life
Life beyond style

ベトナム国籍日本育ち、ホモセクシャル、吃音症。「普通じゃない」を結集したイラストレーター、An Coa(アンコア)が圧倒的に美しい理由は、その全てのレアリティに誇りを持っているから。ベトナムらしい自然モチーフとジェンダーレスなタッチ、一筆で描かれた不完全な表現が、世界の「普通」をくすぐってなんだか愛らしい。

 

——アンコアさんの生い立ちについて聞かせてください。

自分の国籍はベトナムですけれど、両親がマレーシアにいた時に生まれて、1歳の時に日本に来ました。両親がベトナムからの難民でマレーシア政府に保護され、そこで一時生活をしていたと聞いています。社会主義が嫌でボートで逃げてきたらしいです。そこで両親が知りあって自分が生まれました。

——日本に来た経緯は?

マレーシアでずっと生活はできないので、難民を受け入れてくれる国を探しているなか、日本で書類が通ったみたいで。本当はアメリカに行く予定だったんですけど、アメリカの親族の書類が揃わなかったみたいです。

——アメリカには親族がいたけれど、日本には何のツテもなかったのですか?

そうですね。何のツテもない状態で日本に来ました。何もない状態でした。

——当時1歳のアンコアさんとご両親はまず日本のどこに行ったのでしょうか?

群馬県太田市に外国人を受け入れる地区があって、その集合住宅で小さい時に過ごしていた記憶があります。両親は群馬県の会社で職業訓練を受けて東京に。

——どんな幼少期でしたか? 亡命した両親から自分が生まれたこととかも全然知らない状況ですよね?

全く。でも自分が外国人なのは分かっていました。

——言語の壁もありましたか?

ありました。けれどそこまで記憶がないんです。

——幼少期の頃の両親との思い出は?

思い出は両親の後ろ姿しかなくて。両親のことをキッチンで眺めていましたね。父が料理がとても好きなのですが、ふたりが一緒に料理をしているところしか覚えてなくて。5歳の時に朝起きたら東京の鮫洲にいて「どういうこと?」って感じでしたね。

——東京に来てからは外国から来た人の特別な学校ではなく、日本の学校に?

普通の幼稚園に入りました。それからは日本人と同じように小中学校は公立へ、高校は私立へ行き、大学も卒業しました。

——学校で難しかったことや辛かったことはありますか?

ありますね。今自分はとても意識をして話しているんですけど、吃音といって、言葉が二重になっちゃう、だだ、とか、どどど、とか言ってしまうタイプの人間で、小学校の頃は音読の授業がとても嫌いでした。

 

——それはベトナム語の影響ですか?

ベトナム語ではなく、障がいの一種で、結構苦しかったです。当時は自分だけだと思っていたんですけど、大学の講義で判明しました。弟もそうなので遺伝なのかもしれないです。外国人だからと思っていたのですが、そうではなかったみたいです。

——でも全然楽しそうに喋りますね。

おかげさまで、ですね。本当は人と話すのがとても苦手で、克服するためにあえて接客業を選んだこともありました。

——そのほかに困難はありましたか?

そのほかはセクシャリティです。小さい頃「おかま」とか言われちゃったこともあります。

——言われたのはいつですか?

幼稚園の頃からですね。男子と遊ぶときは特に、お前女っぽいよ、とか。

——どういう感じの子だったんですか?

セーラームーン好き! みたいな感じでしたね(笑)。幼稚園でセーラームーンごっことかあったんですけど、自分だけ女の子グループで遊んでいるから、男の子からすれば女の子っぽいなお前っていう感じでした。

——それは外国人であることよりも大きかったですか?

同じです。外国人であることもそうだし、喋り方も変だし、セクシャリティも。それが普通の環境でした。女性の友達はみんな優しかったので恵まれていました。ただ、男性には苦手意識が生まれてしまいました。また変なこと言われたらどうしようとか……。

——今は克服できましたか?

いえ、いまだに男性の方とお話しするのはめっちゃ緊張します。

——それはストレートの人と話すとき? それともホモセクシャルの人もですか?

両方ですね、もう男性ってだけで身構えちゃう感じです。

——外国人であることに戻りますが、イギリス留学時は恵まれてたのか、柔道好きとかアニメ好きとかゲーム好きとか、日本食大好きとかいう人がいたので、人種差別は受けたことなかったです。その後アメリカに行きましたが、そこでもありませんでした。

アメリカの大学に留学したことがあるんですけど、アジアンヘイトを受けました。シアトルから車で8時間のところにあるチーニーという田舎の街なんですけど、人通りの少ない道路を歩くときにすれ違う車にクラクションを鳴らされて振り向いたら中指を立てられたりと、怖かったです。他の日本人の子も怖い目に遭ってて、そういう悲しい思い出が半分くらいありますね。だから羨ましいです。

 

——ベトナムには行ったことはありますか?

1回だけあります。母がベトナムには行きたくなくて幼少期は行かなかったんですけど、自分が26歳の時に、このままベトナムに行かないのはベトナム人としてのアイデンティティはどうなのかと思って、行ってみました。両親のおじいちゃんおばあちゃんに会いに。初めて行ったのに懐かしいという思いが不思議とありました。日本じゃなくここで住めるという感覚がありました。

——どのように入国したのですか?

パスポートは持っていなくて、再入国許可証で外国に行き来できるシステムです。ただ空港では再入国許可証なんて見たことない人が多いのでいちいちつかまって出国ギリギリなケースが多いです。セキュリティに調べられてようやく通れるという経験が多々あります。

——ベトナム国籍だけど、日本人ともみなされていないってことですか?

