、そっちのカルチャーへの憧れがすごく強かったんですけど、日本のカルチャー、日本画の方が腑に落ちたんです。
——日本人的というのは例えばどういうことでしょう?
自分の意見をはっきり言うとか、物事をはっきりイエス・ノーで考えることをしていないことに気づいたんです。曖昧さをはらんで人と会話をしてるとも思ったし、それは日本画やお茶の世界の余白的な思想というか、曖昧さで相手にちょっと委ねる部分を敢えて残すことを意識するとか。そこからは一気にはまっていって、それに気づいてからは岡倉天心の『茶の本』や日本文化の本を読み漁っていました。
——ロスは語学学校ですか?
ではないです。普通にスケボーを持っていって、向こうのベニスビーチで滑っていました。
——そこから日本の思想に辿り着いたと。
違和感を感じたんですよね。いろいろなスケーターの友達と話していて、めっちゃ日本人なんだな自分って思ったんです。
——凄いですね。19歳でそれに気づくなんて。
めっちゃ差別されるじゃないですか。車からイエローモンキー的なことを叫ばれるんですよ。あまり治安のいいところに行ってなかったからかもしれないです(笑)。
——それで日本人的資質に気づき、表現したいということで、美大を目指すことに?
そうですね。美大で日本画専攻しよう、と。
——実際に日本画学科に入ってみてどうでしたか?
入ってみて、やっぱり合ってると思いましたね。手間がかかるのもあまり苦にならなかったし、画材の魅力も感じて。四季によって取れる色が決まっていたり、毎朝まず膠を煮込むところから始めるところとか、一色一色チューブからピュッて出すのではなく手で練るという少しの手間は、愛着が湧く時間でもあるから。一個一個の物質に時間を使えるのがいいと思うんですよね。現代のとにかく合理的に進むのがいいとされる中では真逆を進んでいるんですけど。
一色一色が一期一会です。いろんな顔料混ぜたり、化学反応を使い、湿度や温度によって色が全くコントロールできないんです。そこで気づくんです。この色だったら空を描いてみようとか、空の青を作ってたけど海の青になったとか。そういう制作を毎回やっていけるので、アンコントロールの部分を楽しめる。だから自分で強制しないで済むんですよ。無理にコントロールしようとしないというか、少し任せる部分が多くなる。それを受け入れることの方が重要で。そこは本当にスケーターと似ているんです。
——常に即興である?
セッション、ジャズのような感じというか。かっこいい、かっこ悪いもなくて、基本的にスタイルだから、癖が強いなとか。高さとか、スピード感はあまり重要視していません。
——日本画は形式ばって枠にはまらないといけない非常に厳格な印象がありました。
おそらくスケートボードもジャズも一緒で、ある程度の枠の中でいかに自由にしていくか、その枠内でどう楽しめるか、自分のスタイルを築けるかが重要なのかなと思っています。そういう意味では、ストリートカルチャーと日本画は似ていると思っています。
——日本画の王道をまっしぐらな方との違いをどう感じていますか?
違いはあまり感じていません。スタイルは昔からあることで、日本画は伝統工芸的な側面も持ってる以上、どう継承していくかだと思うんです。その継承の形として、みなさんが思うようなザ・日本画の継承の仕方もありだと思います。その場合、モチーフはある程度決まっていて、表現方法もある程度技術として決まりみたいなのもあります。
水墨画は特に面白くて、描き順も決まっています。和紙は水墨や墨で描いたら消せないので、漢字みたいに描き順が存在しています。だからそういう継承もありだと僕は思っています。
——日本画をストリートに落とし込んだのではなく、自然とそうなっていったのですね。
敢えてではなく、自然の流れでそこに辿り着きました。自分の好きなものをただひたすらピックして融合させていった。日本画にストリート文脈を感じたのもあるかもしれないですね。昔はお城に専門の絵師達がいたりんぱ時代に、琳派の人達が町から芸術作品を生み出す流れがあって、それはストリートの思想にかなり似てると思うんです。一般の人達が美しいと思うものを作り上げる大衆芸術。それは日本画の歴史の中でも存在しているし、それは今ストリートカルチャーと言われる。何者でもない人がそういう風に絵を描くことを肯定しているのは、かなり似てるところではあるのかな。
——そうですね。モチーフはどのように探していますか?
