大坂なおみ、進化のバックステージ
1月の全豪オープン第3回戦、熱戦に期待が高まった。ディフェンディングチャンピオンである大坂なおみ選手と、「ココ」の愛称を持つ15歳コリ・ガウフ(Cori Gauff)選手の対戦だった。大坂はほんの数カ月前に全米オープンでココと対決し、彼女に圧勝した。しかし結果は6-3、6-4のスコアで一度圧勝したはずの彼女に完敗。試合直後の記者会見では、スポーツ記者による失礼とも言える質問に対し堂々と答えたが、その場の空気は重かった。
「違う戦い方ができたと思う部分はありますか?」
「ボールをコートに入れることですかね」
大坂は少しクスリと笑いながらも、暗い表情でそう答えた。この皮肉は、いつもの試合後のインタビューに見られる内向的な受け答えや愛らしい誠実さとは全く異なる。(過去に、彼女の目標について「常に最善であること。かつて誰もそうでなかったくらいに」と述べている)
それから6カ月の間、全仏オープンは延期、ウィンブルドン選手権は第二世界大戦以降初の中止、特に2020年夏の東京オリンピックの延期は日本生まれの大坂には受け入れがたい事実だったが、全て受け止めるしかなかった。「通常、私達テニスプレイヤーは試合に向けてトレーニングをするので、特定の試合を見据えず、ただぶっつけ本番なのはとてもおかしなこと。たまにモチベーションを保つのが少し難しくなるのは、いつ元に戻るのか全く分からないから」とテニス界のスターは言う。
試合に向けてどう気力を保ち続けているのか尋ねた時に、「私はただ改善したいと思うポイントをピックアップしているだけです。テニスで言うならスライスショット。私はあまり得意じゃなくて」と、至ってシンプルだ。それは女子世界ランキング1位のテニスプレイヤーにしては謙虚な答えだった。(ランキングはそれから10位に転落)
全米オープンが始まろうとし、コーチであるウィム・フィセッテ(Wim Fissette)と、フィジカルトレーナーの中村豊と共に精力的に練習を重ねてきた。両氏共に世界No.1プレイヤーを育てた一流。朝食までに様々な基礎練習でウォーミングアップを始める。そして数時間のコート練習を終え、コンディショニングのためにジムに向かう。中村氏は以前、マリア・シャラポワ(Maria Sharapova)選手のフィットネストレーナーを務めたこともあり、大坂に試合のない今の時期を利用するように促した。「今は全ての人にとって、次のレベルにステップアップするために何が必要なのかを再確認するとても良いチャンスだと思います。試合準備のためにかなり世界中を飛び回るので、毎日実際に会ってコーチングすることが難しい時がたまにありますが、今は違いますからね」と中村氏は答えた。大坂選手本人は全米オープンで再び王座を取り返すことについて一度も口にすることはなかったが、中村氏は彼女が再び頂点を目指していると述べた。
大坂は22年間子供の頃から観てきた大人気アニメ『NARUTO』の主人公に似ている点がある。奥深い表情と静かな強さを持つ彼女のようなアスリートは、常に歯を見せて笑っているうずまきナルトのように見えないが、なぜナルトと同一視するのか理解することは難しくない。
「私が今より若い頃、ただ第三者として、彼の努力を観ることは本当に楽しかったです。嫌われ者で見放されていた彼は自分の力で人々に証明し、皆彼を信じるようになりました」と大坂は興奮した様子で語った。アニメの中でナルトは12歳の孤児で、里の人々から避けられており、ほとんどの人が見当違いな夢を持った馬鹿だと、全く相手にしなかった。そして、血と汗と涙の年月を経て、ナルトは里で最強の忍者になる夢を叶え、また同時に途中で何人かの友達を救った。
「あの頑固さは私も少し持っている気がします」
1歳半歳上の姉のマリよりも上手くなるのに奮闘していたことをこっそりと述べた。その長きに渡る根気がプロに導いた、と。
日本に生まれ、ハイチ人の父と日本人の母を持ち、ラケットを握れるようになってからテニスをプレーし続けている。父、レオナルド・フランソワ(Leonard Francois)は、当時10代だったヴィーナス・ウィリアムス(Venus Williams)とセレーナ・ウィリアムス(Serena Williams)姉妹が1999年の全仏オープンでダブルスの試合に出場している放送を観てから、娘たちをスターテニス選手にすることに夢中になった。その時大坂は3歳で、家族は日本で2番目に大きな都市である故郷・大阪を離れ、無料でテニスコートが使用できるロングアイランド島に移った。
最初、大坂は期待を示さず、スポーツにすら興味を示さない。彼女は姉を上回ることの方が関心があった。長年にわたり、姉に対して毎日勝負を挑み、毎回負けていた。しかし負ける度に「明日は勝つ」と強く宣言した。
Highsnobiety / Eli Linnetz
チームのメンバーとZoomミーティングで家の茶色い壁の前でじっとしている大坂の様子は、試合後に記者を相手にする時と同じように冷静で落ち着いている様子だった。そして、いつも通りハイランキングプレイヤーであることにプレッシャーを感じていることを率直に認めた。
