尾花大輔が語る
N.HOOLYWOODの信念
今やストリートはカルチャーと切り離され、完全に流行と化した。ランウェイからミッドトレンド層へ、そして末端のマスへと浸透し、その成熟期もとうに過ぎた。新たなブランドが次々と生まれる今日、そこに秩序やモラルは存在しない。明らかに文脈から逸脱したコラボレーションや、凡愚なその内容がさらに流れを助長している。もしかすると、デザイナーやブランドですらも次の着地点が見つからず、ストリートに変わるトレンドやキーワード、または指針を探し求めているのかもしれない。しかし、ファッションとはトレンドが全てではない。むしろ、そこに埋もれてしまう危険がある。個人の発信力がますます影響力を持つようになってきた現代では、昔ながらの体系は淘汰されるかもしれない。そうなった時に生き残るのは、強いアイデンティティや自身の哲学を存分に体現できる強者。N.HOOLYWOOD(N.ハリウッド)を率いる尾花大輔もその一人である。ワークウェアと真摯に向き合い、時にはトレンドに逆行しながらも、本質を見失わず、常に自らの原点に正直なデザイナーである。
現在のファッション界における、“良い部分”と“悪い部分”とは何でしょうか?例えば何でも安く手に入る一方で、労働環境の問題などが挙げられます。
いきなり難しいね(笑)。良い部分で考えると、芯がしっかりしている人やクリエイター、ブランドの場合、そのグループや個人らがマイノリティであってもしっかり輝ける。自分自身をきちんと見つめ、結果を求めていくと、相手にもつながる世の中になったと思う。人間本来の正しい在り方みたいなのが結果として直結するところが良いところなのかな。今は圧倒的な情報社会で、昔に比べると中間に介在するもの、言わばまやかしが少なくなってきている。例えばこのインタビューも、僕が話したことが一度咀嚼され、編集されて書かれていくでしょ。そうすると生の意見ではない。だけど、今は自分で情報を発信できるから、一番生っぽい自分を伝えられる。そういう意味では、現代の情報発信ツールを上手く使うことにより、自分らしさをどんどんアピールできるという面はすごく良いよね。
一方で、良くないかどうかは分からないし、ある意味で、たった今肯定していたことを否定することになるかもしれないけど、2000年にブランドを始めた頃はさまざまなブランドが出てきた。僕らはメディアの方とも良い関係にあったから、自分たちの持っている強みをさらにメディアの方がブラッシュアップしてくれた。だからこそ、強靭なブランドとしての立ち位置を作れたのも事実。だけど昨今、個人での発信がよりアクセスしやすいものになったから、数多くのブランドが彗星の如く出てきては、消えていく。確かに一貫してアイデンティティがブレることなく、ハイブランドと一緒に組めるようなデザイナーもいる。良い悪いの意識があるかは別として、しっかりそこを調整しているから、彼らはあの場所に君臨しているんだと思う。コンセプトや技術、ビジネスのどれか一つに偏っていては生き残れないし、それを自然にやっているよね。昔だと、そういった存在はいなかったかな。今はデザイナーは自らSNSで発信しつつも、さらにメディアを通して、媒体の形を問わずに面白くクリエイションを見せている。それぞれのメディアに対して適した方法、しかも立体的なアプローチでね。そういう人が認められて当然というか、そういう時代になったんじゃないかと思うよ。
特にメンズウェアにおけるトレンドはストリートがデフォルト化しています。しかし、尾花さんは流行に左右されることなく、トレンドからも一歩引いて冷静に見ているように思えます。ご自身が貫いているモットーはありますか?