本当に身近にあるものです。スケボーの連続的なシーンは、ビデオ世代だったので、スケボーのビデオテープからです。タイトルの「be kind rewind (巻き戻して返却して下さい)」というのは、TSUTAYAで借りたときに、当時巻き戻して戻さなきゃいけなかった。あの文化を残したいと思ってやり始めました。そういういろいろな思いや日常で感じるようなことをモチーフにしています。
——あとは車も描いていますね。
足立区はエルカミーノが走ってるような街なんです。僕の友達も最初はアメ車に乗りたいと、維持費とか考えないで買って結局売るんですけど。そういうカルチャーへの憧れが強い街でもあったし、僕の周りにそういう人達がいました。あとは映画に出てくるようなワンシーンを切り取ってその構造を、自分の身近にある日本的なものに組み合わせています。切り取っている構図は映画の、それこそガス・ヴァン・サントとか、カルチャー的な1990年代の映画のワンシーンに出てきそうなものをデフォルメして描いています。


——山や海もありましたよね?
実際に見たものをそういうカルチャーに少し寄せて、全部リアルに描き取るというよりは、少しデフォルメしています。その辺は日本画の技法との相性はすごく良くて、逆に日本画の画材はリアルに描くのが難しい画材なんです。水で描く、特に日本は水信仰が強いんです。龍のモチーフが昔の日本画に多くて、やっぱり水の信仰が強かったんだと思います。基本的に日本画は水に任せて描く部分が多いので、コントロールできない部分も多いので、リアルに描くのが難しいです。それで漫画チックで線的な表現が多くなってきます。要するに絵の具自体に粘度がないんです。
水が乾いたときにようやく発色とか明度が出てくるんです。だから描いた直後は最終的にどんな色になるのか分からないんです。水が蒸発して乾いた段階で、色が分かる。
——デフォルメするのも、色の確定が曖昧なのも、先ほどの余白も、日本の精神性に繋がる部分がありますね。
余白や、相手の想像力に任せるというのは、根本的には思いやりの部分がめちゃくちゃ強い気がするんです。例えば、ひとつの画面の中に説明しない部分を作ると、そこは相手に委ねるじゃないですか。作家や作り手からすれば、自分はこう思ってこれが美しいと思うから、それを感じ取ってほしい。言葉もきっとそうですけど、全てを説明しちゃいがちです。そこを読んでくれた人や観てくれた人に対して想像する余地を残してあげるというか。それを美しいとするのが、根本的には日本らしい、それが人を思う気持ちに近いのかなと思うんです。
——それは仏教から来ていると思いますか?
神道の方が近いかなと思います。それぞれの物に対して神が宿ると信じて、いろんな種類の神がいる国の国民性というか、そういうものを “受け入れられる” ことだと思います。仏教もそうですけど、その神がひとつじゃないことを肯定しているし。それはヨーロッパ的な思想とは少し違う部分かなと感じています。いろんな捉え方があることを肯定してることなんで、余白を残しても作者が不安になっていないんだと思うんです。
——こうあらねばならなくてもいいっていう精神ですね。
そういうことだと思います。そこが根本にきっとあるのかなとは思いますね。
——日本文化とか日本人はそういう意味では非常に自由な精神性を持っているにもかかわらず、なぜ社会では窮屈さが感じられるのでしょうか。
難しいですね。今でも本当に自由だと思うんです。それこそK-POPが流行るのも凄いことです。それがいいものだってみんなが受け入れている。日本が自由だからこそできる感覚というか、それぐらい心の余裕がある。だからそこに気づくかどうかが重要なのではないかと思います。窮屈に感じてるところにばっかり、やっぱり目がいってしまいます。いいところとか、そういう余裕って見つけづらいから。でも実は日々の生活の中にあって、そういうのを見つける方が大事というか。だから僕の作品でピックするのは、先ほどの映画のワンシーンのようなと言っても多分そのストーリー上ではカットされるようなところをなるべく描くようにしているんです。そういうところって僕は意外と重要だと思ってて。日々の生活においても、通勤時間ですごく短縮するルートや駅までの道のりがあったとしても、ちょっと遠回りしたときになぜかその日気分が良かったり、少し余裕を感じたりするじゃないですか。だから制作のときもなるべくそういうシーンをあおってみる。今回の展示だと、デイリーヤマザキの看板とか。もし急いでて、何か買いたいものがあって必死にそれを見てたらあそこのあおりはないじゃないですか。ちょっとした一コマ。無駄なようなんだけど、実はすごくゆとりを感じるような一コマをなるべくピックして描きたいと思ってます。
——前にお会いしたときに、スランプに陥って旅に出た話をしていましたが、そのときのことを聞かせて下さい。
作業になっちゃうとやっぱり難しいなとは思いました。最近はありがたいことに、いろんな展示や展覧会も多くお誘いいただいて、制作に追われることは多かったんです。日本画は箔を貼るにしろ、何日もかけて乾かすなどの工程が多いので、作業的になってしまうことがあって、そうするとやっぱりちょっと辛くなってくるというか、新しいモチーフに取りかかれないことがあるんです。先ほどの話のように、水に任せたいとか、自然の力に任せて、モチーフの選び方も自然の流れで取っていきたいんです。何か描かなきゃいけないと思いながら、モチーフを探すのが、そもそも僕にはあまり向いていなくて。でも最近は、それはそれで作業的になりつつも、どこかで面白いことを探そうという風にはなってきています。去年は300枚、350枚とか描いていましたが、多分今年はもう少し多く描けてる気がします。今の段階で300枚ぐらいいってるので。
それからいろいろメモってます。言葉から生むことも多かったりするので。メモを取ってラフみたいな感じで使わないで寝かせておいて、また何年後かに描き始めることもあります。
——例えば言葉はどういう形で残すんですか?
