日本ストリート界の影の立役者、Hitomi Yokoyamaという存在

冷えた晴れ空の2月のロンドンの朝、その姿があまり表に出ることのない、ストリートウェア界ではごく少ない女性、Hitomi Yokoyamaの自宅を訪ねた。親友の高橋盾「UNDERCOVER(アンダーカバー)」や長尾智明「A BATHING APE®(アベイシングエイプ)のNIGO®︎(ニゴー)」と同じく東京のクリエイティブ環境で育ち、裏原宿の成長初期を生きたHitomiは、1993年ロンドンに移住した。インターナショナル・ステューシー・トライブのメンバーであるマイケル・コッペルマン(Michael Kopelman)などロンドンのキーパーソンと出会い、コッペルマンのGimme Five(ギミーファイブ)のデザイナーとして働き、同レーベルのアイコニックなアイテムを手がけたほか、A BATHING APE®やGOODENOUGH(グッドイナフ)などのカルト系ストリートウェアブランドにも多数携わった。そして東京、ロンドンにまたがる交友関係から、MO’WAX主催者のジェームス・ラヴェル(James Lavelle)とNIGO®︎を引き合わせるなど、伝説的な巡り合いの立役者となってきた。
Hitomiのことを、Nike(ナイキ)の2006年の人気パッケージ、エアUブレスパックの中のAir Stabスニーカーや、Nikeのコラボ企画Air Max 90ドロップのデザイナーとして知る人も多いだろう。しかし同じ彼女が、多くのファンの憧れるVery Ape (ヴェリーエイプ)やGOODENOUGH UKのヴィンテージTシャツも手がけていると知る人は少ない。というのもHitomiは「HIT」というアーティスト名に身を隠し、素顔の見えないデザイナーとして活動してきたからだ。現在彼女は、ロンドンで知り合い、仕事を共にした多数のクリエイティブパイオニアの一人であるスタイリスト、故ジュディ・ブレイム(Judy Blame)へのオマージュとしてのコラボレーションブランドAVAILABLE NOWHEREの立ち上げ準備に取り組んでいる。そんな彼女を取材した。

東京都新宿区四谷で育ったHitomi Yokoyamaは10代の頃、テレビやラジオで見聞きしたイギリスのパンクブランドに夢中になった。「ザ・クラッシュやアダム&ジ・アンツ、セックス・ピストルズを聴いたのが音楽との出合いでした」と彼女は自宅アパートで語った。A BATHING APE®のコーヒーテーブルを前に座った彼女を、UNDERCOVERとMEDICOM(メディコム)のギラップルライトや、ストリートアーティストのスタッシュにSKOLOCT(スコロクト)の絵画など、彼女の友人らの作品が取り囲んでいる。彼女がセックス・ピストルズについて惚れ込んだのはその音楽だけではなかった。「(セックス・ピストルズのリード・ヴォーカル)ジョン・ライドン(John Lydon)が着ていたマルコム・マクラーレン(Malcolm McLaren)やヴィヴィアン・ウエストウッド(Vivienne Westwood)の衣装がすごく気に入って。そこから『宝島』とか、そういう雑誌を読んでSeditionaries(セックス・ピストルズのクロージングライン)のことも、SEX(ロンドンに構えるショップ)のことも知るようになりましたね」

当時は、日本のストリートウェアの名付け親であり裏原のフロントランナーである藤原ヒロシがインターナショナル・ステューシー・トライブのメンバーとなり、宝島社の雑誌に強い影響力を持つコラムを執筆し始めた頃だった。Last Orgy(ラストオージー)と名付けられ、ヒップホップやパンクの注目LPや最新のスケートボードギアに至るまでを幅広くカバーしたその記事は日本の若者の必読コラムとなった。「10代後半で初めてLast Orgyを知ったときはとても刺激を受けましたし胸が高鳴りました。最新スニーカーにジョンブル・ハット、かっこいいベルトバックル、そういうものをいろいろ知って」
宝島社の記事を読みふけるにつれ、Hitomiは記事に書かれていたような東京のアンダーグラウンドナイトライフを自ら探訪するようになった。「通い出したピカソというクラブで、月曜日になると大貫憲章さんのロンドンナイトというDJパーティーが開かれていたんです。大人気でした。パンクからロカビリー、スカ、レゲエまでありとあらゆる音楽を流してくれて。私にとっては単なるクラブや音楽を聴く場所ということではなくて、洋服の着こなしや社交の仕方を学ぶカルチャースクール的な場所でした。インターネット時代到来前の、リアルのソーシャルネットワークでしたね」
Vivienne Westwood(ヴィヴィアン・ウエストウッド)の恵比寿の小さな店舗で買った洋服に身を包み、Hitomiは同志達と出会っていく。そんな仲間がやがて東京アンダーグラウンドのレジェンドとなった。「(UNDERCOVERの高橋)盾と知り合ったのもピカソです。1988年は毎週月曜日にピカソに通って、一晩中踊って、SEXのショップの話、SEDITIONARIES(セディショナリーズ)の洋服の魅力を語り明かしました。ときどきVivienne Westwoodの洋服を交換したりもして、1970年代のロンドンのキングズロードに思いを馳せていました」