「若い頃は、勝ち負けをあまり気にしませんでした。もちろん重要ではありましたが、その勝敗が新聞に載ることはなかったので」と小さな笑みを浮かべ大坂は言った。
しかし20歳になって、大坂は世界を震撼させる勝利をもたらした。トーナメント史上最大の混乱と論争を起こすことになった、2018年の全米オープンの決勝戦、Off-White™(オフホワイト)を着た子供時代のヒーロー、セレーナ・ウィリアムス選手に勝利し、初めてグランドスラムを達成した。当時、大坂はあまり知られていなかったが、キラーサーブとアグレッシブなプレーは非常に大きな可能性を秘めており、さらに世界の若手女性テニスプレイヤートップ20にも選ばれてはいたが、ウィリアムス選手を相手にゲームを優勢に進め、最初のセットを6-2で制するとは誰も予想だにしていなかった。
厳しいことで悪名高い主審がウィリアムス選手に対し、彼女が試合中のコーチングを受けていることを指摘し警告を与え、状況は変わった。ウィリアムス選手はズルしていないと主張し続け、感情的になり、ラケットをコートに叩きつけ、主審に押し返した。主審はそこでさらに2つの警告を与え、これにより1ポイントと1ゲームを失った。最終的に大坂は2セット目を6-4で制し、勝利したが、この記念すべき偉業はウィリアムス選手の審判への対応によって傷つけられてしまった。表彰式で憂鬱な様子でトロフィーを受け取り、主審へのブーイングをし続ける群衆に対し、「皆さんがウィリアムス選手を応援していたことは知っています。そしてこのような結果になってしまい申し訳ないですし、残念です」と謝罪した。
数日後、大坂の夢が叶う瞬間を奪われたとの論争が繰り広げられた。しかし日本人テニスプレイヤーとして初のグランドスラム達成により、日本ではヒーローと称賛され、彼女の名声の高まりは、単一民族である日本人が持つ、日本人のあるべき姿の価値観を揺るがせた。
ウィリアムス選手への勝利から数カ月後、2019年シーズンのグランドスラムはまぐれだったかもしれないという意見を一掃し、2019年の全豪オープンで優勝した。グランドスラムに続いた優勝は、世界ランク1位をキープ。アジア人、ハイチ人でこの偉業を達成したのは大坂が史上初だ。
言うまでもなく、最近の大坂の不調に皆目を向ける。直近の全豪オープンでの敗戦もそうだった。「家を帰ってテレビを付けると敗戦についてのニュースが放送されていて、空港に行けば新聞でも、私の敗戦ばかり」
鋼の心を持つ大坂でさえ、試合中は緊張がのしかかっていると認める。「時々、試合中に、考えるべきではないと分かっているのに、記者のことを考えてしまい、それは間違いなくストレスになっています。過去数年間、それの対処方法、受け止め方を学んでいて、今の私の課題です」と述べた。
大坂選手はさほど記者が与える影響を気にしていない様子だが、負けることに対する気持ちの整理には苦労している。「私がポーカーフェイスだと思っているけど、実際心の中の浮き沈みはかなり激しいです」と告白した。こうしてNo.1プレイヤーになった後に経験した一連の苦しみを『人生で最悪の数カ月』と表現し、過去の精神的不安を受け止めている。
「正直、恐らく全豪オープンからテニスを楽しんでいなかったです」と、Twitterに投稿した。ペトラ・クビトバ(Petra Kvitová)選手に7-5、5-7、6-4のスコアで2時間以上に及ぶ長時間の試合の末に勝利したことを取り上げている。「私は試合で何を学ぶということよりも、勝ち負けにこだわっていました。それが私です」
燃え尽き症候群が原因で、テニスを引退したアシュリー・バーティー(Ashleigh Barty)選手やレベッカ・マリノ(Rebecca Marino)選手などに似ている。今挙げたテニスプレイヤーははっきりメンタルヘルスとの苦闘を公の場で語ったが、大坂の性格上、一人で抱え込んでしまうタイプだ。「私は他人をシャットダウンする傾向があり、それは他の人にも自分の問題を抱えてほしくないからです」と同じTwitterの投稿に書き込んだ。
大坂が心許せる数少ない人のうちの一人が彼女の姉だ。大きな試合の前に不安に思っていたり、投げ出しそうになっていたりしたら、姉に電話をする。「私がジョークで彼女を笑わせることができたら、大体落ち着かせることができます」と大坂まりは話した。しかしほとんどの場合は、「思っていることや、問題を話さないか、傷ついていても心に秘めてしまいます」
昨年のマイアミオープンで姉がプレーを側で見ていた時、大坂選手が苦しんでいる姿を垣間見た。「彼女は本当に本当に状態が悪くなっている。本当に悪い方向に。彼女はロッカールームに引きこもってずっと泣いていましたが、1週間後にはすぐに元に戻りました。彼女に一人で考える時間を与えさえすれば、よりハードに戦うことができるでしょう」と、2019年に謝淑薇(シェイ・スーウェイ)選手に敗れた時を思い起こしながら語った。
