「今ネイルにハマっていて」とマーク・ジェイコブス(MARC JACOBS)は自己紹介代わりに述べた。まるで筆者が、装飾されたネイルチップをカチカチ鳴らしたり、カメラをトントン叩いたりしている彼のInstagramのASMR動画を隅々までチェックしていないかのような振る舞いだ。彼のネイルを担当しているのは、ブロンクス出身のネイルアーティスト、ユレニー・ガルシア(Yulenny  Garcia)。通称ムニェカ(スペイン語で人形を意味する言葉だとジェイコブスが説明してくれた)。先週二人はそれぞれのInstagramアカウントに、共に電子タバコを吸いながらスペイン語で雑談している動画を投稿した(ジェイコブスがスペイン語でおしゃべりができるとは、筆者もそこで初めて知ったものだ)。

彼の最新ネイルは、JUUL(スティック型電子タバコ製品)を覆うほどの長さのフェイクべっ甲チップに、丸いチューインガム大のストーンがあしらわれた傑作だ。

こうした手の込んだデザインは全てムニェカに任せているのだろうか?

「僕の注文は細かいよ」とジェイコブスは微笑んだ。確かに愚問だった。

「両手のスケッチを自分でして、ストーンをたくさん並べた。作業を進めながらムニェカもたくさん意見を出してくれる。ただ、ネイルに限ったことではないけれど、僕の場合ほとんどいつも『具体的にはどうとは言えないけれど、絶対にこういうイメージ』というのがある」

インタビューから数日後にまたジェイコブスのInstagramを見ると、入念なネイルデザインの様子が動画で紹介されていた。トパーズ、ゴールドミラー、アンバーの色合いの様々なビーズ(解説によると「デザインスタジオのクラウディオ」と一緒に収集したものとのこと)、フェイクのべっ甲の着想源となった70年代のロレンツォ・モンジャルディーノのレスティングテーブル、そしてジェイコブス自身がデザインした(「自分でチャートを作っている」という)サンプルなど。あらゆる可能性を試したネイルだ。動画のキャプションには、#gratefulnothateful(憎悪ではなく感謝)という彼独自の禅の文言が入れられていた。

彼のネイルへのこだわりには、ランウェイへのこだわりに匹敵するものがある。同様に、ジェイコブスのネイルには、見た目以上のものがある。キューティクルの向こう側にある精神的な層、肉体や感情、感覚を超越した彼自身の本質の追求。ネイルは、ジェイコブスにとって心と体を目覚めさせるものとなっている。朝、瞑想を始める前に「爪がきれいに整っている」のがいいという。またネイルが彼に自己、そして周囲との調和を保つよう、ゆるやかに促してくれることもあるという。ネイルによって今この瞬間に精神を留め、落ち着かせ、創造的な発想に没頭するきっかけを得ている。「実際、科学的にも説明できると思う。この爪だと何事もそっとするようになるから」と彼は説明した。「方法としては不思議だけれど、ゆっくり、意識を集中させて全ての動作をすることで、ストレスが薄れて気持ちが穏やかになる」

彼のアクリルネイルは、単なるネイルを超越したひとつの生き方の域に到達している。

彼の夫が国内外を捜し回って見つけたエレガントなシナモンバニラ味の限定電子タバコを吸いながら、アクリルネイルにまつわる気づきの話として、ジェイコブスは、冷蔵庫から炭酸飲料を取り出した時のことを語った。「その瞬間、ネイルがほかのボトルに当たって音を立てた。その風鈴みたいに心地の良い音を聞いて『これまでの自分はいつも冷蔵庫を開けて中を見ることもなく手を伸ばして飲み物を取り出すだけだったな』と気づく。それが突然、ネイルのおかげで風鈴みたいな音に包まれる日常に変わる」

ネイルがアルミ缶に当たる音が天使の合唱に聞こえる。これがジェイコブスの世界だ。

今、ジェイコブスの世界はかつてないほど成長している。この1年、MARC JACOBS(マークジェイコブス)チームはTikTokにコンテンツを次々と投稿してきた。ほかの多くのファッションブランドがZ世代やアルファ世代に響く美しくハイグロスなコンテンツ制作に躍起になっているのをよそ目に、あえて大胆にTikTokerを起用し、彼らの好きにさせるという至ってシンプルな戦略を取ったことが奏功している。筆者のお気に入りとしては、ロンドンで熱狂的ファンを持つズンバインストラクターがティナーシェの「Nasty」に合わせ体をくねらせながら踊る動画、おしゃべりなレイモンテが道行く人に無作為に接近し、その服装を大げさに褒める動画、眼鏡をかけたオタク風のグーフィー・グーバーという名前の男が痛々しい踊りを見せる動画などがある。グーフィー・グーバーを含め、このアカウントではどのTikTokerも全身MARC JACOBSの装いで登場する。