当時高橋盾は、東京セックスピストルズというパンクのトリビュートバンドのメンバーだった。「盾君、ヒカル君、katchin’(DOGDAYAFTERNOON片桐克巳)、ヒロ君でしたね。盾君はジョン・ライドン似、ヒカル君(日本のクロージングレーベルBounty Hunterの岩永ヒカル)はシド・ヴィシャス(Sid Vicious)似、katchin’はラモーンズ寄りで。ヒロ君はまたヒロ君独自でしたね。みんなボンデージパンツを履いて、モヘヤジャンパーを着ていました。女の子はみんな夢中でしたよ」と語るHitomiによると、ヒロが出演できない時には、ピカソの若い常連だった長尾智明がドラムを演奏したという。
藤原ヒロシ似の長尾智明はNIGO®︎と呼ばれていた。「最初にNIGO®︎と会ったのは、Nabaronというクラブで、私がヒロシさん! と声をかけたら困惑の表情でした。NIGO®︎はヒロシ2なのに私がそれを間違えたので無理もありませんね。当時は恥ずかしい思いをしましたけれど、今思うとかなり笑えます。ヒロシもピカソで金曜日にファミリーというパーティーを開催していて、ヒロシとNIGO®︎の姿を一緒に見かけることがよくありました」
NIGO®と盾は文化服装学院の学友だった。2人と、渡辺淳弥「COMME des GARÇONS(コム デ ギャルソン)のJUNYA WATANABE(ジュンヤワタナベ )」をはじめとする同学の学生らとの出会いは、東京のストリートウェアシーン、さらにはファッション全般を育む重要な土壌となった。「文化服装学院は私の勤務先のヘアスクールの近くだったので、盾にもNIGO®にも、それからヒカルにもよく会っていました」

Hitomiが働いていたヘアスクールCiao Bambinaもまた重要な溜まり場となった。「あそこは裏原のアンダー18の若者向けのヘアサロンで、保護者はもちろんのことオーナーさえも立ち入り禁止で、常に若い元気なエネルギーに満ちていて、ヘアスタイルも毎日どんどん変わっていました。NIGO®︎もカットに来ていて、私は盾の、パンクヘアにすごくいいロックジェルというハードなヘアジェルをこっそり使ったりしていましたね」とHitomi。
藤原ヒロシは、当時既に深夜のテレビ向け録画番組になっていたLast Orgyの活動を停止したが、友人のNIGO®︎と高橋盾は『Popeye』誌向けのコラム「Last Orgy 2」の執筆を続けた。一大裏原ムーブメントの起こる前の1990年、ヒロシはGOODENOUGHを立ち上げ、STÜSSY(ステューシー)のスケートとサーフィンのミックスにポップカルチャー系のグラフィックスを取り込んだ。そんなGOODENOUGHはまさに日本の若者が待ちわびていたような存在だった。デザインからミステリアスな雰囲気まで、レーベルの世界観全体は、藤原が世話をしていた盾とNIGO®︎にも濃厚に焼き付いた。やがて藤原の力添えを受け、盾とNIGO®︎は、高い独創性で90年代半ば以降裏原シーンのアイコニックハブとなったNOWHERE(ノーウェア)を立ち上げることとなる。

