マーク・ジェイコブス、キム・ジョーンズ、ヴァージル・アブローが切り拓いたラグジュアリーコラボの世界
マーク・ジェイコブス(Marc Jacobs)といえば、言わずと知れたユーモア溢れるデザイナーであり、伝説的コラボレーションにも枚挙にいとまのない人物である。その作品をネタにレーベル名 “Jacobs By Marc Jacobs For Marc by Marc Jacobs In Collaboration With Marc Jacobs For Marc by Marc Jacobs”(Marc by Marc JacobsのためのMarc JacobsとのコラボによるMarc by Marc JacobsのためのJacobs by Marc Jacobs)がインターネットミームとして作られるほどの人気と知名度を誇る。マーク・ジェイコブスは、創造的なリスクテイク、文化的な影響力、そして境界を破るコラボにより、現代のファッションを形作ってきたデザイナーだ。ニュージャージー州ティーネック出身の彼は、1981年にニューヨークのハイスクール・オブ・アート・アンド・デザインを卒業後、名門パーソンズ・スクール・オブ・デザインに入学した。同級生にはアイザック・ミズラヒ(Isaac Mizrahi)やトム・フォード(Tom Ford)がいる。卒業制作の水玉模様とスマイリーをあしらったオーバーサイズセーターのコレクションは、先見の明のあるブティックCHARIVARI(シャリヴァリ)にすぐに取り扱われた。ジェイコブスが15歳の頃に在庫管理のアルバイトをしていたブティックである。ビル・カニンガム(Bill Cunningham)の有名コラム『On The Street』がホットなブランドを実際に着ている人が見られる数少ない場所として機能していた当時、このセーターは初期のストリートスタイルの定番となった。またこのジェイコブスの卒業コレクションは、優秀な学生デザイナーに与えられるペリー・エリス賞やチェスター・ワインバーグ・ゴールド・シンブル賞など、権威ある賞も受賞した。
こうした賞の受賞は、ジェイコブスの躍進の兆しだった。パーソンズ卒業からわずか4年後の1988年、ジェイコブスはPERRY ELLIS(ペリー・エリス)ウィメンズデザイン部門のクリエイティブディレクターに就任。当時、同ブランドはアメリカで最も評価の高いファッションブランドのひとつだったが、トップクリエーターに就任する前から、ジェイコブスのキャリアは順調に上向いていた。初期の支援者の一人、ファッションブランドREUBEN THOMAS(ルーベン・トーマス)の幹部ロバート・ダフィー(Robert Duffy)は、ジェイコブスに同社のサブライン「Sketchbook(スケッチブック)」のデザイナー職を用意した。1980年代半ばまでに二人はビジネスパートナーとなり、1986年にはMARC JACOBS(マーク ジェイコブス)レーベルがデビューした。ジェイコブスは、アメリカファッションデザイナー協議会(CFDA)が新進のファッションデザイナーに贈るペリー・エリス賞(名称は故ペリー・エリスにちなむ)を史上最年少で受賞した。最初のコレクションから、ジェイコブスはクラブでの夜遊びから得たインスピレーションを服に取り入れる独自の才能を発揮していた。こうして誕生したのが、現在では普遍的な美学となった「ダウンタウンの感性を持つアップタウンの女性」のスタイルである。PERRY ELLIS在職中の最も有名(あるいは評価が分かれる)な作品が、1993年の「グランジ」コレクションだ。シアトルの音楽シーンにおけるリサイクルショップの美学に着想を得たジェイコブスは、フランネルプリントのレーヨン、オーバーサイズのカラフルなニットビーニー、アンダーグラウンドコミックアーティストのロバート・クラム(Robert Crumb)のアートワークのライセンスを取得しグラフィックTシャツにプリントしたフランネルシャツやスリップドレスなどをハイファッションの定番アイテムへと変身させた。ランウェイショーにはナオミ・キャンベル(Naomi Campbell)、クリステン・マクメナミー(Kristen McMenamy)、ケイト・モス(Kate Moss)などのスターを勢揃いさせ、革命的であったが、物議も醸した。