わずか数日後には、大坂は次のグランドスラム制覇のチャンスを手に入れるだろう。そして今回は、全米テニス協会によってアスリートの安全を考慮し、観客席には客を入れないことが決められた。世界は22歳の新星が返り咲くのかを見守っている。8月の彼女のパフォーマンスがどうであれ、大坂は勝利が常に保証されていないことを、そして勝ち負けに関係なく、自身のアイデンティティがある限り、不安に立ち向かえるということを知っているようだ。
『Esquire(エスクァイア)』の記事の中で、テニスに対する思いはさておき、新型コロナウイルスによるパンデミックが自身と向き合い、何が一番大切なのかを再認識させたことを述べた。「私は娘であり、妹であり、友達であり、彼女でもあります。私はアジア人で、黒人で、女性でもあります。私はたまたまテニスが上手なだけで、他の人と同じ普通の22歳です」。どうやら彼女はテニス狂いではなく、一人の人間として自身を自立させることができたようだった。
この数カ月の間、大坂はテニスとは全く異なる問題にもその知名度を使っている。それは数十億ドル規模の業界の枠をはるかに超え得るものだ。5月にミネアポリスの警察官によってジョージ・フロイド(George Floyd)が殺された後、警察官による残虐行為と人種差別全般を無くすことを目的とし、彼女のプラットフォームで訴え始めた。2年前だったらしなかっただろうと大坂は言う。
「警官と3人の同僚の手で行われたジョージ・フロイドの殺害と拷問の様子を動画で観た時、心が痛かったです…黒人は長年この抑圧に戦ってきて、進歩はほんのわずか。『レイシストにならない』だけでは足りません。私達はアンチレイシストにならなければいけないのです」と、『Esquire』の記事でそう綴った。その活動の中で彼女は警察の予算削減を求めた。この行動はほんの数年前だったら、彼女のキャリアに悪い影響を与えていたかもしれない。
何が彼女を駆り立てたのか?
「多分それは、みんな私の意見に興味を持っていなかったと思ったことが一番大きいと思います。(意見をするよりも)はっきりと意見する人に耳を傾ける方がいい」。しかし、ミネアポリスで行われたフロイド氏の葬式で、その考え方は変わった。「街全体の思い……私にとってそれは、完全に現実離れしていました。そしてたとえ1人でも私の意見に耳を傾けてくれたなら、多分その人はその思いをつなげてくれるのではないか』と考え始めたんです」
それから大坂は50万人以上に及ぶTwitterのフォロワーにニュース記事をシェアし始めたが、中には彼女の行動をあまり良く思わない人々もいた。「中には私を惑わせる人々もいました」と少し笑いながら話した。彼女が悪い? 彼女は日本で行われたBlack Lives Matterのプロテストに対しTwitterで再度投稿した。「日本でBlack Lives Matterの抗議を私は見たことがなかったので、私はいいことだなと思いました」
しかしその後、少数のユーザーから「抗議によってコロナの感染拡大が起きているのでは」と、懸念の声が上がったと抗議への反発を説明した後、大坂は「そうですね…」うろたえた様子を見せた。彼女はこれ以上この件にコメントしないが、『スポーツだけ』ではならず、政治についても自分の意見を発信し続けることは確かだ。
Twitterの投稿を見ると、アンチやインターネットの荒らしに対してどう感じているのかが分かる。「あなたがTwitterで発言していることは、キャンセルカルチャーに基づき法で訴えることができます」とは、彼女の勇気のあるツイートの一つだ。別の投稿では「人々は何をすべきなのか必要があります」と人気アニメ幽☆遊☆白書のワンシーンを引用してツイートしている。
どう頑張っても人種差別をなくすことができないのを大坂は知っている。一連のTweetに対する返信に彼女が言及した1週間後、自身の態度の変化に気がついた。「私は少し人に対し敵意を感じているようでした。そして私は人々に返信をするのをやめるべきだと思いました。なぜなら私のやるべきことは、無理は承知の上でも、人種差別問題を緩和することだと毎日思うようになったからです」
Twitterの良い点と悪い点両方の上手な扱い方を理解していないが、なぜBlack Lives Matterのムーブメントが大切なのかを特に日本の人々に向けて発信することを決めた。「自分の意見を発さなければならない時があり、ただただそれを秘めておくだけはできません。私はただ、みんなに問題への意識をもっと向けてほしいと願うだけ」
大坂との会話の中で、パンデミックでコート上またそれ以外での目標に変化はあったかと尋ねた。
「これまでは何かに一生懸命な毎日であったことへの気づき。そしてこれからは悔いの残らない毎日を、安らかに幕を閉じれるように」
それは私達が大好きなアニメのセリフのように聞こえた。
- Words: Susan Cheng
- Photographer: Eli Linnetz
- Styling: Corey Stokes
- Executive Production: Conor Lucas
- Hair: Marty Harper
- Makeup: Leah Darcy
- Photography Assistant: Sam Massey
- Styling Assitant: Hanna Yohannz