TSTSデザイナー・佐々木拓也の若き人生羈旅
※本記事は2023年9月に発売したHIGHSNOBIETY JAPAN ISSUE11++に掲載された内容です。
デザイナーの佐々木拓也とパタンナーの井指友里恵のデュオが手がけるTSTS(ティーエスティーエス)が、2023年秋冬シーズンにデビューコレクションを発表した。佐々木は、昨年27歳の若さで他界したデザイナー髙橋大雅とともにブランドTaiga Takahashi(タイガ タカハシ)を導いてきた人物だ。青森の田舎で生まれ育ち「ここのがっこう」や「アントワープ王立芸術アカデミー」を経験した彼のデビューコレクションは自己紹介だと言う。独自の視点を通した日本と欧州のファッションにおける教育論やデザイン論から導き出されたクリエイションとファッションビジネスについて、そして惜しまれる天才、髙橋とのパートナーシップについて話を聞いた。
——幼少期はどのような環境で過ごしましたか?
標準的な田舎の家で生まれました。田舎といっても、青森の中でもちょっと指をさされて笑われるくらいで、25歳くらいの時にやっと水洗トイレになったほどの陸の孤島みたいなところで育ちました。隣の家が1キロも先にあり、ふらりと遊びに行ける環境でもなかったので、ゲームしたり、本読んだり、一人で過ごす時間が多かったかもしれません。
——どのような教育を受けてこられたのでしょう?
印象に残っているのは、宿題で自分の名前の理由を親に聞いたときに「できるだけ当たり障りのない名前にしたかった」と言われたことです。あまり目立たずに普通でいてほしいという気持ちが強かったようで、クリエイティブな教育は一切ない半面、これをするなと言われることもないような環境でした。
——ファッションを目指したきっかけがストリートウェアとのことですが、その背景にはどんなことがありましたか?
家の近くに服屋はなかったですが、エアマックスの影響で唯一NIKE(ナイキ)だけが流行っていたんですよね。兄のいる友人からの情報もありましたが、同時に青森の県南にある三沢基地からアメリカの文化が少しだけ漏れ出てきていたんです。中学校の給食の時間にエミネム(Eminem)がかかっているような物理的な接点と時代的なものとでストリートファッションの影響は身近に感じていたかもしれません。
9〜10歳の当時、親に頼み込んで3,600円のNIKEのスニーカーを買ってもらい、そこからPUMA(プーマ)、Reebok(リーボック)、adidas(アディダス)と知っていくうちにスニーカーに合うパンツを整えることを考え始めるんです。それでチノパン、Tシャツというように足もとから上にいき、中1くらいで雑誌『Boon』に出合って自分達の延長じゃない外側の世界を見て感化されました。医者になろうとしていたんですが、好きじゃない勉強ができなくなってファッション業界を意識し始め、月10冊程度の雑誌を読み漁りました。そこで、奈良裕也さんが “I Love Dior” っていう缶バッジを着けているのを見つけるんです。「Supreme(シュプリーム)」「Stüssy(ステューシー)」「A BATHING APE®(アベイシングエイプ)」のようなストリート系のブランドしか知らなかった中で「DIOR(ディオール)ってなんだ? 」と。そこでモードの世界を知ってからMIXIなどの情報交換をするプラットフォームで情報収集しまし た。「2005年のエディ・スリマン(Hedi Slimane)のチームはクリス・ヴァン・アッシュ(Kris Van Assche)がいて、ルカ・オッセンドライバー(Lucas Ossendrijver)がいて」というようなアングラな話をするコミュニティで、東京のファッションの人達と交流し始めたんです。
——その後、文化服装学院に入学。翌年には「ここのがっこう」とのダブルスクールで学びを深めました。山縣良和さんがセント・マーチンズから持ち帰った欧州基準で立ち上げたプライベートスクールとして注目されていましたが、文化服装学院との教育的な違いはどのように感じましたか?
優劣があるわけではないのですが、文化服装は職業訓練校の歴史がベースになっているんですよね。初代デザイン科長の小池千枝先生がフランスから立体裁断を持ち帰って、四角形の中から服の形を作り出す囲み製図という作図理論と組み合わせたんです。それはファッションにおける感性を育てるのではなく、あくまで工場で縫いやすい形にするための手法がもとになっている教育で、実際、名刺交換の仕方や上座がどこかなどといった授業があったりしたことに僕は違和感を持っていました。
文化服装を卒業後、アシスタントとして運良く学生のものづくりを手伝いながらアントワープ王立芸術アカデミーに出入りして卒業ショーを見ることができたんです。その時、アントワープでは「(洋服を)グルーガンで留めていてもいいし、ピンが刺さってても構わない。ただランウェイで壊れないようにしてくれ」と言われるんです。イケてたらいい、感動させられたらいい、と。僕は海外のやり方が腑に落ちました。
——アントワープの校舎や学生達のムードはどのような感じでしたか?