そうなんです。不思議な立ち位置で、パスポートを取得する場合は日本に帰化をする必要があります。

——自分のアイデンティティはどのように捉えてますか? セクシャリティとか国籍とか、一般的に見ると様々なマイノリティに属していますね。

アイデンティティは本当に分からないですね。難しいですが、いいとこ取りをしている部分があります。ベトナムと日本の文化が両方分かるから、逆に嫌なところは受け入れなくていいので。いい意味でいつもおかしい状態です(笑)。

——ベトナム人でなく、日本人でもないのが自分らしい、と。

その方がしっくりきますね。

——なるほど。いいですね、そういうの。30歳でそのアイデンティティに違和感がなくなってきたという感じですか?

あることをきっかけにカミングアウトを始めたんですけど、そのきっかけが実は同性婚です。当時は認められてない部分があったので形式上だったんですけど、友達400人くらい呼んで結婚式をしました。それがきっかけでセクシャリティをオープンにしたほうが生きやすいんだなという選択に至りました。

生活のズレを自分でなんとかしなきゃいけないから、友達や職場の人に常に嘘をつくというのが本当に苦しかったです。彼氏なのに彼女って言い換えたり。

結婚が前提になったときに初めて大学の女性の親友に大泣きしながらカミングアウトしたら、「分かってたよ」って(笑)。みんな分かっているけど自分が一番認めたくないんですよ。小さい頃の記憶を引きずってて。

——結婚した時の周りの反応はどうでした?

みんなすごいよくしてくれましたね。テレビでも少し取り上げられたこともあります。彼がアーティストだったこともあって、自分が絵をちゃんと始めようと思ったのも彼のおかげです。

 

——彼に出会ったことで自分の絵の才能に気づいたってことですか?

もともと描けた方だったんですけど、本気ではなく、よく分からなかったです。自分の将来についても分からない時期だったので、絵で食べていくとか、デザインで食べていくとも思っていなかったんですけど、初めて会った時に「絵、いいじゃん」って言ってもらって、それが嬉しくて。彼きっかけでInstagramも始めました。

——その頃からこういう作風でしたか?

最初は違ったかもしれないです。線は細いのですが、その当時はチョークだったり油絵のような重ね塗りで描いたりと、作風はバラバラでした。

——今は自分のスタイルが定まってますか?

別れて2年後にフリーランスになるって時に、自分自身と相談して、やりたくない絵は描かなくていいじゃんって感じで、細い線でどう表現しようかなってことで今のスタイルが確立しました。

——自分のスタイルを確立していくなかで自分のアイデンティティが反映されていくと思います。そのひとつがセクシュアリティからのジェンダーレスなタッチと、自然をモチーフにされていますよね。

もともと小さい頃から植物と海、貝殻が好きだったので。ベトナム人はハーブをよく食べるので、パクチーやレモングラスなど複数のハーブを育てていて、土いじりは小さい頃からしていました。あと父も絵を描いていて、すごくうまくて、その影響も受けていると思います。ヤシの木とかビーチ、東南アジアという感じです。

小さい頃はケーキ屋と花屋と絵描きの夢がありました。まずこの2つを制覇しようかなと思い、プラントショップで働きました。人工の造形美よりも自然の方が自分にとっては居心地が良かったんです。神社の軒下の植物引っこ抜いて家のコップで育てるみたいな。怒られましたね。

その前はフリーターで海の見えるパンケーキ店「Eggs’n Things」のお台場店で働いてました。仕事を選ぶときは自然や植物をベースに選んでました。イラストに関しては、店舗の大きな窓があって季節ごとに絵を描いていたという感じです。

 

 

——イラストの初仕事は?

ヒルトン東京ベイさんのプールサイドの看板の制作でした。それからロゴゴ制作の依頼がきたり。デザインや絵でお仕事をいただけるようになって自分で生活できるようになって、もう親から就職しろとか正社員になれとは言われなくなりました。

——京都に旅行して、環境に配慮した画材などサステナビリティも考慮し始めたようですね。

アーティストとして普通なことはしたくないし、古いものが好きで、新品よりも背景があるもので何か表現ができないかなと思って。自然のツールで絵を描いたら? と意見をいただいたので、竹筆を購入しました。一本の竹を割いて作られた筆です。竹がこんなにふさふさなものになるんだって、自然のものはすごいと感銘を受けました。職人さんがご高齢なので作れる人が少なく、今はその筆が貴重らしいです。

今後の方向性としては、現存するものプラスアルファで、自分のアートにしかない着眼点で表現したいです。自然のものから自分のアイテムだったりを作りたいです。例えば、研究途中なのですが、貝殻の粉末に塗料を混ぜてテクスチャーにしたり、キャンバス内で立体物を作ったり。インテリア性を持たせて絵を入れて制作するというのが今後の展開予定です。毎年膨大な量の貝殻を廃棄していると父に聞きました。人間の食べる量に対して捨てる量が多いので、それを生かして新たなツールにするのもいいのかなって。

——洋服もいっぱい捨てられていますよね。

秘密なんですけど、ヴィンテージの生地などを買い取ってあるものに変身させることも考えています。まだアイデアを練っている段階です。フリーランスになったばかりなので生活の基盤を整えています。作るのもお金がいるので、まずは個展をやって貯蓄をしてからですね。

HIGHSNOBIETY JAPAN ISSUE09(2022年9月1日売り)に掲載。