MORGAN BOURC'HIS
静寂の中で、呼吸を手放す——プロダイバー、モーガン・ブルキスと潜る。
海の静けさは、恐れと憧れの境界にある。その境界を越えようとする意志が、人を「挑戦者」に変えるのかもしれない。ブランドが掲げる「Born to Dare(挑戦者の精神)」という哲学、その根底には時計製造を超えた “海との対話” の志がある。TUDOR(チューダー)は、創業以来、単に時を刻む道具ではなく、冒険と探求の象徴として名を刻んできた。
その精神を体現する存在として、モーガン・ブルキス(Morgan Bourc’his)は、TUDORのファミリーに欠かせない人物である。彼は、フィンなしでの深潜(CNF=Constant Weight No Fins)で世界記録を塗り替え、2019年には-91mの記録を持つ三度の世界チャンピオン。2014年にTUDORと初めてのプロジェクトを共にし、そこからアンバサダーとなり、映像制作や環境保護活動も含めて、ブランドのストーリーを海洋世界へと拡張してきた。


呼吸を手放す——始まりの1分間
モーガンと潜るプレスツアー初日は、息を止める練習から始まった。高速道路のトンネルで友人と競ったあの遊びを思い出す。あのときの1分間が、どれほど永遠に感じられたか。だが、モーガンの指導のもと、呼吸の理論と体の仕組みを知ることで、世界が少し変わった。人間の体は、思っている以上に長く息を止めることができる——そう教えられた。
ヨガのようにゆっくりと呼吸を整え、海を前に心拍を静めていく。肺だけでなく、心をも静める行為。肉体のレッスンでありながら、どこか瞑想に近い。息を止めることは、ただ苦しみに耐える訓練ではなく、自分の内側と向き合う時間でもある。
“The fact that you have to hold your breath and immerse yourself in this mysterious and large territory asks you to know yourself(息を止め、広大で神秘的な海に身を沈めることは、自分自身を知ることだ).”
彼の言葉は、単なるメソッドではなく哲学だった。呼吸という生物として最も根源的な行為を手放すことで、体の外側にある “何か” と繋がる。私達は長く息を止めることで、生命のリズムを一瞬、海のリズムへと重ねるのだ。
プールでの練習では、1分50秒も息を止められた自分に驚いた。中には2分を超える人もいた。静寂の中で自分の鼓動を聴き、恐怖と安堵が交互に押し寄せる。海の底へ潜る前に、まず自分の内側へ潜っていく感覚だった。
“It’s more than just a sport. It can be a really powerful development tool(フリーダイブは単なるスポーツではない。自分を成長させるための強力な手段なんだ).”
その言葉の意味が、少しだけ分かる気がした。呼吸を手放すことは、死への恐れと、生への執着の間で揺れる心を鎮めることでもある。恐怖と共存しながら、自身を解き放つ——そこに、挑戦者の精神の本質があるのかもしれない。
完璧を目指すルール—— “ミスター・パーフェクト” の哲学
2日目の夜、海に潜る前のディナーの間で、各人が一対一でモーガンと向かい合って座った。彼はいつものように穏やかな笑みを浮かべながらも、その目は真剣そのものだった。「明日の目標は何メートルにしますか。挑戦のラインを、自分で定めるんだ」
人間の潜在能力を信じることと、限界を見誤らないこと。その2つのバランスこそが、モーガンの哲学の核にある。彼の言葉には、フリーダイブを “競技” ではなく “対話” として捉える静かな意志が感じられた。
“I didn’t compete to become the best. It was more to explore myself(私は他者に勝つためではなく、自分を探求するために潜っている).”
その夜、私が心の中で繰り返していたのは、「完璧とは何か」という問いだった。勝利でも、記録でもない。モーガンにとっての “パーフェクト” は、自然への敬意と、心の統制を保ったまま潜り、浮上すること。
彼は “ミスター・パーフェクト” と呼ばれる。
“I blacked out just twice in my life… they call me Mr. Perfect.(これまで失神したのは2度だけ。常に完璧な浮上を見せるから、そう呼ばれている)”
翌日のコンペティション。私達はそれぞれのルールと向き合うことになった。ダイブは一度きり。潜る前、海の上で心を落ち着かせ、静かに呼吸を整える。3メートル下に設置された白いプレートを取りに潜る─ただそれだけのはずだった。その「ただ」が途方もなく遠いが、一瞬の出来事だった。手を伸ばした先のプレートは、プラスチックで滑り、なかなか掴めない。「あと数秒なら、いける」と思ったそのとき、肺が悲鳴を上げた。限界の手前で浮上し、プレートを持ち帰れなかった私はイエローカードを提示される。
海面に顔を出し、ルール通り、ゴーグルを外し、親指を立ててジェスチャーを見せ、「I’m OK」と告げる。モーガンは静かに頷いた。そこに叱責も、慰めもない。あるのは、ルールと誠実さに対する絶対的な尊重だけだ。
完璧とは、結果ではない。自分の決めたルールを守り、恐怖を越えてもなお、穏やかに浮上できること。精神力を鍛える場として、フリーダイブはある。たかが挑戦、されど一度きりの挑戦。モーガンが体現する「Born to Dare」とは、外に向かう勇気ではなく、内に沈む静かな決意なのかもしれない。