入るなり、壁に貼られた学生達のドローイングや学生の空気を見るだけで全て視点が違うことに気づきました。かっこいいものを扱うという感覚がそもそも違っていて、魅せることに長けている。うまく描くことの向こう側を目指していて、空間すら支配している感覚がある。校舎に入った瞬間それを喰らって、さらに卒業ショーの首席の卒業生のショーでは皆が座っていられなくなるほど熱狂するランウェイを目の当たりにしました。「服ってここまでいけるのか」と言わしめるほど、パワーがみなぎるショーを目の前で見てすっかりやられてしまった。それで、3カ月後の帰国直前に入学試験に記念受験してみた。教室の真ん中に置かれたマネキンを白黒で描く課題、持ち込みのポートフォリオ、面接の3科目の試験でした。500人くらいが受験して、20点満点で10点以上が合格。英語も話せなかったのですがギリギリで合格しました。
——アカデミー留学中は「HEAVEN TANUDIREDJA ANTWERP」でのインターンなど活発に活動されていたようですね。
アントワープは毎年生徒が半分に減っていくような学校なんですよね。50人ほど入学する中で最後まで残るのは10人か5人くらい。1年時は30人もの生徒が進級できないですから1年生が一番厳しいと僕は思います。言葉の壁もあったりして実は僕も2年目に突入してすぐにメンタルをやられてしまい、休学したんです。数カ月後、心も持ち直したところでちょうど「HEAVEN TANUDIREDJA」からインターンのお話をいただき、元々天才的なデザイン性を認識していたこともあり学びに行きました。ハンドキャリーでパリまで展示会に出向いたり、卸について学んだりとブランドの基本的なことを知る良い機会でした。
——アカデミーはなぜほとんどの生徒を進級させないんですか?
デザイナーに全員がなれるわけがないので諦めさせてあげるんです。デザイナーが人生の正解でもないと責任を持って示してあげる。先生が自分で落とした生徒を最後に泣きながら抱きしめてあげるような学校なんです。そこがアントワープ王立芸術アカデミーの凄さですよね。僕は4年間いて卒業コレクションを合格してはいるんですが、厳密には学位を取っていないんです。アントワープは3年目までが学士号で、4年目が大学院に切り替わるんですが、一般教養としての単位を取らなかったんです。実は結構そういう人が多くてハイダー・アッカーマン(Haider Ackermann)もそうだったと聞いてます。
——学生同士の関係性はどのような感じなのでしょうか?
結構ポジティブでしたね。先生が厳しいので結託するような部分もあったかもしれない。友人同士もファンとして「コイツのもっとやばいコレクションを見たい」と思うような関係といいますか。ルシェミー・ボッター(Rushemy Botter)(BOTTERの共同創業者)とはクラスメイトで、学校のインスタグラムのアカウントを友人と3人で作ったんですよ(現在は学校が運用)。そんな感じでみんなで盛り上げていこうよみたいなムードでしたね。
——卒業コレクションでは、お笑いや哲学者カント、現代アーティスト、ス・ドホ(Suh Do Ho)など様々なジャンルからの二面性を引用していました。ステートメントを読むとかなりコンセプチュアルに感じましたがどんなことを表現したかった、もしくはするべきだと考えていたのでしょうか?
アントワープはそもそもコレクションを作るからには批評性や世の中に対して何が言いたいのかステートメントをクリアにしろという教育を受けるので、それがないと自分の中で腑に落ちないんですね。
「緊張と緩和」という一言で括ったのは、当時ラグジュアリーストリートのようなアスレジャー・スタイルが世の中を席巻し始めているのに対して、自分はバキバキのエディ・スリマン(Hedi Slimane)育ちなわけで、「そっちもいいけど、ピリッとしてもいいんじゃない? 」というムードが自分の中にあって。この両極を「緊張と緩和」という言葉で括り、そこから北野武や映画の『ソナチネ』にあった、沖縄の海とヤクザが暇つぶしをしながら死んでいくというような、相対する世界観を展開していきました。
——今期「TAKUYA SASAKI TEST SAMPLES」をローンチしました。この名前に込められた思いやメッセージはなんですか?