裏腹のストリートウェアのルーツを辿るには、インターネットやソーシャルメディアが普及する遥か以前、昔ながらの電話やファックスが通信手段だった時代に遡る必要がある。そこから生まれたDIYカルチャーが世界的に伝搬していったのが始まりなのだ。原宿の小さな界隈にネットワークが出来始めた当時のことをHitomiはこう振り返る。「大川ひとみさんのMILK(ミルク)や、北村信彦さんのHYSTERIC GLAMOUR(ヒステリックグラマー)が出来ましたね。それから私にとってはアストアロボットがすごく大きな存在でした。当時NIGO®︎が文化服装学院の学生をしながらお店を手伝っていて」。ほかにもヴィンテージキングやオゾンコミュニティといったショップがクリエイティヴDIYシーンを形成していった。
そんなところにやがて新店、新レーベルが誕生する。出店先が何とも正体不明のよく分からないような建物だったことに因んで、そのレーベルはNOWHEREと名付けられた。盾のブランドUNDERCOVEもNIGO®︎のA BATHING APE®もこのショップを足がかりにローンチを実現していく。「盾は日本製のミシンで一点ものの洋服作りを始めたんです。最初の頃から天才でした。NIGO®︎はヴィンテージクローズのエキスパートで、最高にセンスが良かった」とHitomi。こうしてアンダーグラウンドの小さなコミュニティとして誕生した裏原シーンとそこから生まれた数々のブランドは、やがて世界に羽ばたいていくこととなる。1993年のロンドン移住以降、Hitomはそんな裏原のグローバル化の過渡期において一役買うこととなった。

「英語を勉強してメイクアップスクールに入ること」がロンドン移住の理由だったというHitomi。「道を歩いていたら出会ったのがバンズリーで、私の着ていたのがSEDITIONARIESの洋服だと気づいて話しかけてきて、UNDERCOVERにもとても興味を示してきたんです」
サイモン・バンズリー・アーミテージ(Simon “Barnzley” Armitage)と言えば、ロンドンのアンダーグラウンドサブカルにおける伝説のリーダーであり中心人物だ。イングランド北部のヨークシャー地方の小さな町に生まれたバンズリーは、パンク時代の終わりかける1979年にロンドンに移り住んだ。パンクのDIYの世界観に影響を受けた彼は、洋服の作りを壊していく手法と、また特にCHANEL(シャネル)のデザインを盗用したアイコニックなTシャツで知られるようになった。1980年代にはi-Dマガジンのスタイリストを務め、着こなしがアートとみなされていたロンドンのクラブシーンで名を馳せていた。The Wag、Delirium The Rawなどのクラブや多数のアンダーグラウンドウェアハウスパーティーを舞台に、音楽、ファッション、スタイル、デザインがエキサイティングなDIYカルチャーの中でぶつかり合うアンダーグラウンドカルチャーが培われていった。バンズリーは最近、マルコム・マクラーレン(Malcolm McLaren)と、ヴィヴィアン・ウエストウッドの息子ジョー・コーレ(Joe Corre)と共に、レーベル兼ショップのA Child of the Jago(ア チャイルド オブ ザ ジャゴー)を設立したことで最もよく知られている。クロージングラインのクロスソーズとサンダーズをローンチし、昨年はSEX / SEDITIONARIESで有名になったAnarchy(アナーキー)の文字入りのシャツにマクラーレンとウエストウッドが採用していたウェンブレックスシャツを復活させた。
当時ヴィンテージSEDITIONARIESの主要ディーラーの一人だったバンズリーは、東京発のSEDITIONARIESを初めて目にしたときのことをこう振り返る。「ソーホーを歩いていたらSEDITIONARIESを着たHitomiに初めて出会って、それすごくいいね、自分は70年代、14歳の頃からそういうものを売ってるんだと伝えた。言葉もろくに通じないのに、洋服、ファッション、音楽、パンク、キングズロードの話ですっかり意気投合した。そうこうしているうちに、部屋を貸してくれる人を知らないかとHitomiが聞くものだから、うちへおいでよ、と言ったんだ」
出会ったその日にHitomi はソーホーのシャフツベリーにあるバンズリーのアパートに転がり込んだ。「あそこは、アーティストのルシアナ・マルティネス・デ・ラ・ローサ(Luciana Martinez de la Rosa)がスペインに行っている間貸してくれていたアパートで、Hitomiも洋服にアート、レコードがたくさんあるアパートに引っ越せて喜んでいたと思う。俺が夜な夜な女の子やぶっ飛んだポップスターや取っ散らかったグラフィティアーティストなんかを連れ込んでは夜通し騒いで寝かせやしなかったのは嫌だったかも知れないけれど」
Highsnobietyが過去に取材をしたジェームス・ラヴェルからも、1993年当時Hitomiが足を踏み入れることとなったその世界についての話があった。「とにかくトライブ(部族)感がすごかった。そこにいる全員が、一目見ただけで仲間と分かる服装でね。芯の部分に仲間とかコミュニティっていう気持ちがあったんだろうね」

