sneakers
From the ground up

Getty Images / Focus on Sport

@nikestoriesの中でドリュー・ハメル(Drew Hammel)は、Jordan Brand(ジョーダン ブランド)の背景にあるストーリーや独創的なシルエットの全てを紹介している。今回は、Air Jordan 2(エア ジョーダン 2)についてである。

エレガント。洗練。フォーマルなスニーカー。

これらは、Nike(ナイキ)が1986年12月に発売した2つ目のアイコンスニーカーについて語ったことである。初代Air Jordanとは全く異なり、Swoosh(スウッシュ)はどこへ行ってしまったのかと皆疑問に思った。

この真っ白なモデルでは、Jordan Wings(ジョーダン ウイングス)のために、Nikeのロゴを取り去った。その価格は、Air Jordan 1(エア ジョーダン 1)の65ドルというお手頃な価格から100ドルという目を見張るほどの価格まで跳ね上がった。これには理由があった。

Nikeの戦略は、最高品質の素材を用いたエクスクルーシブなスニーカーを作ることであった。Air Jordan 2のプレミアムレザーを使用したアッパーが、履き慣らす必要のない快適性と強度を実現した。イグアナのフェイクレザーを起用しエレガントをプラスしている。Air Jordan 2がイタリアで製造され、発売から2ヶ月間のみ19都市30店舗のみで扱うことで、限定感を打ち出した。

Air Jordan 2 は白のローカットと白のミッドカットの2型があるが、Air Jordan 1は20色以上の展開となっている。Air Jordan 2は、黒のミッドソールとシューレースの“アウェイ”カラーと白に赤のアクセントが入った“ホーム”カラーと呼ばれている。

 

View this post on Instagram

 

2 for 2sDay ✌️ #1987 #airjordan2 #nike #vintage #madeinitaly??

A post shared by @ bigbostrong on

Air Jordan 1は、マイケル・ジョーダンがChicago Bulls(シカゴ・ブルズ)でデビューしたシーズン終わりの1985年4月に発売された。しかしその年の秋までに、当初の驚異的な売れ行きは、下降し始める。ジョーダンは怪我によって翌年の1985-1986シーズンの全試合を欠場し、それと時を同じくして他の複数ブランドが、Air Jordan 1を真似た赤、黒、白のモデルを発売した。

マイケル・ジョーダンの当時の怪我が、Air Jordan 2をそのシーズンにリリースするという戦略の妨げになったかどうかは定かではないが、足の骨折から復帰した1986-1987 シーズン中にAir Jordan 2が発売しているのにも関わらず、初代Air Jordan 1を着用していた。当時のスポーツ業界のマーケターは、価格とデザインに対して疑心暗鬼になっていた。

Air Jordan 2のデザイン責任者は、Air Jordan 1の立案者ピーター・ムーア(Peter Moore)とAir Force 1(エア フォース 1)のデザイナーのブルース・キルゴア(Bruce Kilgore)の二人であった。二人とも身を粉にして働いたが、Air Jordan 1の成功を超えることは不可能に近かったのだろう。

Air Jordan 2 が発売される前に、初代のアッパーをAir Jordan 2のソールに組み込んだ試験モデルが、ジョーダンが怪我から復帰をした年に履いていたハイブリッドモデルである。その他にも、発売されたAir Jordan 2とはかけ離れたプロトタイプの製造を繰り返していた。ローカットバージョンのプロトタイプは、Chicago Bullsのチアリーダーのために作られたが、ジョーダンが実際に履いたものは若干クラシックなシルエットであった。

イグアナのフェイクレザーと高品質のレザーを使ったアッパーに加え、Air Jordan 2は最高ランクの機能性も持ち合わせている。スピードレーシングシステムは、着脱の速さやフィット感を可能にし、少し高さのあるポリウレタンのヒールカウンターは、柔軟性と安定性を強化した。そして、ヒール部分のエアユニットとポリウレタンのミッドソールは、弾力性を最大化した。

マイケル・ジョーダンがその新しいモデルを1986年の夏に初めて着用し、Wieden+Kennedy(ワイデンアンドケネディー)によるNIKEのコマーシャルに登場した。ジョーダンの代名詞とも言える“Rock-a-baby”というダンクシュートをスローモーションで披露した後にナレーションが入る、「Air Jordan、想像を超えろ」。初めて公共の場でAir Jordan 2を着用したのは、1986年9月6日にノースカロライナのディーン・スミス・センター(Dean E. Smith Center)を讃えるためにに行われたノースカロライナ大学のOB試合で、UNC Colors(UNC カラーズ)の限定モデルであった。

当時23歳のマイケル・ジョーダンは、NBA(エヌビーエー)の1986-87シーズンに同モデルを着用し始めた。シューレースを上から二番目の穴紐まで通すのがお気に入りだった。また、派手なAir Jordan 2をバギーショーツに合わせていた。シーズン始まりに、「去年は36インチだったが、今年は裾を2インチ伸ばした34インチにしたんだ。」と、Sports Illstrated(スポーツ・イラストレイテッド)にて語った。