現代だと完成度の高さよりも、その人のアイデンティティが重要視されて、誰がタギングした服なのかという風潮になっている。例えば、ヴァージル・アブロー(Virgil Abloh)は流行を作り出しているけど、全員がLouis Vuitton(ルイ・ヴィトン)の服を買えるわけじゃないよね。個人のブランドでも、素晴らしい服がたくさんあるけど、実際はランウェイのショーで披露されたプリントTとか、ロゴが付いている分かりやすいアイテムの需要が高い。これはしょうがないことで、ブランドへの入り口となるし、ファッションとしての成熟期をとうに超えてしまった世の中だから。
年を重ねると、単純に着飾る意味でのファッションは難しくなる。なぜなら、それはその人の年輪が出てくるから。だけど本当にストリート出身で、自ら重ねてきたもの、ストリートで実際に自分が関わってきたブランドがあって、そのブランドと一緒に成長してきた人たちは違うと思う。僕の場合だと、歴史がある服や古着だね。ディテールを細かくチェックするところから始まるから、自分のデザインルーツはすごく大事にしたい。その結果として、トレンドとフィットすることもあれば、逆行することもある。でも、それはどっちでもいいこと。なぜなら、自分が1番大切にしている“今”というものに対して発表しているから。周りから見ればすごく不安定に見えるかもしれないけれど、僕にとっては当然のことをしているだけ。そこが今、流行っているストリートブランドと我々のブランドの違いなのかもしれないね。
僕たちが作っている服には意思や思いがあって、単なる見た目やデザインにではなく、発信するメッセージや考えに共感した上で手に取ってもらえることを大切にしているからね。
2018–19年秋冬コレクションについて、“ファッションとして着る人たちとリアルワーカーとのワークウェアの異なる着こなし”とコメントしていますが、この違いとは何なのでしょうか?
ワークウェアって活動着なんだよね。メンズで考えたら、流行りも何もない当然のように誰もが一着は持っている服だと思う。なぜならスポーツウェアまでいかなくとも、着やすいし、汚れても平気で、乾燥機にかけても平気。しかもそれぐらいの最低条件を満たすと、結構みんな頻繁に着てしまうみたいな。けれども、ファッションでワークウェアを着ている人は、表層的に捉えている人が多いかなと感じている。アメリカでは本物のワークウェアをどういうふうに着ているかっていう探究心が湧いてきた。そこまで掘り下げて、真剣にワークウェアと対峙した人って、いそうであまりいないから。当然、表層的に見るからこそファッションとして成立しているんだけど、日本で売られていないワークウェアブランドについて純粋にもっと知りたかった。
今回コラボレーションしたTimberland PRO(ティンバーランド プロ)はまさにその例で、このラインは基本的にアメリカ国内限定、しかもプロ仕様のワークウェアを作っている。僕はロゴも然り、アイテムのデザイン、その他にもすごく共感できる部分があったから、このタイミングで一緒にやりたいなと思っていた。そうしたら、突然のオファーをTimberlandからいただけた。だったら、Timberland PROとプロダクトを製作したい。Timberland本体だと今自分が取り組もうとしているテーマにフィットしていないから、それはできないと正直に話したよ。そうしたらTimberlandチームが僕のコンセプトを理解してくれて、素晴らしい対応をしてくれたから、1年の間でかなりの物量、しかもレベルの高い基準を満たしたワークウェアを作り上げることができた。
例えば、スケーターが本物のワークウェアを自分流に着てるからかっこよく見えると思うんだよね。リアルスケーターならまだしも、スケーターですらない人が着ると、全部がぼんやりしてしまう。「何着てるの?ただ着てるだけじゃん」って。リアルに使われているものを着崩すからワークウェアはかっこいいんだっていう、二段階のプロセスを経たような感覚を持ってもらうと、より深みがでるんじゃないかな。
それがこの2018–19年秋冬コレクションで僕が表現できればいいなと思ったこと。おそらく多くの場合、ワークウェアは上澄みだけがインスピレーションに使われている。実際にその現場に赴いたからこそ、リアルなところを拾ってランウェイに落とし込んでいる。その作業の違いが大きな差異かもしれないね。
本来ならば機能面が重要視されるワークウェアをあえてデザインする意味とは?