そうした集団がソーホーに集結し、The WangやThe Brainといったクラブで思想を語り合ったり連絡先を交換したりした。ソーホーはそんな、クリエイティヴでつながるコミュニティの宿る場所だった。そうしたクラブにHitomiも通うようになる。まるでディズニーランドのように思えたという新天地ロンドンの栄養をスポンジのように吸収した彼女は、この街にすぐさま馴染んだ。「SEDITIONARIESやキングズロードのスタイルとHitomi自身の友達から来てるエッセンスが入ったHitomiの着こなしはいつも本当にすごいと思ったね。Hitomiが着ていた盾のUNDERCOVERの最初のコレクションのパンツがどうしても穿きたくて、貸してくれとずっとせがんでいたよ」とバンズリー。

当時どこで洋服を買っていたのかをHitomiに尋ねると「World’s EndのVivienne Westwoodで買う以外は、ロンドン市内にいいヴィンテージマーケットがたくさんあるので、そういうところからひたすら買っていました」とのことだった。「その後Maison Martin Margiel(メゾン マルタン マルジェラ)にハマって、90年代半ばはJoseph(ロンドンの有名なデザイナーブティック)にMaison Martin Margielを買いに行っていました。でも盾とNIGO®︎がNOWHEREを始めてからは2人がUNDERCOVERA BATHING APE®の洋服を箱で送ってきてくれていたので恵まれていましたね。ロンドンの人達に、それどこの? って毎回聞かれて」




そうしたロンドンっ子の一人がバンズリーだった。友人としてスタートした彼はやがてHitomiにとってロンドンの刺激的なアンダーグラウンドカルチャーの案内役となっていく。「バンズリーから英語を教わりましたけれどほとんどスラングでしたし、深夜も大音量で音楽を鳴らしていましたからあまり眠れませんでしたけどね。でもThe Wild Bunchのネリー・フーパー(Nellee Hooper)とかセックス・ピストルズのポール・クック(Paul Cook)とかジョー・コーレとかザ・クラッシュのポール・シムノン(Paul Simonon)とかプライマル・スクリームのボビー・ギレスピー(Bobby Gillespie)とか、そういう面白い人とはたくさん知り合えました。ポップスターかアーティストかモデルの人しかいないような感じで、ほとんど毎回朝の4時まで盛り上がっていました」とHitomiは笑う。バンズリーはHitomiに、ロンドン最新のアンダーグラウンドクラブやショップ、そして最近サラ・ルイスのドキュメンタリー映画やGimme Fiveが出版した本で取り上げられたヘアサロンでありアンダーグラウンドコミュニティのハブたるCutsを紹介した。
Cutsの原型を作った天才は、故ジェームズ・ルボンだった。そしてその兄のファッションフォトグラファー、マーク・ルボン(James Lebon)が、新種のアルターナティブヘアドレッサーのテンプレートを作り出した。パンクのDIY精神に感化された彼は、ジェイ・ストロングマン(Jay Strongman)のRock-A-Chaや、(ロイド・)ジョンソン(Johnson)のThe Modern Outfitterなどのショップが入ったクリエイティブコミュニティ、ウェストロンドン、ケンジントンマーケットの地下に小さな一号店を構えた。
最新のアンダーグラウンドスタイルを見極めるセンスで、ルボン(ジェームズ・カッツとして知られている)は才能と実力を発揮した。Cutsは新種の個人経営のヘアサロンで、その多国籍的世界観はレイ・ペトリRay Petri)のクリエイティブ集団バッファローとも共鳴した。80年代初期には、バッファローでフォトグラファーを務めていたマーク・ルボンの紹介で、ジェームズがセッションヘアドレッサーとなり、GIカットやトレードマークのクイッフ(髪をオールバックにし、中央の一部の髪を額に垂らしたスタイル)で知られるようになった。1983年にソーホーにロンドン初のヒップホップクラブThe Language Labが出来ると、ニューヨークでミックステープを聴いていたジェームズはこのソーホーのフリス・ストリートに店舗を移転した。
やがてジェームズはCutsを辞め、ニューヨーク大学で映画製作を学ぶようになる(そして後にボム・ザ・ベースやマントロニックス(Mantronix)といった面々と仕事を共にする影響力の強い映像ディレクターとなる)。そしてニューヨークで培った人脈を介し、ヒロシと共にインターナショナル・ステューシー・トライブも設立する。Hitomiがロンドンへやって来た頃ジェームズはもうCutsに在籍はしていなかったが、店舗にはよく顔を出していた。「ジェームズについては、Cutsのラップのレコードで最初に知って、その後に会って仲良くなったんです。すごくハンサムでスタイリッシュでかっこよくて、女の子の憧れの的でしたけれど、本人は至って謙虚でした」とHitomiは振り返る。
Hitomiとバンズリーが通っていたカフェのBar ItaliaやレコードショップのBlack Marketに近いソーホーの新拠点で始まったCutsの運営は90年代以降、スティーブ・ブルックス(Steve Brooks)と、パートナーのピート・ダウランド(Pete Dowland)、ロイドン・デイヴィス、A. ダニエル(A. Daniel)の手に渡った。この時代、ソーホーは一大クリエイティブ時代を迎え、Cutsもまた、何でもあり主義的作品を世に送り出す自由思想家たちにとっての濃密なコミュニティの一部となっていった。「Cutsはとにかく溜まり場で、髪の毛を切る用事がなくてもなんとなく行くと、そこに集まる人のクリエイティブのシャワーを浴びることになるような場所だった」とスティーブ・ブルックスは当時を振り返る。
1990年代半ばに現地で最初の職に就いたHitomiはそんなクリエイティブコミュニティに身を置いた。裏原のCiao Bambinaで彼女と盾、NIGO®︎、そしてそれぞれのクルーがどんな服装をしてどのクラブに行くか共に計画を練っていたように、Cutsもまた、最新のヘアスタイルを手に入れる以上の役割を果たしていた。「単なるヘアサロンを越えたストリートファッションの中心地でした。i-DやThe Faceの撮影も行われていて、クラブや洋服、カルチャー関係の情報も手に入って。Cutsで働いているというのは、普通にヘアサロンで働いているというよりも、おしゃれなクラブで働いているみたいな感じでした。Cutsというソーシャルクラブが私にとってロンドンのファッションシーンへの入り口になってくれたと思います」とHitomiは言う。
ストリートウェア史上最も重要な人物の一人、インターナショナル・ステューシー・トライブのオリジナルメンバーでGimme Fiveの設立者であるマイケル・コッペルマンもCutsの常連だった。「携帯電話が普及する前だった当時は、みんなCutsに集まって、最新情報に触れて、毎晩どんな連中がいるかチェックしていたんですよ」とマイケル。Hitomi もCutsに通う中で、友人でMILKの創業者である大川ひとみを介し、コッペルマンと知り合った。「マイケルのことは名前も知りませんでしたが、すぐ親しくなって、バンズリーも含めて一緒にいろいろなクラブやパーティーに行きました。母には2年で日本に帰ると約束していたのに、あまりにも楽しくて帰れなかった」とHitomiは語る。
マイケル・コッペルマンは1989年、国際銀行の商品取引者としての職を失った後、代理店としてのGimme Fiveを設立した。イギリスや日本のクラブ愛好家にSTÜSSYを紹介することに加え、マイケルは日本のブランドのイギリス進出も手がけた。強い影響力を持ったHitomiの知人達との出会いについてマイケルは言う。「知り合ってから、Hitomiが僕の自宅にすごくいい日本のパンク達を連れてきた。高橋盾や一之瀬(弘法、高橋の学友で、UNDERCOVER設立に協力した後、VANDALIZE(ヴァンダライズ)をローンチ)、ひとみ(MILKの大川)、Cat(SEXショップのCat Womanのようなヘアスタイルをしていた東京のパンク)とかね。一緒に楽しくお茶をしてから、近くにある僕のオフィスへ来てもらった」