マイケル・ジョーダンは、自身の名前の冠した商品に熱心だった。ローランド・レーゼンビー(Roland Lazenby)の2014年の著書『Michael Jordan: The Life』の中での発言を引用すると、当時Chicago Bullsのアシスタントコーチであったジョニー・バッハ(Johnny Bach)は、「NIKEが作っていた全てのシューズをマイケル・ジョーダンが試着していた。自分の気に入った商品を誇りに思っていた。」と述べている。

Press / Nike / Jordan Brand via Todd Anthony

1986-87年に、シーズン初めの怪我で失った時間を取り戻す。New York Knicks(ニューヨーク・ニックス)とのシーズン最初の試合で、彼は50ポイントを奪い、アウェイとしてマディソン・スクエア・ガーデン( Madison Square Garden)での最高得点を記録した。ウィルト・チェンバレン(Wilt Chamberlain)に次ぐ1シーズンで3,000ポイントを獲得した選手となった。キャリアにおいて史上最高となる1試合平均で37.1ポイントを達成し、同シーズンに200回のボール奪取、100回のシュートブロック成功をNBAの歴史上初めて達成した選手となった。

NBAオールスターにも選出され、シアトルのスラムダンクコンテストでは、伝説的なフリースローラインからのダンクシュートで優勝し、NBAオールスターチームにも選抜された。しかしそのシーズンは、マイケルジョーダンとChicago Bullsの2年間続いたシーズンのプレイオフゲームのファーストラウンドで、Boston Celtics(ボストン・セルティックス)に追い越されてしまい期待はずれに終わってしまった。

ジョーダンは、基本的にAir Jordan 2でミッドカットの“ホーム”と“アウェイ”の2種類を1986-87シーズンの前期には着用しており、後期になるとそのモデルのローカットの2種類も着用するようになる。プレイオフの後、ノースカロライナ大学のOB試合に現れ、 Air Jordan 2 “UNC” Lowを着用した。

Getty Images / Focus on Sport

2017年にJordan Brand(ジョーダン ブランド)とConverse(コンバース)はタッグを組み、The 2 That Started It Allパックと名付けた2つのスニーカーのコラボレーションを発売した。このコラボレーションは、OB試合やノースカロライナ生まれとしてConverseを履いていた時代を讃えるものであった。不思議なことに、OB試合でのミッドカットモデルのAir Jordan 2 のヒールに刻まれた1987年6月28日は、前年に試合で着用したミッドカットの“アウェイ”ではなく、白とノースカロライナカラーである青のローカットを着用した日と同じだった。

Air Jordan 2のオリジナルモデルはもう処分されているという噂があり、1995年に初めて“アウェイ”がレトロエディションとして登場した時、そのミッドとローカットのモデルは、オリジナルと完全には一致していなかった。2004年には“アウェイ”のミッドカットのモデルがレトロエディションとしてAir Jordan 2 Retro- Black/Chromeと、white/university、そしてblue/maizeのカラーで再登場し、“ホーム”のローカットもAir Jordan 2 Retro Low white/midnightと、navy/university、blueのモデルのレトロエディションが登場した。新旧モデルと豊富なカラーバリエーションのAir Jordan 2が、2018年を通して復活を遂げている。

Air Jordan 2は、Jordan Brandモデルの中でも好き嫌いの分かれるモデルの一つであるが、マイケル・ジョーダンのキャリアが大きな影響を与えたと言っても過言ではない。NikeがAir Jordan 1で成功してすぐにデザインを大きく変えたことは、リスクを取れば利益になるという雰囲気を作り上げた。Air Jordan 2は最も人気のあるモデルではないかもしれないが、重要な節目であったことに変わりはない。そして、マイケル・ジョーダンがNBAで数々の偉業を難なく成し遂げた時に着用したシューズである。想像を現実にした時に。

OG 1986 Air Jordan 2

Nike Air Jordan 2 White/Red

Jordan

Nike Air Jordan 2 White/Red Low

Jordan

Nike Air Jordan 2 Prototype

Jordan

Air Jordan 2 Retros

Nike Air Jordan 2 White/Black/Red (1995)

Jordan

Nike Air Jordan 2 White/Black/Red Low (1995)

Jordan

Eninem x Nike Air Jordan 2 “The Way I Am”

Flightclub

Doernbecher x Nike Air Jordan 2 “Peacock”

Flightclub

Nike Air Jordan 2 “Collezione”

Flightclub

Just Don x Nike Air Jordan 2 “Quilted”/”Bright Blue”

Jordan

Just Don x Nike Air Jordan 2 “Beach”

Jordan

Just Don x Nike Air Jordan 2 “Arctic Orange”

Jordan

Nike Air Jordan 2 “Melo”

Jordan

Nike Air Jordan 2 “UNC” Low

Jordan