ワークウェアブランドがワークウェアを作るのは当たり前だよね。それにファッションブランドやデザイナーが、どこかのユニフォームを作るケースも意外に多い。だけど、それはランウェイへ向けたものではなく、結局はデザインをした現場向きの仕事着。僕があえてショーに送り込むことや、そのプロセスが分かるジャーナリストには、ワークウェアの切り取り方や向き合い方が新しいと思ってもらえていると自負はしているよ。
最近ではカルチャーやコミュニティから派生したのではなく、流行に乗っかっているブランドがあるのかもしれません。
やっぱりファッションって面白くて、いろんなレイヤーがある。上も下も、良い悪いもないけど、ラグジュアリーブランド、僕たちのようなミドルブランド、そしてインディペンデントブランドやストリートって分かれているよね。今、ストリートがトレンドになって見えてしまう理由は、いわゆるラグジュアリーブランドが大きな広告を使うから。そこに注がれる時間も費用も莫大で、どうしてもメディアだってフォーカスしてしまう。だけどそれについて否定はできないよね。
その中で、マイノリティなカルチャーを経験してきたデザイナーらが、影響力あるブランドのクリエイティブ・ディレクターに就任する。そして、それまではありえなかったことだけど、ラグジュアリーブランドにそのカルチャーを組み込んでいく。だけどそこにはリアリティがあって、なおかつその流れが続いている。いつの間にかそれが基準になってしまって、さらに同世代の精通してる人がまた始める。すると80年代や90年代のロゴ消費とは全く違って、深みがあって良く見えるんだ。だけどそれに感化された若者たちがイミテーションっぽく、適当にロゴもウェブサイトも作って発信する。そういった動きが多くなってしまったから見分けが付かなくなり、全て一緒に見えてしまう気がする。
一方で、全くブレずに自分のビジョンを持ってやっている層もいる。それ以外は極端な言い方をすると、昔のコピーブランドとなんら変わりない。昔の裏原でも、NIGO®(ニゴ)さんや藤原ヒロシさんの後に続くかのようなブランドがたくさん出てきたよ。昔は情報がなかったから、誰と知り合いだとか、これは限定だからとか、ストリートでの情報に揺さぶられていた。そうすると、意外にそういったブランドが売れたりとかして。でも、当時から筋を通してやっていた人たちは、しっかり今でも前進している。丁寧に紐解いて考えると、あの時のこと、その背景があって今があるんだと。それがファッションのトレンドとマッチしているかは別としてね。真面目に自分の好きなことを追求して、過去の積み重ねがあってこそ今があるっていうか。当然、僕らもファッションビジネスだから、お金に換える部分もしっかり考えるけどね。
例えば、『Highsnobiety Japan』と今年4月にTシャツを作った時に、まずは何を要求されているのかを考えた。僕らを信頼してくれた上での依頼だから、簡単にダブルネームのプリントはできなかった。自分のブランドがそうじゃないっていうことを知ってもらっている状況で、やらなきゃいけない使命があるなって。ドイツ・ベルリン発の雑誌だと聞いたあと、すぐさま17年前に見たラブパレードを思い出したんだ。ベルリンというキーワードが引っかかっていた時期だった。昔、流行ったフォントやレイブシーン、その時代感や当時をイメージさせる何かを日本語で表現したかったんだ。
何が言いたいかというと、僕らはロゴブランドでないけど、プリントTシャツを短時間で作らなければならない。そういうミッションに対して、こういったプロフェッショナルな動きができるのは、おそらく僕たちのように長く続いているブランドならではの強みなのかなと思う。そういった部分を大切にやっているよ。デザイナーなのに受け身の仕事がどんどん増えていくと、自分を見失ってしまうからね。今の若いクリエイターはそこに左右されがちなのかな。ブレずに自分のスタイルを貫く、だけどある程度“ギブ&テイク”というか、バランスは重要だと思うよ。
ファッション業界はさまざまなコラボレーションで溢れています。 ただロゴや色を並べたようなものも多いですが、 本来コラボレーションとは何のためにあると考えていますか?
誰のアイデアにも限界はあるし、誰でもある程度固定観念を持ってしまうよね。だからそこで、異業種でもいいから、ケミストリーをおこしたときに「あ、すごく面白いよな」とか思えるのが本当にシンプルなコラボレーションの姿、意味合いなのかな。もう少し目的意識を持ったコラボレーションもあるよね。例えばある技術に対して、また別の技術を組み合わせたり。もともと、僕は減らす作業のデザインの方が得意なんだけど、ソリッドなもの、誰かがやったことに対して乗せる作業の方が簡単。それを見て欲しいと思う人は買うべきだし、プロダクトに落とし込まれた考えを買うのかはその人次第。響きや見た目が魅力的だとか、いろいろなケースがあるから、何がこうじゃないとダメだっていうのは一概には言えない。だから本当はメディア、発信する側がフックになるような表現の仕方をしないと。編集力はそれぞれの媒体が持っているはずだから、独自の良さが成長していくと面白いし、どういった特性を持つかによっていろいろ変わるだろうね。
何がコラボレーションブームを助長しているのでしょうか? ブランド、メディア、または消費者でしょうか?