「マーク・ジェイコブスが服に文化を織り込む唯一無二の才能の持ち主であることは明らかだった」
グランジコレクションは、サブカルチャーを模倣する部外者の作品ではなく、真摯に評価する姿勢によるものであり、大ヒットとなるはずだった。ショーに先立ち、ポップカルチャーにおけるレガシーの証明としてSonic Youth(ソニック・ユース)の「Sugar Kane」のMVが投影された。当時無名だったSonic YouthはジェイコブスのスタジオでのMV撮影を望み、コレクションを着用してニューヨークで撮影を行った。映像にはスケッチやショーのシーンが組み込まれてだけでなく、まだ駆け出しであったダウンタウンのクールガール、クロエ・セヴィニー(Chloë Sevigny)もモデル出演している。しかしコレクションは批評家達の酷評に遭い、マーク・ジェイコブスは数カ月後PERRY ELLISから解雇された。コートニー・ラブ(Courtney Love)は2010年のインタビューで、このコレクションはデビュー後ジェイコブスから彼女とカート・コバーン(Kurt Cobain)に送られたが、二人とも燃やした、と明かしている。ジェイコブスにはよくあることだが、この時も少しトレンドを先取りし過ぎていたのだろう。
それでもジェイコブスの勢いが止まることはなかった。むしろこの挫折から彼は、境界線をどこまでどのように押し広げるかを弁えるスキルを得た。ジャンルを突破するデザイナーにとって不可欠なスキルだ。グランジの失敗に動じず、ジェイコブスはMARC JACOBSブランドを拡大し、1994年にメンズウェアに進出した。文化的参照要素を独自のアクセシブルなラグジュアリーと融合させたMARC JACOBSは評判を確立した。大堂のファッションを感じさせつつも、自己完結型の現代性を備えた服の特徴は、2001年にローンチしたディフュージョンラインMarc by Marc Jacobs(マーク バイ マーク ジェイコブス)でも、ハイファッションのイメージとアドボカシーを融合させたAIDS Tシャツのような慈善プロジェクトでも示された。AIDS Tシャツは、愛する人をエイズで何人も失った彼にとって非常に私的な取り組みだった。そして1997年にはLOUIS VUITTON(ルイ・ヴィトン)のクリエイティブディレクターに就任。彼の足跡を辿り、高める後続デザイナーが今も多数いる。
何もないところから創造する難題を任されたマーク・ジェイコブスは、ハンドバッグを主力商品とするLOUIS VUITTONにレディ・トゥ・ウェアコレクションを導入した。ミニマリズムとアメリカンなセンスを特徴とした1998年秋のデビューコレクションの50ルックを、『VOGUE』誌は「パリ風アメリカ人」と表現した。同誌の1998年7月号でジェイコブスは次のように語っている。「期待されていたのはモノグラムだったと思う。万人を満足させるのは不可能だ。でもLOUIS VUITTONはこれまで服を作ったことがなかったブランドで、ゼロからの出発だった。実用性と機能性を備えたスーツケースのブランドらしい現代的でクラシックでラグジュアリーな服を作った。フランス人から見ると実用的過ぎたと言うなら、LOUIS VUITTONが初期に作っていたトランクを思い出して欲しい。灰色で積み重ねやすいように平らな作りだった。僕の作品も、狂気と思われたとしてもメソッドに則っている」
