style
Where the runway meets the street

Highsnobiety / Imraan Christian

南アフリカ・ケープフラッツは同国でも特に貧しい地域のひとつで、いわゆる“有色人種”と呼ばれるさまざまな人種から成る人々の多くがここに住んでいる。植民政策の産物であり、アパルトヘイトの犠牲者である人々だ。そんなケープフラッツでは今、大きなバブルソールが特徴的な90年代のNIKE(ナイキ)のスニーカー収集に希望を見出すスニーカーヘッズたちのムーブメントが起きている。

今日、“有色人種”という言葉は聞こえの良くないものとなっているが、南アフリカの人種関係という脈絡において他の多くの地域と比べて遥かに多くの意味が詰まっている。この国における“有色人種”という言葉(もちろん現地の言語においてだが)は、植民地時代に端を発する。そしてアパルトヘイト政権も混血の人々もひとまとめに分類するにあたってこの言葉を使っていた。人種の区分を維持し、ヨーロッパの白人を至上とするための政策の一環だった。

何百万人もの混血の人々が、権力により一切の自己定義が許されず、この軽蔑的な呼び方でひと括りにされ ていたのだ。南アフリカの“有色人種”には、コイサン人、コサ人、ズールー人といった先住民から、イギリス、アイルランド、ドイツ、インド、マレーシア、さらにはオランダ系アフリカーナーの入植者、遊牧民のトレックブールまで、ありとあらゆるルーツが入り交じっている。

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有色人種は南アフリカ全体においては少数だが、ケープタウンにおいては最大の人口比率を占める。アパルトヘイト時代、有色人種は半島周辺の都市部からケープフラッツへと強制的に移住させられた。こうして、広大なケープフラッツは、いくつかの町とゲットーを擁する極貧地域となっている。ケープフラッツは元々“その他”という区分でしかアイデンティティを表現しようのない人々の終焉を推進すべく考えられたものだったが、その結果、独自の文化的アイデンティティがそこに生まれることとなった。

何十年にもわたって、ケープフラッツの有色人種の人々が推進してきた文化が今世界的にブームとなってい る。その文化の火種となったのは、1979年に登場したNIKEのAir Max(エアマックス)技術だ。この技術を採用し1987年に発売されたAir Max 1はスニーカー業界に革命を起こした。ティンカー・ハットフィールド(Tinker Hatfield)によるクラシックなシルエットに、ミッドソールのウィンドウに堂々と配されたエアバブルがアイコニックなスニーカーだ。OG Air Maxが世界中のスニーカーマニアたちにとって崇高なステータスであるのは昔からの話だが、ケー プタウンでは“バブル”が最高だともてはやされ、地元では“バブル”の名称で呼ばれている。

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スニーカーは南アフリカのスラングで“takkies”と呼ばれ、生活の豊かな恵まれた人々のみが履くことのできるステータスのシンボルであった。アメリカのゲットーと同じように、こうした人々の多くは麻薬取引人やギャ ングで、本来スポーツシューズであるスニーカーを、履いて歩ける富の象徴へと変えてきたのだ。ギャングたちの身につけるものは周囲にも影響を与える。やがてそれは、身なりをかっこよくして自分たちを見下してきた世界に自己主張をしたいと考える若い男性のトレンドとなった。昨今のUnwanted KicksなどのグループやSneaker Exchangeなどのイベントが成長を見せているのは、このケープフラッツの有色人種の人々による独自のスタイルがいかにケープフラッツを超えて広まっているかを物語っている。

「ここにはクルマ文化がある。タクシーも走っているし、ドレスもファッションセンスもある。ワインバーグとかグラッシーパークとか、ケープタウンの南の地域では“バブルカルチャー”が過熱している。みんなが熱中している」と話すのは、スニーカーヘッズのレジェンドでありケープタウン市内のスニーカー店Sneaker Carteの設立者であるローロ・ロゼイ(Rolo Rozay)。