巨大企業はコラボレーションだけでなく、インラインの生産量も多いよね。メガブランドは競合もいないし、ある意味実際に自分たちでマーケットを見ながら、各々切り開くしかないから、ばら撒いたり引いたりを繰り返して、いろんなことやっているんじゃないかな。だから誰が悪いっていうのもないし、それがリリースされるのを本当に毎週楽しみにしている人もいる。
2019年春夏コレクションについてお聞かせください。なぜ、アメリカ・アリゾナをインスピレーション源にしたのでしょうか?
コレクション発表を毎シーズン日本でやっていた頃は、半年に一回しかアメリカに行けなかったから、さまざまな本やビデオ、音楽からテーマを見つけて、ある時期まではそのテーマに沿った旅をしていたんだ。でも、何十回もやると、あれが見たい、これが見たいって意識しすぎて柔軟さがなくなっていった。もっと自由に、アメリカだけに固執せず他の国にも行ってみようと思って、この前はオランダ・アムステルダムに行ったよ。今回はなぜアリゾナかというと、テーマというより見たいものは見ておきたいと思って。セドナ周辺、スコッツデールの辺りのカフェとかね。
ここ数シーズンは、旅で見た断片的なものを全部一つにまとめることをやっている。街にいる普通の人の状況を見たりするのも大切だと思う。テーマがなくても、行ったことのないところ、もしくは行ったことはあってもよく見てないところ、そういったところに単純に行こう、そこで知ったものを全部かき集めて一つのものにしよう、そうしたらどんなものができ上がるだろうって。それが服作りに顕著に表れたのが今シーズン。
例えばデザインの中で消化できない、自分が撮ったお気に入りの写真はプリントTシャツにしたり。90年代は当然のように自分の周りにレイブカルチャーがあったんだけど、今冷静に見たらどうかなって。昔は毛嫌いしてたけど、アリゾナにはその文化の名残があって、そういうものを見たりして面白いなと。他にもネイティブアメリカンが多く居住していたエリアもあるし、現地のミュージアムでT. C. キャノン(T. C. Cannon)の素敵な絵と出合えたり。それらの要素と現代、そして僕だけが見た景色、その全てが交わり合いながら服に一つとなって重なった。ある一つのテーマだけを追いかけるのだと、みんなが調べるとすぐに分かってしまうよね。その世界の中だけで完結してしまって、オリジナリティがないんじゃないかと自問し続けてきた。だから旅に出て見たものを全部圧縮すると、僕にしか表現できないことになる。そうすると〇〇風にはならないでしょ。今は素直に見たものを形にしていくのがスタイルかな。
日本では現在、アメリカの排他的な動きが盛んに報じられています。 コレクション発表を行ったりする中で、 例えば、白人至上主義などは肌で感じるのでしょうか?
政治的なことって、実は街中にいるとあんまり分からないんだよね。ファッションシーンで考えたら、唯一言われるのは“ダイバーシティ”。質問されたように白人至上主義だったら、白人にへつらいさえすればいいと思うでしょ。そうするとバッシングされる。黒人モデルを起用しないと黒人差別になると言われる。特にファッションは人種も何も超えて、クールだったらそれが全てなはずなんだけどね。
最近、アメリカ・ニューヨークでストリートブランドをやっている人たちって、半径1km以内の仲間にクールだって言われればいいみたいな感じがある。その人たちと何か共有して、一緒に服を着ようとか。服が一番前に出るような表現をしている人も、だんだん少なくなってきている。何かそこに意味があるから、そこのカルチャーに所属して着るからクールだねって。ファッションだから何とも言えないんだけど、そこを無視してただ単にロゴを入れる人もまだ日本にはいるね。自分たちや自分を理解してくれる人と、とてもゆっくりやっていくスタイルがかなり多いと思う。あれは見てたらすごく面白いよ。そこのカルチャーに入らないと、ただ服を着ているだけで恥ずかしいみたいな。彼らのほうが幸福度数は高いのかもね。
N.HOOLYWOODのショーモデルは多様な人種で構成されています。また、ストリートキャスティングも多いように見受けます。何か意識的に率先してされているのでしょうか?