言葉のキーワードだけを基本的に取っておいて、その言葉から感じる風景やフィットするような絵柄やイメージを当てはめていくイメージです。
——基本的に写実ではないから、あくまで言葉で残して、再構成というか。
そうです。僕の感覚ではサンプリングなんです。一個のイメージは断定的にあって。例えば、アーモンドチョコレートという言葉は、ある程度甘いものでお菓子であると断定するじゃないですか。それを分解して再構築していくと、また違う色味に変わってくれたり、アーモンドチョコレートだけどチョコの茶色を使わなくてもいいパターンになってくるというか。そういう風になった方が面白いと思うので、距離のあるものから取ったりもします。アーモンドチョコレートだと、少し距離がある言葉やイメージをわざとくっつけてあげると化学反応じゃないですけど、自分の思ってもみなかったようなイメージが浮かんできます。
——先ほど、効率化や合理化の時代と逆行している、とのことでした。私は少なくともAIに触れてそれを仕事で使っている中で思うのは、より想像力や考える力が必要になってきているということです。AIは使っていますか?
いえ、使っていません。技術発展に関しては肯定的で、もっと発展すればきっといろんなことができるだろうし、見たことない創作物も、世界もできるんじゃないかなと思います。
——基本的に日本画を描くにあたってAIの導入は難しい?
おそらくAIだと難しいですね。顔料、膠の量、湿度、全てを計算できればある程度のところまではいくかもしれないですけど。

——ただ、何が生まれるか分からないことが日本画の面白さだから、分かってると面白くないってことですね。
そういうことなんですよね。日本画は完璧にやろうと思っても、水に任せる部分が多いので、絶対にどこかしらでアクシデントは起こって、それをどう生かして次の工程の次の一手を決めるかも考えなきゃいけなくて、ゴール地点は決まっていても、そこに辿り着くルートをいろいろ考えないといけない技法や画材ではあります。詰将棋に近いんですけど、一工程一工程あって、途中で消すことや後戻りができない素材なので、ゴールに向かってどういう風に進むかを考えなきゃいけない。
——その手間が日本画の最も価値がつく部分ですね。
だとは思います。そのときに起こるアクシデントも美しさに変えていける。その線がたとえブレてても、そのブレている線を美しく見せることも可能なので。それが日本画の良さでもあるんですかね。油やアクリルだったら消しちゃえばもう一回線を引き直せばいいって話なんですけど、その線をいかに大事にしつつ、どう生かしていくかを工程ごとに考えていく。
——例えばアクシデントを起こすことをインプットすればいけるかもしれないけど、やはり計算されているものになってるから、自然ではないというか。
最終的にそのアクシデントすら計算に入れてここでアクシデントを起こすことになると最終形態は似てるかもしれないけど違ってきますね。でも、それがいいのかどうかはまた少し違うと思います。
——レプリカを作るのにはいいかもしれない。
水の計算がどこまでいくのかも気になりますね。水はすごく神秘性があるというか、コントロールできない部分が確実に存在してるんじゃないかなと思うんです。ちょっとした風の動きでも少し変化するだろうし。
——水の視点は面白いと思いました。
昔の人も水の神として龍を生み出したので、神々しさというか謎めいてる部分がきっとあると思っています。そこに頼る日本画の画材はやはり、ちょっとした神秘さがあるのではないのかなと思います。
——今日の話を聞いて、より曖昧さや水は自分に近いものだなと思いました。仏教も神道も水の信仰で、龍が描かれることも多いです。水の国、日本。
そうですね。お寺に奉納されている伊藤若冲の絵もそうですし、作者不明の『鳥獣(人物)戯画』もいわゆるお坊さん達が描いたと言われています。禅思想で一休さんが描いたり宮本武蔵が禅をやってたときに作品を作ったりしてますし。
——東洋思想と西洋思想の違いはどこにあると感じますか?