マーク・ジェイコブスが自身の憧れであるアーティスト、スティーブン・スプラウス(Stephen Sprouse)を起用し、LOUIS VUITTONのアイコンであるモノグラムを刷新したことは、変革の時代を告げる出来事であった。「グラフィティ」バッグコレクションで彼は、かつてLOUIS VUITTON側から「絶対に変えてはいけない」と指示されていたロゴを変えた。スプラウスによる走り書きタッチのブランドネームがバッグやアクセサリーのシリーズ全体に大胆に施され、特に「グラフィティ・スピーディ・バッグ」は瞬く間に注目を集めた。スプラウスのグラフィティ「タグ」を言わずと知れた「LV」モノグラムの上に印刷することで、クラシックなLVバッグが破壊されたような感覚を生み出した。憧れだったはずのモノグラムデザインがスプラウスのネオンカラーの走り書きに霞むとは、元のバッグの価値はどれほどだったのか? そう思わせる、当時としては過激なデザイン選択だったが、コレクションは若く尖った顧客層に響いた。LOUIS VUITTONのラグジュアリーDNAを維持しつつ、単なるデザインを超えて新鮮な感覚を融合させ、ハイアートと商業ファッションの隔たりを埋める文化的声明としてのコラボだった。このロゴハックから20年後にはデムナ・ヴァザリア(Demna Gvasalia)とアレッサンドロ・ミケーレ(Alessandro Michele)がGUCCI(グッチ)とBALENCIAGA(バレンシアガ)それぞれのブランドのコードとシグニファイアを入れ替え、海賊版とオマージュの境界線を越える不気味の谷現象的コラボを生み出した。また2022年のキム・ジョーンズ(Kim Jones)とドナテッラ・ヴェルサーチェ(Donatella Versace)のコラボ「FENDACE」でも同様に、VERSACE(ヴェルサーチェ)のメドゥーサロゴとFENDI(フェンディ)の象徴的なインターロックド・ズッカが融合された。
2003年のジェイコブスと村上隆のコラボでは、このコンセプトがさらに推し進められた。村上の多色使いのモノグラムバッグ、ストリートウェアを融合したモノグラモフラージュ、日本風の桜プリントは世界中で話題となった。LOUIS VUITTONのイメージに遊び心と反骨精神が注入されることで、LOUIS VUITTONのプレミアム性は損なわれることなく、親しみやすさが増した。村上とジェイコブスのパートナーシップはアクセサリーを超え、広告キャンペーンや展覧会を通じ、ポップカルチャーに影響を与えた。ファレル・ウィリアムズ(Pharrell Williams)やカニエ・ウェスト(Kanye West)などのアーティストの必須のアイテムとなり、新たな富裕層トレンドセッターを引き込むようになった。コラボは2008年まで長く続き、ブルックリン美術館では村上隆の展覧会を祝し、偽物の横行するキャナル・ストリートを模したストリートマーケットでLOUIS VUITTONのコラボ商品を販売した。今にも壊れそうなショップに正規のコレクションが並べられ、ガレージの閉じたドアにはLVのモノグラムが堂々とスプレーで描かれた。パフォーマンスアートと社会風刺を融合させた村上隆とのコラボは、異なる世界を組み合わせ新たな世界を生み出すジェイコブスの革新性を体現していた。その後一時的には廃止されたものの2024年のLOUIS VUITTON 20周年記念で復活したのも納得の成功モチーフである。

©︎Courtesy of Farfetch

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LOUIS VUITTON在任中、ジェイコブスはリチャード・プリンス(Richard Prince)の絵画作品から草間彌生の水玉模様まで、数多くのアーティスト作品を取り入れた。いずれもLOUIS VUITTONの伝統をアーティスト独自の言語を用いて再解釈する卓越したストーリーテリングのケーススタディと言えるコラボだった。これらのプロジェクトによりLOUIS VUITTONのモノグラムは柔軟な創造性の象徴となり、ラグジュアリーブランドによる現代アートとの向き合い方の定型が確立された。