代理店としてGimme Fiveが支援したUNDERCOVERやA BATHING APE®、visvim(ビズヴィム)、NEIGHBORHOOD(ネイバーフッド)といった、彼らの携わる日本ブランドはイギリスに触れていくようになった。GOODENOUGHの精神性は「僕達は自分なりの道を行く。僕たちはつながり、表現し、伝え、示し、デザインをする。本物であることを大切にし、プロダクトが物を言うようなものづくりをする」というマニフェストに凝縮されている。
コペルマンはGimme Five独自のクロージングラインを立ち上げた。マーベルコミックスの『ファンタスティック・フォー』から取ったロゴを採用し、有名なところでは近年15周年記念のリバイバル版が製作されたクリント・イーストウッド(Clint Eastwood)のダーティ・ハリー(Dirty Harry)のTシャツなどを発売した。Gimme Five創成期のマイケルとの交友はHitomiの記憶に深く残っている。「仕事が終わってからGimme Fiveのオフィスのすぐそばだったマイケルの家に寄って、マイケルのレコードをクラブ並みに大音量で聴いたり、ニンテンドーのゲームで遊んだりして一緒に過ごしていました。いつもマイケルの友達もいて、楽しかったですね」
そうした交友はあったものの、Hitomiはデザインの方向へ進むことを全く考えてはいなかったし、アートのバックグラウンドも全く持っていなかった。コンピューターで仕事をしたことさえなかったのだ。「コンピューターの使い方を教えてくれたのはジェームズ・ルボンでしたね。ジェームズは本当にクールなんですけどすごく親切で、とても力になってくれたんです」とHitomi は言う。そんな交友の末、1995年、マイケルはHitomiに、具体的な仕事内容については全く取り決めずにとにかく一緒に働いてほしい、手伝ってほしいとの申し出をした。「仲間だったAtsukoが結婚を機にGimme Fiveを辞めることになったとき、Hitomiと仕事がしたいと思ったんだ。Cutsでも働いていたし、お互い日本発祥の同じようなものが好きだったから。ロンドンでそういうものが好きな人は他にいなかったからね」とコペルマン。
ロンドンと東京を結びつけることに加え、Hitomiはまもなく、Gimme Fiveレーベルのデザイン開発にも協力をするようになった。グラフィックデザインの知識は全くなかったものの、アップルマックデザインのパイオニア的ツールであるイラストレーター等プログラムを習得した。イームズの椅子から古いレコードスリーブ、コミック、チラシなど、ありとあらゆるものから着想を得て、Hitomiが最初にデザインしたのはGimme FiveのカレッジロゴTシャツだった。「NIGO®︎が私のグラフィックスを見て、Very ApeのTシャツもデザインしてくれないかと頼んできたんです。そんな感じでデザインの仕事が始まりましたね」とHitomiは振り返る。
こうして当時、Hitomiとマイケルの指揮の下、東京ロンドン間の結び付きは強まっていった。「あの頃マイケルの事業は日本で盛り上がっていましたので、私が日本人とのやり取り面でサポートをしていたんです」とHitomi。裏原シーンが最高潮に達していた時代だ。欧米文化やヒップホップ、パンク、スケートボードなどのサブカルチャーをインスピレーション源としながらも、そこに強力な日本ひねりを加える。そんな世代からストリートウェアの未来が作られていったのだ。そんなシーンの中心にいたのが、アメリカンヴィンテージの洋服やスニーカーに加え、創業者である盾とNIGO®︎、そしてその友人らの手がけるアイテムを売っていたNOWHEREだった。2つに区分された店舗内の、盾のUNDERCOVERのアイテムの隣に並んだ、NIGO®︎とその友人でよくコラボレーションをしていたSK8THING(スケートシング)のグラフィックTシャツがA BATHING APE®の始まりだった。藤原ヒロシと高橋盾によるパンクへのカルト的オマージュであるAnarchy Forever Forever Anarchy(アナーキー・フォーエバー・フォーエバー・アナーキー)もこの店から発進した。加えて、見た目には近くても世界観を異にする、滝沢伸介によるアメリカーナリーディングのNEIGHBORHOOD、岩永光のBOUNTY HUNTER(バウンティーハンター)などが原宿の裏道に立ち並んだ。


