キャップに脱帽。
少し紛らわしいベースボールキャップに賛辞を。
先週のヴェネチア・ビエンナーレで見た、ビョーク(Björk)によるなんとも奇妙で楽しげなDJセット——BOTTEGA VENETA(ボッテガ・ヴェネタ)のファイバーグラス製のドレスに、マイア・ハズバニー(Myah Hasbany)の巨大な豆型バラクラバを合わせた姿——を見ていて、私はヘッドウェアについて考え始めた。中でも、ベースボールキャップについてだ。年中被れる数少ない帽子でありながら、その実用性やメッセージ性は私達が思う以上に大きい。

ベースボールキャップの最も実用的な役割は、寝癖や後退した生え際など、隠したいものを隠してくれることにある。だが、個人のスタイルにおいて果たす役割という点では、これに匹敵する帽子はない。というのも、クラシックなベースボールキャップとは、いわば自分自身を発信するためのツールだからだ。スポーツチームへの忠誠心であれ、ブランドやバンドへの愛着であれ、旅の思い出であれ、あるいは(現実か空想かはさておき)母校への帰属意識であれ、ベースボールキャップはそうしたメッセージをさりげなく伝えてくれる。その主張は決して控えめではないが、どこか気負いのない雰囲気によってほど良く和らげられている。むしろ最近では、ベースボールキャップは語らなければ語らないほどかっこいい(Loro Piana(ロロ・ピアーナ)のカシミアキャップ、まさにそれのことだ)。
私はむしろ、少し多義的なベースボールキャップこそ、自己表現にはちょうどいいと思う。例えば、私が何より大切にしているキャップがある。約10年前、当時別れたばかりだった恋人と訪れたリッキ・リー(Lykke Li)のライブ会場で買った、黒色(いまでは色褪せて茶色になっている)のキャップだ。そこには今も「So sad, so sexy」と書かれていて、“sad” の部分には、それを打ち消すように一本の線が刺繍されている。それは、この意味が分かる(ファンの)女の子達に向けた、暗号のようなメッセージだ。アルバムのお気に入りの曲について語り合うきっかけになる、いわばバットシグナルのような存在なのである。一方で、それ以外の人が見れば、単に私が憂鬱フェチなのだと思うかもしれない。両方とも本当のことだってある。
面白いフレーズ、政治的立場、あるいは裕福さをほのめかすこと。人々はベースボールキャップが持つ表向きの意味と、その裏にあるメッセージの両方で遊ぶのが好きだ。例えば、MoMA(ニューヨーク近代美術館) × New York Yankeesのキャップを被っている人の多くは、実際にはニューヨークを訪れたことすらなく、ましてやニューヨーク近代美術館に足を運んだこともないだろう(ヤンキース戦を観戦したことがある人はさらに少ないはずだ)。もとになったシンプルなヤンキースキャップはベルリン空港でも販売されているし、LA Dodgers版も同様だ。この事実こそ、私の主張を裏付けている。背景にある心理は、TRADER JOE’Sのトートバッグが流行した理由と何ら変わらない(しかも、その多くはTRADER JOE’Sが出店していない国々での話だ)。本来単なる記号だったものがステータスシンボルへと変わったとき(しかもリセールバリューまで伴って!)、流通の世界では妙なことが起こる。もっとも、そのおかげでファッションやスタイルについて語る私達は、分析すべき題材が尽きないのだが。
ベースボールキャップがこれほど説得力のあるアイテムである理由は、そのメッセージがあからさまであれ暗号的であれ、ユーモラスであれハイテクであれ、とにかく気軽に被れるからだ。PRADA(プラダ)のストロー製ヘッドピースや、NAMACHEKO(ナマチェコ)のセーラーキャップ、あるいはジョン・F・ケネディ・ジュニア(JFK Jr.)風のKANGOL(カンゴール)のニュースボーイ型ベレー帽のような一癖あるアイテムを被りこなすには、それなりの度胸が必要だ。その点、いいベースボールキャップには、バケットハットやスナップバック、トラッカーキャップなどにはない安心感がある。実用性と自己表現をひとつに兼ね備えたアイテムであり、まずハズすことはない選択肢なのだ。
- Words: Maximilian Migowski