マーク・ジェイコブスはファインアート以外の領域でも当代きっての知名度を誇る面々とのコラボを推進した。2004年にNIGO(ニゴー)と、そして後にLOUIS VUITTONのアーティスティックディレクターとなったファレル・ウィリアムズを起用してデザインしたサングラスは、LOUIS VUITTONの現代的アイコンとなった。「ミリオネア」はクラシックなアビエーターをベースに、メタリックのアクセントを加えたデザイン。単なるラグジュアリーを超え、一目でわかるステータスシンボルとなった。故ドンダ・ウェスト(Donda West)博士は著書『Raising Kanye』で、全てを手に入れた息子へのプレゼントにふさわしいと、ドン・Cの勧めで購入したエピソードを紹介している。2018年にLOUIS VUITTONのメンズウェアのクリエイティブディレクターに就任したヴァージル・アブロー(Virgil Abloh)も、このサングラスの再解釈を早期に手がけ、2022年、NIGOとのコラボにより、「ミリオネア」の精神を受け継ぐ「Zillionaires」を制作した。
カニエ・ウェストとのコラボによりラグジュアリースニーカーシリーズを制作した初期のハイファッションデザイナーといえば、ジェイコブスだ。NIKE(ナイキ)の初のコラボで実現した「AIR YEEZY」スニーカーの大成功に続き、前例のないLOUIS VUITTONとのコラボシューズラインを発表した。現在、初版の「AIR YEEZY」の転売価格は当時の元値以上に急騰しているが、普段$200程度でスニーカーを購入していた当時のスニーカー愛好家にとっては$840から$1,140という価格自体が高額だった。しかしウェストと仲間の名前を取ったドン、ジャスパー、ハドソンの3モデルから成るカラフルなコレクションはそれでも完売した。ニックネームのひとつがLOUIS VUITTONのドンであったウェストのモデルはエアジョーダン3に見られるような人気のミッドカットのデザイン。ハイカットのジャスパーは、「AIR YEEZY」のストラップをモチーフに、松本与のハイファッションスニーカーから着想を得たデザインだ。タッセル付きローカットボートスニーカー「ハドソン」は、ウェストと頻繁に仕事をしていたソングライター兼プロデューサー、ミスター・ハドソンにちなんで名付けられた。
マーク・ジェイコブスがスニーカーの世界にコラボを取り入れたのはこれだけではない。2005年にはVANS(ヴァンズ)とのコラボで、アイコン的スニーカーを再解釈したカプセルコレクションを制作している。それは、「スケートハイ」と「オールドスクール」の光沢のあるパテントレザーバージョンから、「クラシック スリッポン」のユニークなプリントデザイン、解き途中のクロスワードパズル風デザインまで多岐にわたる全網羅的コラボだった。ストリートウェアの定番へのハイエンドなタッチの追加、クラシックスリップオンへの編み込みレザーチェッカーボードアッパーの採用、シンプルなシューズのプラッシュシアリングによる再解釈なども制作した。VANSをはじめとするブランドとのコラボにより、ジェイコブスは単なるデザイナーではなく、時代精神を捉え、ファッションの意味や、誰に訴えかけられるかを問い続けるストーリーテラーとして、クロスカルチャーな影響力をさらに強固なものにした。
LOUIS VUITTONの製品や顧客層の再活性化成功に飽き足らず、ジェイコブスはランウェイショー自体を変革した。本物のメリーゴーランドを取り入れる、会場に列車を進入させるなどし、LOUIS VUITTONのショーを劇場的スペクタクルへと変貌させた。こうした没入型体験はファッションショーが従来の形式を超え、文化イベントとして昇華できることを示し、コレクションへの期待を高め、LOUIS VUITTONの実力を改めて表明した。
2013年のLOUIS VUITTON退任後、ジェイコブスは自身のブランドMARC JACOBSに注力し、商業的事業とアートプロジェクトの両方で実験的試みを展開した。2020年にはデジタルネイティブ世代のアヴァ・ニルイ(Ava Nirui)をクリエイティブディレクターに迎え、サブレーベルHeaven by Marc Jacobs(ヘブン バイ マーク ジェイコブス)を設立した。Heaven by Marc Jacobsはノスタルジックでありながら現代的な美学を体現し、キコ・コスタディノフ(Kiko Kostadinov)などのカルトデザイナー、ヤング・リーン(Yung Lean)やチャーリー・XCX(Charli XCX)などの新進アーティスト、ウィノナ・ライダー(Winona Ryder)などのユースカルチャーアイコンなどと幅広いコラボを展開している。ジェイコブスが持ち続けてきた包摂と実験の精神を反映したHeaven by Marc Jacobsは、Z世代の消費者に深く共鳴すると同時に、ジェイコブスのキャリアの初期の影響源であったDIY文化を受け継いでもいる。クリエイティブディレクターにニルイを任命したジェイコブスは、新たな才能を見いだし育成する能力を示したのみならず、規範への挑戦、分野を超えたコラボの促進というレガシーもさらに強化した。