静寂の中の鼓動——海と一体になるということ
モーガン・ブルキスのダイブスタイルは、極めてシンプルだ。彼はフィンを使わない。水を切る道具を排し、できる限り “海に近しい存在” であろうとする。それは効率を捨てるというより、自然との距離を最短に保つための選択だった。
“When I dive without fins, I am really in contact with the sea. I can feel it as it is ——the temperature, the pressure, the rhythm(フィンを使わずに潜るとき、私は本当の意味で海と触れ合っている。温度も、圧力も、海のリズムも、そのまま感じられるんだ).”
フィンをつければ、より深く、より速く潜ることができる。だが彼は、体の全てを “自然の律動” に委ねることを選ぶ。その無防備さこそが、フリーダイブの本質に近い。
“It’s not about performance. It’s about what you live in that moment(記録のためではない。その瞬間に、何を感じられるかなんだ).”
深海では、光が少しずつ消えていく。青が黒に溶け、視界が限られるほど、感覚は研ぎ澄まされていく。彼はその暗闇の中で、「飛ぶような感覚」を得るという。
“It’s like flying underwater, you let go completely. You lose gravity, you lose orientation, you only have the sound of your heartbeat(水の中で飛んでいるようなんだ。重力も方向も失い、聞こえるのは自分の鼓動だけになる).”
その世界では、時間が止まる。体の限界を超えるのではなく、静かに受け入れる。呼吸を手放すという行為は、死に近づくことではなく、生をより深く知るための儀式なのかもしれない。彼にとって、フリーダイブは「過酷なスポーツ」であると同時に、「精神的修行」でもある。
“You have to master your emotions. Holding your breath means working on your mind as much as your body(感情を制御しなければならない。息を止めるというのは、肉体以上に精神を鍛える行為なんだ).”
モーガンの友人には、サーファーや登山家など、自然と向き合うアスリートが多い。彼らの中には、精神の訓練としてフリーダイブを学ぶ者もいるという。それほどに、深く潜るという行為は、体ではなく「心を静める技術」なのだ。深海の静寂の中で、彼は “孤独” を感じないという。むしろ、海の拍動と自分の鼓動が重なり、全ての境界が溶け合う瞬間を味わう。
“Down there, you are not alone. You are part of something bigger. The silence is full(深海では孤独ではない。もっと大きな存在の一部になる。沈黙の中には、満ちているものがあるんだ).”
海と生きる——地中海から世界へ
モーガンの拠点はマルセイユ。地中海を中心に活動を続けている。彼は15年以上にわたり、競技だけでなく、海洋保全や環境教育にも力を注いできた。現在はマルセイユの**海洋生態研究所(Institut Méditerranéen d’Océanologie)**と連携し、研究成果の発信や映像制作を通して、人々に海の現実を伝える役割を担っている。
“It’s a way of giving back to the ocean all the things it gave me(海が与えてくれた全てを、海に返すための活動なんだ).”
地中海は、ほかの海と比べて決して広大ではない。しかしその生態系は驚くほど多様だ。赤珊瑚、海草の森、カラフルな魚が共生する独自のリーフ・エコシステムが存在し、熱帯の珊瑚礁にも匹敵する生物密度を持つという。だが近年、その環境が急速に変化している。モーガンは「メディケーン(Medicane)」という言葉を口にした。地中海(Mediterranean)とハリケーン(Hurricane)を組み合わせた造語で、地中海で発生する熱帯性低気圧を指す。数十年前には存在しなかった現象だ。地球温暖化によって海水温が上昇し、地中海が熱帯化しつつある証拠だという。
彼にとって、フリーダイブはこの変化を “観察するための方法” でもある。深く潜ることで、水温の変化や生態系の異変を肌で感じる。科学者ではないが、観察者としての感性を持ち、海の声を伝えることが自分の使命だと語る。
TUDORとのパートナーシップも、単なるスポンサー関係にとどまらない。映像プロジェクト「The Quest for Nature」では、フランスからノルウェーへと旅をし、シャチやザトウクジラと泳ぎながら、人間と海洋生命の共生を描いた。
“Spending time in such a remote environment forces us to examine our relationship with time and civilisation(自然の中で過ごす時間は、私たちと “時間”、そして文明の関係を見つめ直させてくれる).”
海は、彼にとって鏡だ。沈黙の中で呼吸を手放し、再び得る。その循環の中に、生きることの本質を見ている。

- Photography: Tudor
- Words: Yuki Uenaka