style
Where the runway meets the street

©️HIGHSNOBIETY / THOMAS WELCH

11月21日、ベルギー人デザイナー、ラフ・シモンズは自身の名を冠したレーベルを閉鎖する旨をInstagramで発表し、それ以外の投稿を全て削除した。世紀末的なこの出来事は、一種奇妙に感じられた。アレキサンダー・マックイーンの死のような悲劇とも、ヘルムート・ラングやジル・サンダーが退任した際の劇的な感覚とも違い、類まれなラフ・シモンズというデザイナーのブランドにふさわしく、アイデアが尽きた彼自身が自ずと身を引いた形での終わりと見て取れた。とは言え、シモンズがメンズウェアの偉大なクリエイターの一人であり続けること、今後もファッション、ユースカルチャーに、彼の足跡が残っていくことは確かだ。ファッションとユースカルチャーという2つを彼ほどに融合させたデザイナーは他にいない。


シモンズの初回コレクションがしめやかに発表された1995年当時、ファッションとユースカルチャーは全く交わりを持っていなかったわけではないが、共生もしていなかった。偉大なるヴィヴィアン・ウエストウッドや、シモンズより早く同じベルギーに誕生したアン・ドゥムルメステールといったデザイナーも、ロックの反骨精神に影響を受けてはいたが、その影響関係は直接的なものではなかった。一方シモンズは、ユースカルチャーの乱雑さとラグジュアリーファッションのクリーンさを文字通り混ぜ合わせていった。

上質なメリノウールのセーターにポストパンクのバッジを縫い付ける、ペルフェクトジャケットをコートに仕立てるなどし、堅苦しいブルジョワ慣習を切り離すことで、シモンズはラグジュアリーファッションの慣習をくつがえし、若者に手渡した。10代の若者の不安や疎外感を重ね合わせたジョイ・ディヴィジョンやニュー・オーダーのグラフィック入りアーミー・フィッシュテール・パーカーをパリのキャットウォークに登場させた。これがファッションではないと言えるものなら言ってみろと、挑むかのように。そうして、それまでファッション界の暗がり、地下クラブのような場所に潜んでいたサブカルチャーという存在を、ファッション界の中心に引き上げ、脚光を浴びさせることで、他のデザイナーにはないハードコアなファンベースをつくり上げていった。

シモンズは1999年には既にメンズウェアのシルエットを確立していた。そのスリムで細長いシルエットにより、当時他のあらゆるブランドが手がけていた、ゆったりとしたラインの服は、瞬く間に時代遅れとなった。シモンズのスリムなシルエットは数年後、エディ・スリマンがDIOR HOMMEで取り上げたことでより一般化し、男性の着こなしを変えた。UNDERCOVERの高橋盾やNUMBER(N)INEとTAKAHIROMIYASHITATheSoloist.の宮下貴裕が、古くからの仕立て仕事に対抗する独自ブランドを起こすきっかけとなったのも、シモンズの成功だ。

シモンズの初期のファンは、筆者自身を含め、シモンズに熱狂した。ファッション、音楽へのこだわりの両方を融合させてくれるデザイナーが遂に現れたという喜びを感じていた。当時筆者はバーニーズ ニューヨークのインディペンデントブティックである「アトリエ」や「セブン」などで、ゴールドラッシュのようにシモンズのデザインを探し求めた。シモンズが資金面での理由でシーズンを一度やむなく見送ることとなった2001年には、ブリュッセルからアムステルダムに向かう道中アントワープに立ち寄り、持っていたバックパックを駅のロッカーに押し込むと、有名ショップ「ルイ」に向かい、シモンズがこの店のためにデザインしたカプセルコレクションのパンツを購入した。