マーク・ジェイコブスがLOUIS VUITTONとそのウィメンズウェアコレクションに忘れがたい影響を与えていた頃、メンズウェアラインについて、同じく永続的なレガシーにする責務を担っていたのがキム・ジョーンズだ。キムは2011年から5年間メンズレディトゥウェア部門のスタイルディレクターを務めたポール・エルバース(Paul Elbers)の後任として就任した。ジョーンズは1979年ロンドンに生まれたが、父は水文地質学者で転勤が多く、タンザニアやケニアなどのアフリカ諸国で多くの時間を過ごすなど、転居を繰り返す幼少期を過ごした。父の後を継ぎ自然保護や動物学の道に進むことも考えたが、姉が多数持っていたファッション雑誌の方に惹かれ、最終的にファッションの世界へ進んだ。10代の頃、Levi’s(リーバイス)のヴィンテージ品から始まり、VIVIENNE WESTWOOD(ヴィヴィアン ウエストウッド)、STEPHEN LINARD(スティーブン リナード)、MODERN CLASSIC(モダン クラシック レイチェル)、RACHEL AUBURN(レイチェル オーバーン)、CHRISTOPHER NEMETH(クリストファー ネメス)など、1980年代ロンドンで活躍したデザイナー達の作品に出合い、収集癖を培った。当時集めた作品は今も彼のアーカイブに残っている。
ジョーンズは、ヴィヴィアン・ウエストウッド(Vivienne Westwood)、マルコム・マクラーレン(Malcolm McLaren)、そしてこの二人のSEDITIONARIES(セディショナリーズ)レーベルから大きな影響を受けつつ、自ら服を縫いながらの独学でデザインを学んだ。セントラル・セント・マーチンズでファッション部門の責任者を務めていた故ルイーズ・ウィルソン(Louise Wilson)に初期の作品をいくつか見せたところ同校への入学が許された。ジョン・ガリアーノ(John Galliano)はジョーンズの2002年の卒業コレクションに注目し、半量を購入した。またジョーンズの最初の就職先は、STÜSSY(ステューシー)、A BATHING APE®(ア ベイシング エイプ)、SUPREME(シュプリーム)などのブランドを早くから取り扱っていたマイケル・コッペルマン(Michael Koppelman)設立のGIMME FIVE(ギミー ファイブ)であり、ストリートウェアの世界でも経験を積んだ。コッペルマンは、フレイザー・クック(Fraser Cooke)と共に甚大な影響力を誇るブティックThe Hideout(ザ ハイドアウト)も経営していた。遥かに後になってからのことだが、ジョーンズはコッペルマンとクックと仕事をした経験を土台に、SUPREMEやショーン・ステューシー(Sean Stüssy)とのコラボを行った。
ジョーンズは当初から文化、デザイン、スポーツウェアを融合させる才能を発揮しただけでなく、再販市場における自らの所有アイテムの価値を正確に把握する目利きコレクターでもあった。ロンドンファッションウィークで自身のブランドをデビューさせた際のコレクション費用は、大切にしていたVIVIENNE WESTWOODのパラシュートシャツ1枚をeBayで販売し、賄った。最初のコレクションは、ぼかし染めのデニム、トライバルプリントのボンバージャケット、パッチワークのパンツに、ナイロンのトラックパンツ、NIKEターミネーターのハイトップスを組み合わせた90年代のユースカルチャーやレイヴの影響を強く感じさせるもので、目利きスニーカー愛好家の間で人気を博した。多様な文化から共感を得る独自のストーリーを特徴とするジョーンズのデザインコードでは、ストリートウェアとハイファッションがしばしばシームレスに融合する。