TikTokをジャックすることで誰の目にも必ず触れるブランドになるというのは見事なアイデアだ。「彼のブランドも彼自身もソーシャルメディアで大成功している。それは、クールさを獲得した人物という自らの立ち位置を彼自身が冗談として受け入れているからだと思う」と、『Harper’s BAZAAR』のエグゼクティブ・デジタル・エディターであるリネット・ニランダーは語る。間違いない。そんなやり方が成功を呼んでいる。ほかのブランドも再現しようとするアイテムの数々。TikTok上でトートバッグを見せている動画も無数だ。ジェイコブスはこの成功を自身のチームのおかげだと評価している。常に最新情報を入手しているアヴァ・ニルイ(Ava Nirui)はHEAVEN(ヘブン)(「MARC JACOBSの反逆精神が息づく広大で不可解なオムニバースへの入り口」を自称する、MARC JACOBSブランドの部分集合体)を通じ、Ver.2.0のジェイコブス・コミュニティを育成してきた。またマイケル・アリアーノ(Michael Ariano)もジェイコブスの長年の右腕だ。「全てをこなせる人間などいないし、全てを自分でしていると見せかけたりもしない。才能のある人を周囲に持つこともひとつの才能だと思う」と、チームに恵まれていることについてジェイコブスは語っている。「そのおかげで、平坦もなければ、一人の人間や一人の意見に左右されたりしない、よりバランスの取れた集団になる」

ブランドの40周年を記念して、MARC JACOBSはフューチュラとのコラボレーションを展開している。ニューヨークを拠点とするアーティスト・フューチュラといえば、これまでSupreme(シュプリーム)、COMME des GARÇONS(コムデギャルソン)、Nike(ナイキ)などとのコラボを覚えている方もいるだろう。定番のロゴをコア製品(トートバッグもそのひとつ。ニューヨーク・ファッション・ウィーク中のSoHo(ソーホー)ポップアップに注目いただきたい)に再解釈する。「フューチュラ(FUTURA)はずっと最高の存在だった。キース・ヘリング(Keith Haring)やアンディ・ウォーホル(Andy Warhol)ほど人気はなかったかもしれないけれど、間違いなく伝説のグラフィティアーティストの一人だった」とジェイコブスは言う。「参加してもらえることになってとても嬉しく思った。あの時代にニューヨークで活躍した真のクリエイターで、かつ今も生きている人は限られるから」

おふざけのブランド公式アカウントも結構だが、加えてジェイコブス個人のInstagramアカウントもある。そこには、真面目な内容から平凡な内容、愉快な内容まで、様々なものが飛び交っている。TOTO(乾燥機能付き)便座の仕組みを説明しているビデトーク(またこれも長いネイルの話になるが)もあれば、通勤の車中、霊を呼び出すかのように爪をカチカチ鳴らすジェイコブスの姿もある。しかし筆者が一番感動したのは、MARC JACOBSトートバッグの最新作に込めたインスピレーションについて説明するジェイコブスの優しさだった。今回のヴァージョンはレザー仕上げで、故スティーブン・スプラウス(Stephen Sprous)の、鋭く鮮烈なネオンフォントによる“THE TOTE BAG”のグラフィックが施されている。スプラウスのバグといえば、ジェイコブスがLOUIS VUITTON(ルイ・ヴィトン)時代にスプラウスとのコラボで作り出したバッグがその後10年を象徴するような存在となった、という前段があることをご存知だろう。「当時はとてもストレスを抱えていた。ある日出勤すると、スティーブンがLOUIS VUITTONのモノグラムキャンバスの切れ端に、僕への贈り物として、彼なりの『平穏の祈り』を書いてくれていた。『私に冷静さを与えたまえ』という言葉だった。以来、大変なことがあったときにはいつもこの言葉を思い出す」とInstagramでジェイコブスは説明している。

そんなひとときを世界と共有するのはなんとも素敵だ。ハイテクを駆使した茶番も一切ない。ジェイコブスがスプラウスでいっぱいのMARCJACOBSの店舗ウィンドウ前にただ立ち、バッグを優しく抱え、マイクも編集もエフェクトもなしに、カメラに向かって語りかける動画。これが彼の動画の中でも屈指の視聴回数を叩き出している。

バッグは次々と登場し、復刻、再解釈もよく見られる。しかし、クリエイターがこれほど思いを込めて一生懸命に説明をしたことはあるだろうか? どれほど目立ったキャスティングをしても、どれだけ大きな広告看板にセレブの写真を載せても、カメラに向かって語る生身のジェイコブス当人に勝てるバッグの宣伝などできるはずがない。本物はお金では買えないのだ。