Hitomi が都内のクラブで Mo Wax主催者のジェームス・ラヴェルと出会ったのはその頃だった。ロンドン住まいとは言え、東京とのつながりのあったHitomiは2都市の橋渡しを受け持つこととなった。「ある日私が着ていたA Bathing Apeのアイテムをジェームスがすごく気に入って、どこの?と聞かれたので、NIGO®︎に紹介したんです」とHitomiは振り返る。


NIGO®︎はロンドン市内でA BATHING APE®とUKラインのVery Apeの代理店業務を受け持つGimme Fiveに程近いアパートに住んでおり、ラヴェルとはすぐに打ち解けた。「歳も近くて共通点も多かった」と、以前の取材でラヴェルはHighsnobietyに語っている。「NIGO®︎にも日本にヒロシという目上の人がいるというのも僕と似ていた。僕もマイケル(・コペルマン)みたいな人達を尊敬していたからね。それに、好きなレコードも、集めてるおもちゃも、『スター・ウォーズ』好きなところとかもとにかく同じで。僕がMo’ Waxで活動し始めるのと同時期にNIGO®︎もA BATHING APE®も立ち上げていたし、とにかくつながる部分が多かった」
Gimme FiveのマイケルとHitomiの活動により、東京ロンドン間のコネクションはさらに拡大していた。「マイケルはGOODENOUGH UKとGimme Fiveの立ち上げでヒロシと一緒に仕事をするようになったんです」とHitomi。裏原の一大ムーブメントに先駆けて誕生したレーベルのロンドン進出の折にHitomiがちょうどロンドンにいたというわけだ。「Gimme Five向けにデザインをするようになってからGOODENOUGHの仕事を始めたんです」とHitomiは回想する。「Gのアイコニックなデザインはヒロシが先に作っていましたけれど、Gをベースにしたロゴのデザインは私がして、新しいロゴも作ったんです。その後私のシグネチャーピースのオールオーバープリントのTシャツをデザインしました」
1998年ソーホーのアッパージェームスストリートに小さな店舗が誕生し、ロンドンと東京のストリートウェアシーンは互いのつながりをさらに深めることとなった。マイケル・コッペルマンとフレイザー・クック(Fraser Cooke)(後のNikeスペシャルプロジェクトシニアディレクター)の考案したHit and Run(後のHideout向けにはHitomi がGimme FiveとGoodenough Tシャツの両方をデザインすることとなる)は、コッペルマンが度重なる訪日で発見したブランドをヨーロッパで初めて取り扱う店舗となった。店内にはGOODENOUGH UKやA BATHING APE®、NEIGHBORHOOD、WTAPS(ダブルタップス)、そしてUNDERCOVERといったレーベルがSTÜSSY、Supreme®(シュプリーム)、SILAS(サイラス)といったブランドと共に並べられた。「マイケルは日本のレーベルとコネクションが強くて、Hit and RunもHideoutも、ロンドンの人達にとって初めて見るような新しくていいものを紹介しているのがとても良かったですね」とHitomiは話す。
その頃Hitomiはマイケルと共に度々日本を訪れていた。「ハードに働いてハードに遊んでもいました」とHitomi。「私の日本人の友達大勢と一緒にいろいろなバーやクラブ、カラオケに行きましたね。当時マイケルは日本でよくDJをしていて、私達は全員、マイケルの音楽もおもてなし精神も大好きでした」

またHitomiは東京とその他のロンドンの主要人物との橋渡しも行った。その一人がフレイザー・クックだ。「当時盾が東京で日本人モデルだけを採用したショーをしていて、イギリス人のモデルもいい人がいないか探してもらえないかなと、ごくさりげない感じで聞かれたんです」とHitomi。「マイケルのところで働いていたレイチェル・パーソンズ(Rachel Parsons)という人がモデルさんをたくさん知っていて、ニューフェイスのキャスティングを手伝ってくれました。最終的に10人くらい見つかったとフレイザーに伝えたところ、フレイザーがよし一緒に行くと言って」。気さくな盾とフレイザーはすぐに打ち解けた。
