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Where the runway meets the street

ポール・スミスがイギリスファッション界に果たしてきた貢献は計りしれない。想像力豊かなデザインでスーツにかつてない革命を起こし、50年経った今も時代にメッセージを投げかけ続けている。

イギリスを代表するブランド「Paul Smith(ポール スミス)」の50周年を記念して、その軌跡を振り返り、アニバーサリーコレクションについても触れてみたい。

 

 

1967
ファッションデザイナー、ポール・スミスを誕生させたのは名門ファッションスクールでも有名ブランドでのインターンシップでもない。ある1人の人物だ。

17歳のとき自転車事故で負った怪我の療養中、スミスはノッティンガムのアートスクールに通う学生達と親睦を深めるようになった。スクール開催のダンスパーティーでスミスが出会ったのが、ロイヤル・カレッジ・オブ・アートのクチュールファション卒、当時ノッティンガムで講師を務めていた、現在の妻、ポーリーン・デニア(Pauline Denyer)だった。

日本語の内助の功と同じく、英語にも「偉大な男の影には必ずもっと偉大な女性がいる」ということわざがあるが、まさにそれを体現するが如く、デニアは仕立て、素材、ファッションビジネスに関して、教え得る限りのことをスミスに教えた。やがて彼の心の支えにもなっていき、現在の圧倒的な影響力を誇るファッションデザイナー、ポール・スミスが形作られていったのだ。

 

 

1970
Paul Smithの第1号店はノッティンガムのバイヤード・レーンにあるわずか3メートル四方の地下スペースだった。「Paul Smith Vêtements Pour l’Homme(ポール・スミスの紳士服)」と名付けられたこの店舗は週2日の営業で、スミスは営業日以外の日にデザイン、ウィンドウディスプレイ、生活の足しにするためのコンサルティングなどをしていた。

このPaul Smithの1号店の店長はアフガンハウンド犬のホーマーだった。来客があれば挨拶をし、店内を商品を眺める客を見守る。入口の扉が開いたままになっているとどこかへふらっと出かけていくが、必ず戻って来た。

 

 

1976
1976年、スミスはパリで初のファッションショーを開催した。費用を抑えるため、会場は友人のアパルトマン、シャンパンは近くのスーパーで買い、モデルは友人たちに声をかけた。彼らは喜んでそれに応じ、スミスがカセットテープに録音した音楽に合わせて歩いた。

 

 

「会場に入場するのにドアベルを鳴らさなくてはならないファッションショーは、おそらく歴史上ほかになかったんじゃないかな」 – ポール・スミス

 

1979
スミスは2万5000ポンド(約1162万円)を支払い、コベント・ガーデンにロンドン市内初の店舗を開いた。出せる金額を遥かに超えた金額だった。当時のコベント・ガーデンマーケットは改修前で、半ば廃墟となったそのエリアには卸問屋といくつかの楽器店があるのみだった。そんな場所に突如、モダンな紳士服店が登場した。

 

 

1980
あるPaul Smith店舗のウィンドウディスプレイに、スポットライトに照らされ、上空にフォークの舞うスパゲッティの食品サンプルを始め、変わったものがいろいろと飾られるようになる。この食品サンプルはスミスが東京を訪れた際に買って帰ったもので、スミスがその写真をプリントして作ったシャツは、スミスのみならず、ファッション業界全体にとってのプリントシャツの先駆けとなった。

「フォークの付いたスパゲッティの食品サンプルがサルバドール・ダリの絵のように見えてね。ものすごくシュールだった。だから1つ買って、写真を撮って、生地に直接プリントしたんだ」 – ポール・スミス

 

 

スミスが初めて日本を訪れたのは1980年代のこと。以来彼は100回近く来日している。日本の匠の技、伝統と現代の織り混ざった文化、そして日本人という国民に、彼は惚れ込んだ。そして日本人もまたスミスという人、そしてPaul Smithというブランドの、風変わりでありながら本質的にはスマートで粋な英国的センスに惹かれた。

 

 

1981
ポール・スミスを語るにあたって「classic with a twist(ひねりのあるクラシック)」という言葉は欠かせない。1981年、伝統的なプリンス・オブ・ウェールズのチェック生地を、色合い、スケールを変えて生まれ変わらせたことについて説明した際にスミスが初めて使ったこの言葉は、以来ブランドの基本理念となっているが、その後の多用で当初のような掴みを失ってしまったため、スミス自身は使うのを避けている。

 

 

1982
デヴィッド・ボウイ(David Bowie)とスミスは互いに尊敬し合う仲だった。スミスは長年デヴィッド・ボウイのコンサートに通い、ボウイもまた80年代を通してほぼPaul Smithのスーツとストライプのセーター以外着なかったと言われている。2人が遂に対面を果たしたのは1982年のこと。以来スミスは、ボウイのアルバム「The Next Day」や「Black Star」のグッズを手掛けている。

1983
煮詰まったときの対処法 – それはブリーフケースに入った鉄道模型やチキンのおもちゃで遊んでみること。少なくともスミスは、会議などが過熱化したときにそうしてムードを和らげていた。

 

 

1988
ウェストボーン・ハウスは、スミスが邸宅内に店舗をオープンさせるという念願を叶えた場所だ。見事なヴィクトリア調の邸宅を、それぞれ個性的にデザインした3つの空間に仕切った初期のコンセプトストアで、テイラーも常駐している。

 

4.0.4

 