2006年、ジョーンズはイギリス発のスポーツウェアブランドUMBRO(アンブロ)とのコラボで、サッカーを愛する「カジュアル」をモチーフにしたコレクションを発表した。イギリスらしい色使いの鮮やかなプリントパーカーは、編み込みレザーパネルで高級感を加えたミニマルなスニーカーと完璧に調和した。2008年、自身のブランドを閉鎖したジョーンズは、伝統あるDUNHILL(ダンヒル)ブランドの再興を任されクリエイティブディレクターに就任した。DUNHILLのクラシックな美学を尊重しつつ現代的なデザインを導入し、伝統と現代性を世界的視点で融合させたジョーンズは、高級素材を使用したコーチジャケットや、ブレザーと着物の間を行くような日本的シルエットのスポーツコートなどのデザインを生み出した。2011年にLOUIS VUITTONに就任した際にも日本的影響を持ち込んだ。
2013年春夏コレクションでは平田キロを起用しLOUIS VUITTONによる本物の日本のボロデニムのコレクションを制作した。平田は、日本の岡山県を拠点とし、デニム生産の歴史と伝統的製造技術の保存で知られるカルトブランド、KAPITAL(キャピタル)の継承者兼デザイナーだ。ボロは、廃棄された生地の断片を織り合わせる複雑な技術で、わびさびの美学とネオ・ヴィンテージの魅力を備えている。KAPITALがストリートウェアの分野で人気を博すようになったのが最近のことであり、これに初期から着目していたジョーンズには、先見の明と時代の潮流を捉える能力があった。
7年間のLOUIS VUITTON在籍中、ジョーンズはメンズウェアにおける評判を確固たるものにした。ジョーンズが業界の動向を的確に捉え、それをラグジュアリーブランドに相応しいレベルに引き上げたことで、LOUIS VUITTONは信頼性を保ったところが大きい。2014年秋冬コレクションではPATAGONIA(パタゴニア)の「レトロX・フリース」をシアリングとレザーでグレードアップしたデザインが話題になった。1年後には自身の最も好きなデザイナーの一人であるクリストファー・ネメス(Christopher Nemeth)に敬意を表し、ネメスのロープパターンを採用したコラボカプセルコレクションを発表した。そして2017年のSUPREMEとのコラボは、ジョーンズのLOUIS VUITTONでの在任期間で最も強い印象を残した。
それは誰も予想しなかった形でラグジュアリーファッションとストリートウェアの世界を融合させた画期的なパートナーシップだった。ストリートウェアは長年ハイファッションの世界に浸透していたが、長らくラグジュアリーのアンチテーゼであり続けていた。一方、SUPREMEやSTÜSSYのようなブランドが、LOUIS VUITTONのようなハウスブランドのロゴやモチーフを改変し、これまでとは異なる客層向けに再解釈した(そしてラグジュアリーブランド側の法務部門の激高を招くこともあった)このコラボは、長年続いていた壁を打ち破った。かつて反逆的カウンターカルチャーだったものが、主流の一翼を担うものとなった。SUPREMEのボックスロゴパーカーにLOUIS VUITTONのモノグラムをあしらい、金属のトグルなどのディテールを加えることでラグジュアリーピースに昇華させたこのデザインは、荒唐無稽と秀逸さの際どいラインを巧みに歩んだ。スケートボードが収納できるカスタムメイドのLOUIS VUITTONのトランクから、LOUIS VUITTONの「エピ」グレインレザーをチェーンウォレットや大胆な赤の「スピーディ」に再解釈したアイテムまであらゆるものを含む、究極の大規模ハイ/ローコラボコレクションであった。