美しいと思うものが根本的に違います。日本画だと描かないを描くってよく言うんですけど、西洋だと割と描く。ゴッホや後期印象派の人が自分の心情をどう画面に映し取るか。元々写真がなかったので写実的なものを油絵で描いていました。その後、自分の心情をどう描くかが流れとしてやってきます。そうすると、画面全体にある程度自分の心の揺らめきとかを表現して、それを美しいものとして描いていく。東洋美術は逆に自分の心情をのせる。それは暗示程度にしかしなかったり、比喩的なもので表すだけで、はっきりとそれを描かない。はっきりとイエス・ノーをつけないことを美しいと感じる。東洋思想ってやっぱ面白いと思います。ロスのときも日本人だなと思うのはそこだったんです。
——芸術から離れるかもしれませんが、SNSを見ていると、イエスかノーの世界で分断が起きていると分析します。インフルエンサーや言論人が好きなことが好きで、批判すれば嫌い。そもそもメディアやそういう方々は意見を言っても、後は受け手が考えて判断することというか、そもそも考えは違って当たり前で。そういう是非の捉え方になってしまう傾向にあるのは、非常に現代的な気がするんです。受容するという東洋思想が薄れてきていますね。
そう思います。それも徐々に変化していくんだろうなとも思っています。昔は島国でそういう文化が入ってこなかったからこそ、それが尖っていた。だから茶の湯の中で成立していた。いろんな思想が入ってきて、だんだんそれができなくなってきてるのもあると思うんですが、徐々に変化していく。日本の人はそれをまたさらに変えていくのが得意だと僕は思っていて。西洋式トイレが入ってきて、便座をあたたかくしたり、ウォシュレット機能つけたりして、もはや日本のものになってるじゃないですか。だからSNSの状況も、またどこかで変化していくんじゃないかなと思います。
——今は受け入れ期であると?
そうですね。でもそこからまた違和感を感じる人が出てきて絶対に変化していく。
——アレルギー反応を起こすのってすごく大切。それは全然分かるのですが、今と昔は少し状況が違う気がしているんです。テクノロジーによって助かっている部分、進化している部分はあると思うけれど、それに依存し続けた結果、考える力は失われている気がしていて。そうするときっと『猿の惑星』みたいになってしまう。要は、言語を話せない人間が言語を喋れる猿に支配される。均一化、迎合しているファッションが証明していると思います。知識欲や探究心、好奇心が非常に重要になってくると考えます。日本画にヒントがある気がします。
日本画にならうとしたら、焦らないことが大事です。常にその物事をじっくり観察する時間みたいなのは絶対に必要な気がするんですよ。最近、みなさん本当に忙し過ぎるなとすごく感じます。だから動画も短いものが流行ってたり、時間がよっぽどないんだろうなと思います。日本画って本当にすごく手間で、手間でいいんだなって思わせてくれると思うし、作品自体も経年変化していくんです。箔の作品なんかは10年や20年すると少し燻し銀って色味に変化してくれる。変化することがやっぱりいいんだなと思ってもらいたいっていうのもあって。だから常に完璧じゃなくてもいいし、変化することも受け入れながらという風になっていけば、少しは余裕が出てくるんじゃないかなと思っていて。本当に時間という概念を少し意識しながら楽しんでもらえればと思います。
——こんなシミとか。
そうです。それはなかったですもんね。水の影響なんですよ。完璧にコントロールしようとし過ぎない。それは日常においても、時間の使い方においても。少し時間に任せてあげるとか、水の力に任せることを日本画を通して感じてもらえたらと思います。
三澤亮介&新埜康平ギャラリー『FETISH ― 衝動の美』
会期:12月13日(土)〜12月28日(日)
時間:12:00 ~ 17:00
会場:CAELUM GALERIA®︎
住所:東京都渋谷区宇田川町4-8 昭和ビル2F
※本記事は2025年10月に発売したHIGHSNOBIETY JAPAN ISSUE15++に掲載された内容です。
【書誌情報】

タイトル:HIGHSNOBIETY JAPAN ISSUE15++ : TAKAO OSAWA
発売日:2025年10月16日(木)
定価:1,650円(税込)
仕様:A4変型

タイトル:HIGHSNOBIETY JAPAN ISSUE15++ : REN KAWASHIRI
発売日:2025年10月16日(木)
定価:1,650円(税込)
仕様:A4変型
◼︎取り扱い書店
全国書店、ネット書店、電子書店
※一部取り扱いのない店舗もございます。予めご了承ください。
※在庫の有無は、直接店舗までお問い合わせをお願いします。
※『HIGHSNOBIETY JAPAN ISSUE15++』は、表紙・裏表紙以外の内容は同様になります。
- Artworks: KOHEI ARANO
- Photography: KO TSUCHIYA
- Interview: YUKI UENAKA