 

 

筆者もスプラウスバッグの時代に育った一人だ。スタムバッグもその頃だった。2010年代のレディライクなピーターパンリボンやふんわりミディスカート。Marc By Marc Jacobs(マークバイマークジェイコブス)もあった。巨大な白いショッピングバッグに入ったヴィクトリア・ベッカム(Victoria Beckham)のキャンペーン。ナオミ(・キャンベル)(Naomi Campbell)のヌード写真の上に「PROTECT THE SKIN YOU’RE IN」と書かれたTシャツ。ジェイコブスの魅力については、メンサのファッションフリークで、2009年スプリングコレクション(ルック1、2、5、11、27、35)のトップスを複数所有する私のSubstack仲間のニシャ(Nisha)の「ジェイコブスの持ち味は昔からユーモアと皮肉を交えたレトロな装飾や、サブカルチャースタイルに着想を得た装飾。ランウェイでもその良さを殺すことなく見せてくれる」という表現が実に的確だ。

ファンを熱狂させ、ヴィヴィアン・ウエストウッド(Vivienne Westwood)からも賛辞を得た、パンクで忘れられない強烈なコレクションの数々。2011年、ジェイコブスは、ニューヨークファッションの伝説的人物、リン・イェーガーに着想を得て、帽子中心のコレクションを作った。「彼にはフレッシュなニューヨーク感がある」とイェーガーは言う。そのフレッシュさゆえに、ジェイコブス自身が自分はセンチメンタルであるとか、マッドクラブ(Mudd Club)やデボラ・ハリー(Debbie Harry)に育てられたのだと述べてはいても、我々がジェイコブスの過去について懐かしむことはまずない。「ジェイコブスは20年前の自身の作品の焼き直しをしているわけではない。今の作品には今の個人的な思いや物の見方が濃厚に出ていると思う」とニシャは付け加えた。最近の、特大のドールハウスチェアやキキブーツも単なる見せかけではなく、デザインや作りそのものが進化している。SSENSEの編集ディレクター、ステフ・ヨッカ(Steff Yotka)は、ジェイコブスのソーシャルメディア活動について、MARC JACOBSブランドの愉快な分岐と考えている。「キャリアが長くなるにつれ人は自分自身のなんらかのヴァージョンや、自分自身の風刺画のようなものへと結晶化していく」と彼女。ソーシャルメディア、ショー、プロダクト。ジェイコブスは停滞していないし、今この瞬間の熱さは再発明によるものではない。ランウェイであろうとInstagramやTikTokであろうと、彼のブランドの本質が変容、変化していることが熱いのだ。

ジェイコブスはこれまでずっと、今日私達がソーシャルメディア上で目にするような人物であり続けてきたわけではない。マンハッタンに生まれ、16歳でCHARIVARIの商品補充係として、シャツを畳んだり、仕立屋と店舗の間を何度も往復したりして働くようになった。その頃は内気だったと振り返る。人と話すことに緊張し、ぎこちなくなってしまうのが恥ずかしかった。しかし素晴らしいファッション関係者に囲まれて働き、乗り切った。「答えが欲しいときには質問することを学び、知らないことについて 尋ねることを恥じなくなった」とジェイコブスは言う。「CHARIVARIで働いて、そういうところがとてもためになった。自分が不勉強だという恥ずかしさから抜け出すきっかけになった」

 

 

 

 

ジェイコブスの伝説を知る人なら、彼が初めて大きなチャンスをつかんだのがCHARIVARI(シャリバリ)であったことをご存知だろう。セールスマンになったジェイコブスは祖母に頼んで編んでもらったセーターをCHARIVARIのオーナー、セルマ(Selma)の娘バーバラ・ワイザー(Barbara Weiser)に見せた。ワイザーはその特大ニット(ニューヨーク・タイムズ紙は「大人用子供服」と名づけた)を気に入りプロデュースを手伝った。それが後に彼がパーソンズ美術大学で披露した伝説のセーターとなった(特大の水玉模様のセーターの1枚は現在メトロポリタン美術館に所蔵されている)。その後二人はMARC JACOBS FOR MARC AND BARBARA(マーク ジェイコブス フォー マーク アンド バーバラ)のブランド名でこのセーターを生産。それが歴史に残る偉大なブランドの始まりだった。