さらにHitomiはストリートアートのレジェンドとストリートウェアのレジェンドとの縁結びにも一役買った。「スタッシュ(ニューヨークのグラフィティアーティストであるジョシュ・フランクリン(Josh Franklin)のこと)とは確かフレイザーの紹介で知り合いました」とHitomiは振り返る。「当時フレイザーはアメリカのブランドの仕事をしていて、スタッシュと親しかったんです。フレイザーは私がCutsで働いていた頃の仲間で、1995年にスタッシュが仕事で日本に行くという話を彼から聞きました。NIGO®︎がスタッシュにとても関心があったのを知っていたので、2人で会ってもらえるようにセッティングをしました。そうしたらとても気が合ったようで、一緒にかっこいいものを作る話に発展したみたいです」。1995年スタッシュのグラフィックの傑作とNIGO®︎の特徴的なA BATHING APE®のデザインがこうして出会い、特注Spray Canボックス入りのTシャツシリーズなどが誕生した。
90年代のその後から2000年代にかけて、HitomiはA BATHING APE®のみならずUNDERCOVER、Real Mad Hectic(リアル マッド ヘクティク)、Let it Ride(レット イット ライド)、aNYthing(エニシング)といったブランド向けの仕事を手がけていった。その中で一番お気に入りのデザイナーは? と尋ねるとHitomiはシンプルに「私は大好きだと思えるものしか作らないので、どれも最高のお気に入りです」と答えた。彼女があまり知られず謎めいた人物であるのには、彼女がHITという名前で活動をしてきたことが関係している。「メンズブランド向けの仕事をずっとしてきた中で、デザイナーの名前をシャツに入れたいということになって。当時メンズブランドに女性デザイナーはあまりいなかったので、私が女性だと知ったら、業界関係者からまともに受け止めてもらえないんじゃないかと心配だったんです。HITなら男女どちらでも通用しますし、そういう差別を受けなくて済むかなと思って」
2000年代半ばに入り、ストリートウェアの立ち位置がアンダーグラウンドからメインストリームへと着実に移行するにつれ、Hitomiには複数の主要ブランドから声がかかるようになる。Nike向けには2006年、人気のAir-U-Breath PackのAir Stabのデザインを手がけた。このプロジェクトには同じくグラフィックデザイナーのケヴィン・ライオンズ(Kevin Lyons)とベン・ドラリー(Ben Drury)もコラボレーションしている。「ずっとスニーカーやスポーツウェアのデザインをしてみたいと思っていたのでとてもうれしかったです」とHitomiは言う。「テーマはエアーでしたので、Nikeのエアシューズの軽い履き心地について考えていました。そうしたら頭の中に飛び回るウサギと猫の足や目が浮かんできて。私が好きでよくGOODENOUGH UK向けに使っていたオールオーバープリントのような細かい柄を繰り返したプリントを考えました。色も素材も良かったですし、スニーカーにもウェアにも私のグラフィックがとてもうまく乗っていてすごくうれしかったです」。これに続き、2008年にも、同年開催の北京オリンピックの一環で行われたNikeコラボレーションプログラムAir Max 90 dropで、イオン、ドラリーのデザインに並んでHitomiのデザインが採用された。
取材に訪れた日、Hitomiと彼女の友人達はHitomiの古い友人でスタイリストのアイコン、ジュディ・ブレイムへのオマージュとしてAvailable Nowhereブランドを立ち上げる最終段階にあった。「ジュディには1996年、Gimme Fiveで初めて会いました。まだ当時マイケルのところではAtsukoが働いていたので、私は入る前です。ジュディは私にとってヒーローみたいな人で、最初は恥ずかしくて話しかけられませんでした」とHitomiは言う。「その後ずっとジュディとは会えなかったのですが、2016年にマイケルがジュディのところに私を連れて行ってくれたんです。平静を装おうとしましたが、お部屋にはジュディの作った素晴らしいジュエリーやアートがいっぱいでじっとしていられませんでした」