2003
スミスのオフィスはコベント・ガーデンのポール・スミス本社にあるが、オフィスと言われて想像するものとはだいぶ掛け離れている。辺りを埋め尽くすのは長年の間に集めてきた本や自転車、生地のサンプル、アート作品、チラシやポスター類。かろうじて平面として残っているのは部屋の中央にある無垢の木のテーブルのみ。ミーティングはここで行っている。

「正直に言ってオフィスにはたくさんものを置くのが好きなんだ。本とか写真とか、いろいろね」 – ポール・スミス

 

 

 

2005
Paul Smithの店舗はその土地に合わせて1つずつ異なっているが、いずれもその中にポール・スミスらしさがにじみ出ている。メルローズ・アベニューショップも然りだ。目に留まる鮮やかなピンクのファサードは現在、人気のインスタスポットとなっている。雲ひとつないLAの青い空に映えるこの店舗のデザインは書籍『Casa Luis Barragan: Poetry of Color』に着想を得ている。

 

 

2012
アマチュアカメラマンだった父譲りで、スミスは写真にも熱意を持っていた。今もしばしばPaul Smithのキャンペーンを自ら手がけているほか、インスタグラムにも写真や文章を投稿している。Leicaからコラボレーションの話を受け、スミスは大いに喜び、特別版のX2カメラをデザインした。

 

2019年に発売した「ライカCL “Edition Paul Smith”」

 

2015
カジュアルスーツムーブメントの先駆け的存在「A Suit To Travel In」は、スミス自身のように出張や旅行の多い人に向けたコレクションだ。シワに強いウール糸を使ったこのコレクションは、チェリストのシェク・カネー=メイソンがロイヤルウェディングでの演奏時に着用した。

2016
これまで複数台のランドローバーを所有してきたスミスは、ディフェンダーのリニューアルプロジェクトでランドローバーのワンオフモデルを手掛け、コラボレーションを果たす。ジープのミリタリーデザインとイギリスの田園地帯のイメージによる27色のカラーパレット、高級なレザー製インテリアで新デザインを仕上げた。

 

 

2020
ポール・スミスがブランド設立50周年を迎えた。

 

 

THE 50TH ANNIVERSARY COLLECTION

Paul Smith50周年記念のカプセルコレクションには、アーカイブに収められた特に大切なプリントのいくつかが再編集されたデザインで登場している。

採用されたアーカイブプリントは1988年から2002年のコレクションで最初に登場したもので、ラインナップにはスミスが東京で購入しロンドン店のウィンドウに飾ったスパゲッティの食品サンプル、つややかなグリーンアップル、フローラルローズのプリントが含まれる。

それぞれのプリントを、ボンバージャケット、セーター、Tシャツ、シャツ、アクセサリーなどにあしらい展開したのが今回のカプセルコレクションだ。

プリント、ストライプ、鮮やかなカラーパレットはポール・スミスのあらゆるコレクション、コラボレーションに登場するトレードマークとしてよく知られているが、ポール・スミスのことを、メンズウェアにフォトグラフィックプリントを取り入れた先駆者の一人として知る人はほとんどいない。

 

 

スミスによると、彼がフォトグラフィックプリントに乗り出した知られざる経緯はこんなことだったらしい「イタリアのフィエーゾレという街にいた時のこと。渓谷の先にフィレンツェの有名なドゥオーモが見えた。眺めていると近くにバスが停まった。車体を見ると、そこにもドゥオーモの写真が貼られていた。それを見て、今自分の目に見えるものの写真を生地にプリントしてみたらどうだろう?と思ったんだ。生地の見本市を見にフィレンツェに出かけた時に、ビニール製のテーブルクロスを見かけた。ド派手な果物や野菜の柄の入ったああいうクロスをね」

 

 

クロスの製造元を突き止めたスミスはその工場へ出向き、工場所有の銅の圧延装置を、写真を生地にプリントするのに使うことはできないかと相談を持ちかけた。稼働率が低く、週4日しか運転を行っていなかった工場側はこの好機に飛びつき、結果、間もなくフル稼働を迎えた。

「最初にプリントしたのはりんごだったと思う。りんごをガラスの上に乗せて、空中に浮いているような感じに見えるように撮影した。その写真をシャツにプリントしたんだ。スパゲッティも同じようにプリントした。それから10年の間に、ありとあらゆるものをフォトグラフィックプリントにしたよ」

 

 

 

今となっては大したことではないと思われるかもしれないが、メンズファッションにおけるグラフィックが皆無に近かった当時、シャツに写真をプリントするというのは大胆な発想だった。1970年初めにおいてスーツのカットを変えたり色鮮やかな裏地をあしらったりするのが大胆だったのと同じく。

この半世紀でポール・スミスはスーツの概念を変えた。ドレスアップをすることは退屈な服装に身を固めることではない、ということを世界各国の男性に教えてきた。ポール・スミスが刷新したクラシックは、肩肘を張りがちな服飾文化に対するカラフルな反対意見とも言えるだろう。そしてスミスという人の謙虚さ、心の優しさは、エリート主義とエゴの渦巻くファッション業界に是非とも取り入れられるべきアンチテーゼと言える。

かつてないほどにファッションの未来予測が難しく感じられる現在、ポール・スミスの今後も、予測することは難しい。しかしスミスに、もうやり尽くしたという気持ちが全くないことは明確だ。これまでの先見の明を考えれば、Paul Smithの未来もまた、色彩、刷新されたクラシック、そしておまけにちょっとしたサプライズで満たされたものであり続けることだろう。50周年アニバーサリーコレクションの購入はこちら

 

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