日本でまだショーをやってた頃から、女性のモデルを起用したり、性別や職業に関係なく起用してた。その子がレズビアンやゲイだとか一切気にせずにね。成熟期を超えてしまったいろいろな国さえも呑み込んでしまうニューヨーク。そこを軸に考えたら、現地で生活する人は自分にとって何が心地良いか、面白いかが重要なわけで。ただ単純に人を好きになり、そこにはセクシャリティに対する意識はないんじゃないかなって感じるぐらい、美しくてかっこいい。そもそも僕も人が好きだから、性別に関係なく、人として魅力的だからショーに出てもらう。性別という概念に対して、今は確実に違う感覚を持っている。それが見えてくると、モデルのピックアップの仕方が変わってくる。長年やってきたストリートキャスティングにおいてもね。
だけどLGBTばかりがフォーカスされて、その他の僕らもケアが欲しいと思うこともある。僕らがLGBTに対して配慮がないんじゃないかって、一方的に言われたり。ニューヨークはやっぱり進んでいるから、全員に対して良くしていこうっていう流れや空気は感じる。日本だと「弱いものに対して優しくあれ」だけど、この弱者というイメージを付けること自体が僕は差別だと思う。性別などに関係なく心遣いで行動するのが本来の“心”でしょ。わざわざカテゴリ分けする必要はなくて、フラットに“人間”というふうに考えないといけない。もうこの時代では、「そういう差別をしないように」っていう差別を止めなきゃね。そういった意味で、アメリカは人種や愛に対する考え方がすごく進んでると思う。自由な恋愛をしたり、愛を共有したりね。最近はそういった人たちと話す機会が多くなったから、もっと話したいし、もっと知っておきたい。彼らからは未来の人間のあり方に近いものを感じる。そこにまた違う美しさも存在していて、ニューヨークはそれを一番ダイレクトに見られる気がするよ。
今後もニューヨークでコレクション発表を行うのでしょうか?
特に決めていないのが事実かな。これからどうなっていくかは考えているけど。そもそもニューヨークで最初にコレクションを発表したのも、ある日目が覚めて、ハッとして行こうと決めたから。もともと石橋を叩きまくって割るぐらいすごく慎重な性格なんだけど、なぜかその時はパッションで決めたんだよね。自分の中で気持ちが高ぶって、みんなにニューヨークでやるって宣言した。それを言った後にやっぱりダメなのかどうか、どうなるか見たかったんだと思う。当時は、ニューヨークコレクションのタイミングも全く把握していなくて、4カ月後だったんだけど。大きい会社ではなかったから、組織力よりも自分の力が必要だったよ。だから行動力を高めるという意味では良いタイミングだったかなって。
私たちの読者にはユースと呼ばれる層が多くいます。現代の日本の若者に対してどう思いますか?
さっき話したアメリカのスモールコミュニティもだけど、日本人の若い子たちも本当に小さく楽しくやっているように見えるよ。どうなんだろうね。情熱がないとかよく言われるみたいだけど、これだけの情報に埋もれていたらしょうがないのかもしれない。熱くなる瞬間を見逃しちゃうよね。携帯の画面を通して感情が動くわずかな瞬間はあっても、人から話を聞いて感動する機会ってどんどん少なくなってるでしょ?今って、「へぇ」って思っても、次の会話になる前に「何それ」って調べちゃうでしょ。そこに関しては、自分も確かになくなっちゃっているかもね。でも、だからこそ、やれなかったこと、行けなかった場所に行くと、前以上に感動して、逆にピュアになってきているかも。パッションがなくても大丈夫だよ(笑)。
- WORDS: TAKAAKI MIYAKE
- PHOTOGRAPHY: YUKI KUMAGAI
- COLLECTION PHOTOS: AKIKO HIGUCHI & SATOSHI MOTODA