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ここでのバブルとは、Chicago Bulls(シカゴ・ブルズ)の伝説的選手スコッティ・ピッペン(Scottie Pippen)によって有名になったAir More Uptempo(エア モア アップテンポ)、MLBのシンボルとして活躍したケン・グリフィー・ジュニア(Ken Griffey Jr.)のシグネチャースニーカーだったAir Griffey Max 1(エア グリフィー マックス 1)、そしてJordan(ジョーダン)やAir Maxのさまざまなバージョンにエアバブルのソールが目を引くスニーカーのことだ。90年代のスニーカーは、クリップフォンテインロードの端からワインバーグの路地に至るまで、ケープフラッツ全域で注目されている。

Bubble Koppe(アフリカーンス語で“バブルヘッズ”の意)のウェブサイトとインスタグラムコミュニティを運営するジャスティン・ロン(Justin Ronne)によると、Air More Uptempoが特に好まれるようになったのは、このシューズが初めてバスケットコートに登場した90年代からのことだという。1996年にアメリカ・ジョージア州アトランタで開催されたオリンピックの試合に、ピッペンが“オリンピックカラー”のこのネイビーとホワイトのモデルを履いて出場 したことが世界的に知られるきっかけとなった。

「最近ではスニーカーのコレクターは全然珍しくないけど、25年とか30年も前から集めているやつらは別格さ。NIKE自体が、そういう文化が存在すると気付く前からとっくにコレクションしてたんだから」とロンは言う。

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ロンによると、ケープタウンの最初期の熱心なスニーカーヘッズたちは、アトランティック全域からケープタウン南部のスラムまでスニーカーを求めて駆け巡ったという。インターネットやソーシャルメディアの普及で、最新のスニーカーが簡単に見つかるようになる以前から、バブルヘッズらのスニーカーへ対する需要は相当のものだった。そして透明なソールへの揺るぎない欲求は、このコミュニティ内で今も燃え続けている。

「バブルは一種の現象だ。今の子たちは、父親世代が履こうとしていなかったような靴を欲しがる。どこにも売られていない靴を写真で見て、それが欲しいと言うんだ」とロゼイは言う。

ケープタウンのスニーカーシーンのことをロゼイは“超越の文化”と呼ぶ。昔の時代の思い出として、そして世代から世代へと受け継がれる贈り物として存在する超越の文化なのである。一部のエアバブルソールが経年劣化でポロポロと崩れやすくなることは、Bubble Koppeのインスタグラムアカウントにも投稿されているとおり、十分に知られていることだ。しかし、ケープタウンのように乾燥した気候の土地に住むロゼイを含めたバブルヘッズらは、それを気にすることなく買い続け、シューズコレクションという名前のゲームを今でもプレイし続けている。さらに最近のNIKEからは魅力的なレトロモデルも発売され、さらに集めたいスニーカーが増えている。

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現在のスニーカーシーンでの重要人物といえばリヤド・ロバーツ(Riyadh Roberts)だ。YoungstaCPTのラッパー名で活動する、ケープタウンで最も有名で、数多くの作品を生み出しているヒップホップアーティストである。今年は30作品目のミックステープ『To Be Continued』の発売とソロデビューアルバム『3T』のリリースが控えている。彼の最近の曲『Yasis』と『Wes-Kaap』のミュージックビデオはYouTubeで何十万回の再生回数を誇る。ローカルアーティストではとても多い数字だ。ロバーツによると、ケープフラッツのバブルロッカーらは、スニーカーというものを使い、実質的な意味においても比喩的な意味においても自らを高揚させているのだという。エアクッションにより踏み出す一歩一歩が軽快になることで、自分にもかっこよくなる資格があるんだという気持ちを思い起こさせるのだ。

「俺たちはずっと見下され、虐げられ、忘れられてきた。それでも俺たちはkak(アフリカーンス語で“shit”の意)から這い出て金持ちやエリートよりもいいなりをするんだ。秀でていたいと思うのは人間の自然な欲求さ。バブルのおかげで、天にも昇るような気分になれる」とロバーツは言う。

Highsnobiety / Imraan Christian
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ロバーツは、Unwanted_Kicksのインスタグラムアカウントでデジタルコミュニティとスニーカーストアを運営している。わずか5足から始まったこのストアだが、今では月に50足以上を売り上げている。共同設立者であるヤヤ・ジェフ(Yaya Jeff)も、自分が扱う製品が単なるスニーカーではなく、パブリックイメージを高めるためのスタイルのな入り口だと認識している。だからこそ客も、実生活を差し置いてスニーカーを手に入れようとするのだ。