ジェイコブスにとってCHARIVARIはファッション界での運命であり、夢のような世界だった。初めて手に入れたMUGLER(ミュグレー)のセーターやMONTANA(モンタナ)のジャケットのことをジェイコブスは今も覚えている。「大好きなデザイナーの大好きな洋服だから本当に大切にしていた。そういうものを手に入れ、自分で着られるということに感謝していた」と彼は言う。その愛情は、彼の現在のInstagramにも浸透している。ほかブランドのデザイナーの作品を織り交ぜて着用し、しっかりとタグ付けし、賞賛している。これはBALENCIAGA(バレンシアガ)、こちらはCHANEL(シャネル)と。そして両ブランドのショーも最前列で鑑賞している。「そういうところに感心されるというのは面白いけれど、確かに普通はしないことだから感心するのかもしれないね。ほかブランドを褒めるデザイナーはほとんどいないから」とジェイコブスは言う。「自分の中では、自分自身が常にどこかに向かって行っている感覚がある。恥じらいがなくなり、より真なる、正直な、本当の自分になるという部分もある」

ファッションを無制限に受け入れることは、ほかのデザイナーの服を着るという一過性の興味を越えた自己発見への道である。「幼い頃、母やほかの女性が着ているものを見て、『どうして男の子はスパンコールのものを着られないの? どうして男の子にはゴールドメタリックのブーツがないの? どうして男の子にはこれがないの? どうしてこれは女性だけなの?』と言っていた」とジェイコブスは言う。「男性がネイルをしても、ゴールドのブーツを履いてもいいし、ジェンダーなど関係なく、なんでも好きなようにしていいはずなのに、実際にはずっとそうではなかった」

ジェイコブスは全体的に順調だ。ただ、努力や自己回顧は必要だ。Instagramには数多くの本を登場させている。そのうちの1冊、ドストエフスキーの『地下室の手記』について尋ねた。一人称で語られる告白と言 われたこの物語(としておこう)は、衰弱してしまうほどに「意識」の強い語り手による、世界への苦悩に満ちた思索だ(現代風に言えば「オーバーシンキング」に相当するだろうか)。「『地下室の手配』のことは頭から離れず、ずっと話題に上り続けていた」と、この作品について友人や夫と即興の読書会で話し合った時のことをジェイコブスは語った。「作品に込められたメッセージやその概念の痕跡を常に探し続けていた」。かつてのジェイコブス自身を思わせる著作なのだろうか? おそらく自己批判的な悪魔を擁護するといった内容が含まれているのだろう。ジェイコブスは最近、過激派動物愛護団体Coalition to Abolish the Fur Trade (毛皮貿易を廃止する連合、通称CAFT)から嫌がらせを受けた。CAFTの主張は、MARC JACOBSが2023年サマーのFENDIとのコラボの際に毛皮を使用したものであった。確かに毛皮はあったが、アップサイクルされたものであったし、生産は一度もされなかった。また2018年以降のMARC JACOBSのコレクションで毛皮は一切使用されていない。

『メットガラ』に向かう道中、スモークガラスの窓に向かって、CAFTのデモ参加者から怒鳴りつけられる嫌がらせを受けたジェイコブスだが、どう対処しているのだろうか? 「1日5箱のタバコ」の代わりに吸っている電子タバコ、あるいは瞑想が、その答えなのかもしれない。結局は、捉え 方を変えるしかないのだ。「うまくいかないこともある。金魚が死んだり、誰かに家の門を壊されたり、いろいろなことがある。昔なら、そういうことで本当に感情的になって『何もかも駄目だ』と思ったりしていたけれど、嫌なことや悲しいことは一部であって全部じゃない」とジェイコブスは言う。「多分今は、自分が今こう感じているということを、一旦認めた上で、なおかつ前進できるようになったのだと思う。それはそうだけど、とね」

何事をも意に介さないような、すっきりとした視点。ニルヴァーナ(涅槃)のようだ。いや、「ネイル」ヴァーナ、と言うべきなのかもしれない。「ネイルをしてからずっと幸せ」と彼は言う。今のような彼にとって至福の時代にも、批判的な意見がないわけではないが、彼は批判の中にも喜びを見いだしている。「500件のコメントの中でネガティブなものは5件程度。そのうちの1件は「キルトのMARC JACOBSが恋しい。グランジ時代のMARC JACOBSが恋しい。マッスルのMARC JACOBSが恋しい」というような内容だ。「とても面白いと思う。本当にそういう時代を恋しく思ってくれる人ならそれが僕の軌跡にすぎないと知っているはずだから」と彼は言う。「僕は常に変化し、遊び、挑戦している。全てをやり尽くすまで止めない」。彼は今、爪こそ鮮やかになったが、しっかりとその指で世界の脈拍を取るようにし、時代の流れを把握している。この先のことは、そんなジェイコブスに任せておこう。

 

 

※本記事は2024年12月に発売したHIGHSNOBIETY JAPAN ISSUE13 HOLIDAYに掲載された内容です

【書誌情報】
タイトル:HIGHSNOBIETY JAPAN ISSUE13 HOLIDAY
発売日:2024年12月10日(火)
定価:1,650円(税込)
仕様:A4変型版

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