この壮大なコラボコレクションのキャンペーンには、SUPREME精神に忠実に、写真家のテリー・リチャードソン(Terry Richardson)が起用され、SUPREMEの著名人仲間が被写体となった。ジェイソン・ディル(Jason Dill)やマーク・ゴンザレス(Mark Gonzales)といったSUPREMEの古くからの仲間達と、ナケル・スミス(Nyjah Smith)、セージ・エルセッサー(Sage Elsesser)、エイダン・マッケイ(Aidan Mackay)、ショーン・パブロ(Sean Pablo)、タイショーン・ジョーンズ(Tyshawn Jones)などSUPREMEの現代のスケートチームが共にスポットライトを浴びた。SUPREMEのブランド構築の基盤となってきたローファイなビジュアルは維持しつつ、ラグジュアリーファッションの価格帯を採用したこのコレクションは、SUPREMEのコラボ作品としては数少ない、SUPREME店舗での販売が行われなかったもののひとつだ。代わりにLOUIS VUITTONが特別ポップアップストアを企画し、高額コレクションの購入権は関心のある消費者に抽選で与えられた。
「キム・ジョーンズのLOUIS VUITTON時代と言えば、まず思い起こされるのがSUPREMEとのコラボだ」
ストリートウェアとラグジュアリーの二元性を覆した1年後、DIORのアーティスティック・ディレクターに就任してからも、キム・ジョーンズはコラボをデザイン哲学の中心に据え続けた。DIORにおいてジョーンズは、DIORの伝統に現代的影響を加える有効かつ革新的なファッションデザイン形態としてコラボを位置付け、刷新した。ジョーンズがDIORで初めて手がけた2019年春夏コレクションは全編、アーティストのKAWS(カウズ)ことブライアン・ドネリーとのコラボによるデザインであった。
「KAWSとはずっと一緒に仕事をしたかった。KAWS作品が大好きだから、DIORで最初に組む相手がKAWSであるのはいいことだと思っている。自分にとっても、今伸びてきている世代にとっても、KAWSは世界で一番重要なアーティストだ」と『HIGHSNOBIETY ISSUE 17』のカバーストーリーでジョーンズは語っている。
KAWSはコレクション全体に自身の印を刻んだ。シグネチャーのコミック風フォントでDIORロゴを再解釈し、目に「X」を配したカートゥーン風BFFキャラクターの巨大なフラワースカルプチャーをランウェイのセンターピースとして制作し、さらにDIORの象徴であるビー・モチーフも再解釈した。DIORのサヴォアフェールとの融合により、商業的に成功したジャージーアイテムや人気のデザイナーズスニーカーだけでなく、オーダーメイドの刺繍ジャケットやクチュールの趣を持つラグジュアリーアイテムも生まれ、価格もそれに見合ったものとなった。KAWSコレクションは、ラグジュアリー、アート、ストリートカルチャーが融合するジョーンズ率いるDIORの方向性を決定づけた。
コレクションとしてのコラボ戦略は、キム・ジョーンズのDIOR初期のコレクションの多くで継続された。KAWSに続き、官能的、超現実的なロボット描写で知られる日本のアーティスト、空山基とのコラボが実現し、その後、パンクイラストレーターからファインアーティストに転身したレイモンド・ペティボン(Raymond Pettibon)、イギリス人アーティストのアレックス・フォクストン(Alex Foxton)、日常の物を異様に侵食した彫刻で知られるアメリカ人ビジュアルアーティストのダニエル・アーシャム(Daniel Arsham)など、先見の明のあるアーティスト達とタッグを組んだ。ジョーンズはこのアプローチを、クリスチャン・ディオールの芸術への愛着に根差したものであり、ミスター・ディオール(Monsieur Dior)が存命であればコラボを望んだであろう現代のアーティストとのコラボを実現したものであると説明している。DIORとダニエル・アーシャムやアモアコ・ボアフォ(Amoako Boafo)とのコラボの実現は、ジョーンズによる現代アートとファッションの融合への熱心な取り組みを物語る事実だ。ボアフォの鮮やかなポートレートはDIORのストーリーテリングの前面にアフリカ芸術を登場させ、アーシャムのFuture Relics(未来の遺物)の美学は、デザインにおける時間と歴史の概念に挑戦した。
