FENDI(フェンディ)は今回のコレクションで、新しい肌をまとった。

2027年春夏コレクションの出発点となったのは、E・E・カミングス(Edward Estlin Cummings)の詩「I like my body when it is with your body」。服よりも先にある「身体」に目を向け、ランジェリーやレース、透ける素材を重ねながら、下着とアウター、男性性と女性性、隠すことと見せることの境界を曖昧にしていく。今季についても、身体を起点にシアーなレイヤーやランジェリードレッシングを展開したコレクションとして報じられている。

なぜ、マリア・グラツィア・キウリ(Maria Grazia Chiuri)は「身体」まで戻ったのだろう。

彼女は長い間、ファッションを通して女性について問い続けてきたデザイナーだ。Dior(ディオール)初の女性アーティスティック・ディレクターとして発表した2017年春夏。そのランウェイには、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ(Chimamanda Ngozi Adichie)の言葉を掲げた「WE SHOULD ALL BE FEMINISTS」のTシャツが登場した。以降も女性アーティストや作家の言葉を取り込みながら、歴史的に形成されてきた女性像を問い直してきた。

そこでは常に、「女性」が主語だった。

女性は何を着たいのか。女性の身体をどう解放するのか。そして、女性は誰によって定義されるのか。コルセットによって形づくられたDiorの歴史的な女性像を柔らかく解体し、身体を締めつけるのではなく、その自然なフォルムを生かすことも、キウリの仕事のひとつだった。

しかしFENDIにきた彼女は、その「私」を少しずつ手放しているように見える。

チーフ クリエイティブ オフィサーとしてのファーストコレクション、2026-27年秋冬で掲げたのは「Less I, more us」。共同すること、意図や欲望を共有すること、そして他者を理解し受け入れることを、FENDI自身がそのステートメントとしている。

続く2027年リゾートでは、その「US」がワードローブへと移った。男性と女性が同じ服を共有する「SHARED WARDROBE」。キウリ自身、それをFENDIにおける重要な柱と位置づけている。女性服と男性服を同じにするというより、「この服は誰のものなのか」という境界そのものを緩めていった。

IからWEへ。
WEからSHAREDへ。
そして今季、ついにBODYへ。

その流れで考えると、今季の下着は単なるセンシュアリティの表現ではない。

下着とは、身体に最初に触れる服だ。ジャケットでもドレスでもスーツでもない。職業や階級、社会的役割、男性服/女性服といった意味をまとっていく、その一歩手前にある。

キウリはFENDIで一枚ずつ服を脱いできたのではないだろうか。「I」を脱ぎ、服に与えられたジェンダーを脱ぎ、そして今季、服そのものを脱いで下着まで戻った。その先に残ったのが、男性でも女性でもない「身体」というゼロ地点だった。

だから、これはジェンダーを「ニュートラル」にしたコレクションとも少し違う。

レースもある。ランジェリーもある。透ける肌もある。男性性も女性性も、パンクもブルジョワもある。女性性を消して中性的にするのではなく、女性性を女性だけのものにしない。男性性を男性だけのものにしない。身体をゼロ地点に置くことで、それらをもう一度、自由に選び直す。

そしてカミングスの詩に戻る。「I like my body」ではない。「I like my body when it is with your body」。

自分の身体だけで完結するのではなく、他者と接触することで、知らなかった自分の身体が立ち現れる。その「WITH」という関係性は、会場そのものにも仕掛けられていた。鏡に囲まれたランウェイを歩くモデルを見ると、そこには服を着たモデルだけではなく、それを見る自分や隣にいる誰かまで映り込む。見る側と見られる側、私と他者。その境界もまた揺らいでいく。

今季、FENDIは衣服を感情に対して開かれた「第二の皮膚」として捉えている。皮膚とは不思議な境界だ。私とあなたを分けながら、私があなたに触れる場所でもある。

Diorで「女性とは何か」を問い続けたキウリは、FENDIでその問いを捨てたのではない。むしろ、その問いを突き詰めた先で、「女性」という主語さえ一度脱いでみたのかもしれない。

FENDIは今回のコレクションで、新しい肌をまとった。それは身体を閉じ込めるための皮膚ではない。異なる身体、ジェンダー、感情、そして他者を通しながら、何度でもその姿を変えていく皮膚だ。

マリア・グラツィア・キウリのFENDIは、ようやくこのゼロ地点から始まる。