アントワープの最後のコレクションを「SAMPLES」というタイトルで発表した時にドローイングの先生に「ベルジャンデザイン(ベルギーらしいデザイン)になってきたね」と言われたんです。その意味を考えながらも、マルタン・マルジェラ(Martin Margiela)と一緒にいた方からの批評と思うとじわじわと来るものがありました。ミニマルでコンセプチュアルな僕のスタイルは、派手さのある当時のアントワープテイストではないけれど「それがお前のスタイルで、そのままで変わらなくていい」とウォルター(※)に言われたりしたこともあります。それらが現在ものづくりを考える上で軸になっていて、実験過程のようなスタンスがあるかもしれないですね。
実験過程のスタンスは、ミリタリーウェアの世界で、選抜された兵士に正式支給前のテストサンプル品を着用テストさせることと通ずるものがあります。ブランド名は最終的に視覚的に直線と曲線だけの不思議さを持つ「TSTS」で落ち着きました。
※Walter Van Beirendonck=学長でありアン・ドゥムルメステール(Ann Demeulemeester)などと並び、アントワープ出身でファッション史の一時代を築いた “アント・ワープシックス” の一人
——2023年秋冬コレクションのテーマに「PROPAGANDA」を選んだ背景をお聞かせください。
自分にとってコレクションを作ることが7年ぶりだったので、リハビリを兼ねてスクラップブックを作りながらコンセプトやエレメントを構築してきました。ステートメントを明確にもしたかったですし、アントワープで行った「緊張と緩和」を刷新する形で行おうと考えた時に、身近な友人達やその家族を分断してしまうウクライナとロシアの戦争が浮かびました。
僕は言葉からコレクションが始まるタイプなので「反戦」というキーワードに沿ってコメディやシュールなどのモチーフから発展して、「チャップリン(Chaplin)」の存在によって様々な要素が噛み合い、反戦のメッセージを持つ独裁者がテーマになりました。とにかく、ファーストコレクションは自己紹介だと思うので、TSTSとはなんぞやを明らかにするためにテーマを含む全ての組み立てに注力しました。
——手作りのコンセプトブックもリハビリの一環ですか?
ひとまずアントワープでやっていたことをそのままやろうと、色鉛筆で絵を描いたり刺繍をしたりハサミを入れていきました。それによって物質的に自分の意図的なものと意図しないものを発生させていき、自分の中でのボキャブラリーを増やすんです。記録であり実験でありながら資料にもなるわけです。これを見せることで、世界観やコンテクストをしっかりと伝えることができるのでサプライヤーとの商談で相手の理解度が深まる。半年以上かけてブランドの構想を練り、さらに具現化するために、井指のkolorでの経験と僕のT.Tの経験を生かしたハイレベルなサプライヤーとの取り組みや量産可能な強い服に向けて生産背景を整えていきました。
——チャップリン柄やチェック柄など、テーマの強さに対して明るいトーンで展開しているのは相対するものをあえて引き合わせて均衡を保ったのでしょうか?
チェックはなぜか好きなものですが、今回は重たいテーマなので、そこから遠い何かにぶつけたいという考えはありました。マスキュリンのイメージから遠いものということで、頭の中に浮かんだのがピンクだったりギンガムのような子供の布団みたいな感じのイメージでしたね。ギンガムも発展させたりパッチワークや手作業を差し込んで、ステートメントに一貫性を持たせています。
——卒業制作から一貫したポップさは、佐々木さんのテイストとも言える?
そう思います。心当たりがあるとしたら小学校でアメリカのポップカルチャーに触れた原体験や、村上隆さんの存在が自分の大事な時期に刺さってたことです。村上さんの芸術実践論や起業論の考え方は現在も拝借しています。人生の重要地点を振り返ると山縣さんやウォルターといった派手な人達の影響もあるのかもしれませんね。
——髙橋大雅さんとはどのように出会いましたか?
アントワープから一時帰国している時に友人に紹介されたのが初めてです。当時『CHANGE FASHION』のような若いクリエイターのメディアに15歳くらいから作品を載せていたりしたので僕は彼のことを知ってはいました。お互いヨーロッパにいて、大雅くんがアントワープのショーを見に来た時に再会してから急激に距離が縮まり、ロンドンとアントワープを行き来しながらお互いの家に泊まったり制作を手伝い合ったりしていました。
——どんな方だったんですか?