マイケル・コッペルマンと、フォトグラファーのマーク・ルボン(Mark Lebon)、デザイナーで職人のデイヴ・ベイビー(Dave Baby)を始めとするジュディと親しかった友人らとのコラボレーションで考案されたAvailable Nowhereはジュディにオマージュを捧げるブランドとなる予定だ。「ジュディ・ブレイムレーベルで既にプロダクトは作ってあったんです(Gimme Fiveが代理店業務を担当)。ジュディと仕事ができることも、語尾に“ダーリン” を付けて話してもらえるのもとても嬉しかったですね」とHitomiは言う。「そんなわけで、ジュディのアーカイブを使って、新レーベルのアイディアをブレーンストーミングしました。現段階ではTシャツ、ジャケット、シャツ、スカーフが出来ています。これからどう展開していくかがとても楽しみですね」

その他にもHitomiは、娘のアイヴィ・ジョンソン(既にUndercoverなどのレーベルと活動をしている)との新レーベル立ち上げ、グラフィックデザイナーの倉石一樹との仕事などに取り組んでいて、こちらではGimme Fiveのマイケル・コッペルマンのリコリスオールソートの柄をリピートしたリバーシブルのTシャツなどが考えられている。どの仕事も、若い頃に好奇心いっぱいで東京からやってきた自分にロンドンという街がチャンスを与えてくれたおかげだとHitomiは言う。「マイケルやバンズリー、ジェームス・ルボン、Cutsの仲間との出会いがなければ、きっと東京に戻って新宿のお寿司屋さんかどこかで働いていただろうと思いますから、たくさんの出会いに本当に感謝しています。単なる仕事の関係ということではなくて、その人達とも、そこからつながった人達とも一緒にたくさん遊んで楽しく過ごしましたから」。将来的にHitomiは今まで受けてきた愛や支援への恩返しをしていきたいと言う。「まだあまり知られていないアーティストやデザイナー、いろいろな面白い人達と仕事をしていきたいと思います。エネルギーいっぱいの若い人達を支援しながら、経験豊富な年配の方々からの学びも重ねたいですね」
※本記事は2020年3月に発売したHIGHSNOBIETY JAPAN ISSUE04に掲載された内容です。

【書誌情報】
タイトル:HIGHSNOBIETY JAPAN ISSUE04:King Gnu常田大希
発売日:2020年 3月30日(月)
定価:1,650円(税込)
仕様:A4変型
◼︎取り扱い書店
全国書店、ネット書店、電子書店
※一部取り扱いのない店舗もございます。予めご了承ください。
※在庫の有無は、直接店舗までお問い合わせをお願いします。
- PHOTOGRAPHY: CHRIS TANG
- WORDS: ANDY THOMAS