「ケープタウンの有色人種コミュニティには食べるものも少なく、あるのは最低限の暮らしだけだ。でもストリートのかっこいいものや服、特にフットウェアのこととなると、食べ物をさらに削ってでも、一番高いスニーカーを履こうとするくらいそこに全力を注いでいるんだ」とジェフ。

こうした不屈のスワッガー精神は、ビジュアルアーティストのイムラーン・クリスチャン(Imraan Christian )の写真からも垣間見える。彼の作品は、大学の授業料高額化に対して、2015年に南アフリカの学生が起こした『Fees Must Fall』と呼ばれる抗議運動を捉えたドキュメンタリー写真だ。これが世界の目に触れ、スポーツウェアの巨大企業 であるNIKEとadidas(アディダス)とのサポートを得るきっかけとなった。そしてクリスチャンは、地元民がどのように働き、たくましく生きているかという現状を世界に向け開示した。

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2017年、クリスチャンは90年代のEQTシリーズ復刻キャンペーンをadidasと発表した。彼がモデルに選んだのは、アパルトヘイト終結後の南アフリカに生まれた“born free”(生まれながらにして自由な)と呼ばれる世代。生まれながらに自由であるということは、どのような意味を持つのか。クリスチャンの作品は、最先端のスタイルやスニーカーカルチャーの中に身を置きながら、南アフリカで最も貧しく、最も恵まれていない環境にある有色人種の人々の最先端と逆行するような姿を露わにした。彼はadidasという巨大企業を引き連れた先導者、そして地域のクリエイティブな人たちが必要とするサポート役も果たしたのだ。

同年、クリスチャンはNIKEと『Highsnobiety』とパートナーシップを結び、ケープタウン都心のゴルフカル チャーや、これまで参加が許されなかったスポーツの開放を訴える“born free”世代のリーダーとして、自身の役割を確固たるものにした。

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2013年にザイド・オスマン(Zaid Osman)とテボゴ・モゴラ(Tebogo Mogola)によって設立されたSneaker Exchangeはダーバン、ケープタウン、ヨハネスブルグで行われるアフリカ最大のスニーカーイベントで、3,000人近くを動員している。5年前に開催された1回目を振り返り、ケープタウンがまさに理想的な場所だったとオスマンは説明する。それは、最上級で一番珍しいスニーカーを求める文化が根付き、この場所は常にスニーカー集めに勤しむような熱心なコレクターたちの温床となっていたからだ。

世界各国で行われている他のスニーカーイベント同様、Sneaker Exchangeもエキシビションとコレクター 同士の会話、または交換の場となっている。参加者らは膨大なコレクションを持ち込んで自慢し合い、履いてきたスニーカーを見せつけ、さらに限定スニーカーがとんでもない値段で取引される。このイベントは世界初ではなくとも、新旧のスニーカーヘッズを魅了し、南アフリカにおけるスニーカーシーンがどれだけ発展を遂げたのか物語っており、その動員数も毎年伸び続けている。

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スニーカービジネスが成長し続けるにつれ、ケープフラッツのバブルヘッズらが共通して持つ情熱はさらに増している。貧困や失業、ギャングらによる暴挙の続く地域だが、男女問わずこの多様なコレクターシーンは、ポジティブな共通アイデンティティを生み出しつつある。彼らが現地語で“takkies”と呼んでいるスニーカーへの愛は、単に“生きる”ことではなく、彼らを取り囲む状況を打破する希望であり、人生への賛美であるのだ。

“We dala what we must.”とは、南アフリカのスラングから取った一文で、Unwanted Kicksのヤヤ・ジェフが座右の銘としている言葉だ。おおよそ訳すなら、「直感にのみ従え」とか「楽しいことが一番」という意味になる。これこそが、ケープフラッツに住む人々が人生を歩んでいく姿勢なのだ。バブルソールに包まれたその足で、一歩、また一歩と。