なんでしょう、未来人みたいな子ですね。僕達はお笑いが好きなので普通の話もたくさんしましたけれど、基本的にファッションの話ばかりしていたかと思います。
情報はいつも早かったですね。13歳のうちから毎週末のように兵庫から東京に来ては「バンタンデザイン研究所」と「ここのがっこう」でファッションを学んでいたり、ヨーロッパでもいろいろな学校の卒業制作を見て回ったりしていたようです。
——髙橋さんは100年先に残っていくものづくりや日本文化への造詣があり、建築、工芸など幅広い芸術に向き合っていましたが、佐々木さんはそれらにどのようにコミットされていたのでしょうか?
Taiga Takahashi はsacai(サカイ)でのアルバイトをしている時に大雅くんから誘われて二人で手探り状態で始めたんですが、デザイン以外の会社のことを全て僕が請け負うことになったんです。パターン、工場、総務、経理……とにかくバックエンドのことを全てやっていました。
元々パリで活動していたんですけれど、コロナ禍によって日本向けにならざるを得なくなり、それに向けて最適化するターニングポイントがありました。一番面白かったのはそこの戦略作りと、チームづくりです。ウィメンズからヴィンテージへ焦点を絞って、自分達にとってリアリティがあるものを作っていこうと方向転換した。日本には成熟したヴィンテージマーケットがあって、リプロダクト系ブランドが既にある中、僕らのユニークさはなんだろうか。それは芸術学校を出ているところではないかと。
現代芸術的な視点や学術的なアプローチであれば、僕らがやるヴィンテージにも意味が出てくるんじゃないか。そのようなコンセプト作りを一緒にしていきました。同時に、大雅くんが進めたい総合芸術については自由にやってもらっていました。
Taiga Takahashiに入って良かったと思うのは、僕の戦略や数値的な根拠、そして中長期視点をサポートしてくれる企業さんに対してきちんと提示できるようになったということです。実際、リブランディングをして戦略通りに展開してからというもの、ずっと成績は上がり続けてきていました。さらに言うと、そこでできなかったプランBがめちゃくちゃ溜まっている。
——TSTSでプランBの立証をしていくという意味でも “実験” である?
そうですね、T.Tは手札を増やしていく側の戦略に対して、僕はハラハラするような戦略が好きなんです。だからファーストシーズンもあえてセールスもPRもつけないことを決めました。かなり限られたリソースの中で、何ができるのかを実験する場として経営すら楽しんでいる部分はありますね。
——TSTSとは自己表現か、ビジネスかと言うと?
微妙なとこですね、ビジネスも表現だと思っていますから。
——2024年春夏の準備も着々と進んでいますが、ちらりとお聞きできますか?
2022年はやっぱりどうしても強いトピックスとして、大雅くんが亡くなったっていうのがデカかった。さらにその2カ月後に祖母が亡くなったんです。僕にとって近い人が亡くなったことでいろいろな意味での「死」というものを考えて、これをひとまず外に逃したいなという気持ちがあったんです。そんな時にクリスチャン・ボルタンスキー(Christian Boltanski)展で生存期間中に毎秒、時間をカウントしている時計を思い出しました。現在は止まっている時計によって現世から来世側をイメージすること、思いを馳せるという行為に繋がるいわゆる “メメントモリ” をコレクションでやろうと思ったんです「死」の向こう側の世界、「Rest in Peace」的なハッピーさのあるコレクションにしたいと思いました。
——安らかに、という願いが込められているんですね。
古今東西の歴史によると人々が神聖なものを描こうとするときには必ず光を出すんです。HEAVENとかキラキラしたものがたまたま好きだっていうのもあって、向こう側のキラキラした世界をイメージしたコレクションにしようと思って。いろんなアプローチで光ろうと。暗いけど明るい、そんな世界を表現したらこうなったというか。
——今後はショーを行っていく予定はありますか?
僕はやっぱりショーで感動しちゃった人間なので、割と早めにやりたいです。やるからには感動をもたらしたいし、型数はもちろんコンテンツも準備していきたい。だから急がなくても、ヘルシーグロウスで着々とチームを構築していきたいなと思っています。
- PHOTOGRAPHY: FUMI NAGASAKA
- WORDS: YUKA SONE SATO