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筆者だけではない。メンズファッション関係者には、自身のスタイルを確立する上でシモンズの影響を受けてきた人物が多数いる。Nordstromのアパレル&デザイナー部門エグゼクティブ・バイスプレジデント兼ゼネラル・マーチャンダイズ・マネージャーであるサム・ロバンも、「世間が共感できる概念の中にハイファッションを根付かせたラフの影響力は絶大だ」と語った。「ラフ・シモンズのコレクションの着想源は、サブカルチャー、ナイトライフ シーン、音楽、若者の怒り。その点では唯一無二ではないが、そうしたアイデアの表現が、ラフの場合、斬新で、意外性に満ちていて、かつ共感を呼んだ。引き込まれる世界、人生のよりどころになる服を作っていた」

「ユーティリティ、プレッピー、テーラリング、パンク、音楽、アートを融合させたラフの初期のコレクションは、革命的で魂がこもっていた」とSelfridgesアクセサリーディレクターのジャック・キャシディーも語る。「様々な要素をそれまでにない形で組み合わせていた。美しいカラーパレット、テーラードスーツ、オーバーコートのミニマルで洗練されたアプローチから、よりアナーキーで若々しい 『ストリートウェア』 へと、シーズンを追うごとに方向転換していったのも良かった。歴代のコレクションは、今でもとてもモダンに感じられる」2000年代半ば、インディペンデントファッション誌の誌面を埋め尽くしていたのは、シモンズと、アントワープのウィリー・ヴァンデルペールやオリヴィエ・リゾ、ロンドンのコリーヌ・デイやパノス・ヤパニスといった、アンダーグラウンドカルチャーの片隅から登場し、シモンズと同じ志を持ち、シモンズの作品に魅了されたファッションクリエイターらだった。ファッションにおける反体制化が最高潮に達し、アバンギャルドが止まらない勢いを誇った当時、シモンズの2005-2006年秋冬コレクション「History of My World」は最高のヒット作となった。

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しかし事態は変わっていった。2005年7月、シモンズのファッション業界における影響力を認めたプラダが、彼をJIL SANDERのデザイナーに起用した。シモンズはレディースウェアのデザインを学んだことはなかったが(専攻していたのはインダストリアルデザインであり、その意味ではメンズウェアのデザインとて、学んだことはなかったわけだが)、サンダーが得意とするミニマリズムの美学を推進できると見込まれてのことだ。だから多少奇妙であったとは言え、全く合わない人選というわけでもなかっただろう。しかし2012年、シモンズがDIORのレディースウェアをデザインすることになったのは、いよいよ奇妙に感じられた。初期の作品で正に真っ向から立ち向かっていたものに、今度は逆に寄り添うかのようなその身の振りには、これまでとずれた、不自然な印象があった。さらに2016年にはCalvin Klein就任と、目を覆う展開となる。有名ブランドを転々とし、ラグジュアリー三昧に浸るシモンズから、古くからのファンは静かに離れていった。

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アメリカ人アーティスト、スターリング・ルビーとの2014-2015年秋冬コレクションなど、シモンズ自身のラインにはまだ輝くものもあったが、ファンの評価は回復しなかった。一方、A$AP Rocky(ヒット曲 「Peso」でシモンズの名前を使用)やカニエ・ウェスト(シモンズの初期のデザインを着用)のおかげで新世代ファンが増え、初期の作品が高値で取り引きされるようになったことで、シモンズはメインストリームに受け入れられる新時代を迎える。これを受け、あのジョイ・ディヴィジョンとニュー・オーダーのグラフィックを再利用した2018年春夏コレクションなど、過去のヒット作の焼き直しが行われた。最後の数回のコレクションには疲れが見えていた。以前は活気のあったゴスやポストパンクのリファレンスが、陳腐で軽薄な印象になっていた。「History of My World」の栄光は、昨日のレーベル閉鎖発表の遥か前からとっくに終わっていた印象がある。

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T.S.エリオットの有名な詩に「世界は大きな音を立てて一瞬で終わるのではなく、長くすすり泣きながら終わる」という一節があるが、それはまるでシモンズのことを言い表しているかのようにも聞こえる。しかしシモンズの名は、カウンターカルチャーがまだファッションに存在した時代に、強い影響力を持つ世界をつくり上げた、ファッションの鬼才の名として、これからも語り継がれるだろう。