2020年プレフォールコレクションのパートナー選定で、ジョーンズは再び型を打ち破った。ストリートウェアサークルをまたひとつ閉じ、DIORのコレクション制作を依頼したのは、長らく引退していたショーン・ステューシーだった。1980年にSTÜSSYを設立し、その後STÜSSYブランドを牽引したショーン・ステューシーは、自身のシグネチャーでSTÜSSYブランドの地位を高め文化を作り上げた人物だ。アレックス・ターンブル(Alex Turnbull)、日本のストリートウェア界のゴッドファーザー藤原ヒロシ、そして何十年も前にキム・ジョーンズに最初の仕事を与えたイギリスのディストリビューター、マイケル・コッペルマンなど、共通の考えを持つ仲間達で構成されるグローバル集団「INTERNATIONAL STÜSSY TRIBE」を結成したのもショーン・ステューシーだった。1996年、ステューシーは自らが築いたブランドを引退し、家族を養い、初恋相手である世界最高のサーフボード製作に専念することを決めた。しばらくは主に日本向けに展開する小レーベルS/Double(エス ダブル)を手がけるなど、小規模なブランドプロジェクトにも関わっていたが、このDIORコレクションは、創造力溢れる慣習破りの世界的ブランドとしてのSTÜSSYの本来の姿を表現する絶好の機会となった。
皮肉なことに、このコレクションは「DIOR × Shawn」として発表された。STÜSSYブランド自体は依然として存続しており、かつての栄光を取り戻すための数年に及ぶ努力を経て、手頃な価格やサブカルチャーの影響というブランドの核を損なうことなく、再び尊敬される地位を確立していたからである。しかし、ショーン・ステューシーのDIORコレクションは、彼がSTÜSSY在籍時に築いた要素をさらに昇華させた。レゲエ、スカ、ニューウェーブからの多色使いの影響、1980年代のスタイルに着想を得たデザイン、そしてハンドスタイルのグラフィティスローガンを、ミスター・ディオールの言葉「DIORで世界に衝撃を与えたい」で再解釈している。そして、最も衝撃的だったのは、世界初のラグジュアリースポーツウェアコラボとして発表されたことだ。
そんな良質なコレクションではあったが、DIOR × Shawnは「DIOR × NIKE エアジョーダン1」の発表によってほぼ霞んでしまった。このプロジェクトは、サブカルチャーを軽やかに融合させるジョーンズの力量を示し、スニーカーを現代メンズウェアの重要な要素としてさらに確立させた。全工程イタリアのDIORのアトリエで製造されたこのシューズは、DIORのシグネチャーキャンバスにやや大きなスウッシュがはめ込まれたデザインが特徴で、通常高級バッグにしか使われない手縫い仕上げが施されている。ハイトップ、ロートップバージョンが限定生産され、当初の小売価格で$2,000を超えていた。再販価格はそれを遥かに上回るレベルにたちまち急騰した。それはスニーカー文化の進化を伺わせるコラボであった。AIR DIORはスニーカー愛好家の究極のステータスシンボルとなり、2020年には、カマラ・ハリス(Kamala Harris)副大統領の姪であるミーナの夫、ニコラス・アジャグ(Nicholas Ajagu)が、ジョー・バイデン(Joe Biden)大統領の就任式にこのスニーカーを履いて出席した。高位の式典にスニーカーで臨む行為は非難されるどころか称賛される結果となった。世界で最も欲しがられる一足を手に入れたなら、一生に一度の祝典に誇らしげに履いて行くのも当然であろう。

©︎COURTESY OF DIOR
大統領就任式にジョーダンを履くことの重要性を理解したであろう人物といえば、LOUIS VUITTONメンズウェアアーティスティック・ディレクターとしてキム・ジョーンズの後任を務めた故ヴァールジル・アブロー(Virgil Abloh)だろう。アブローは、マーク・ジェイコブスとキム・ジョーンズが築いたコラボのコードを継承するだけでなく、それを前例のない高みへと導いたが、そのキャリアは、2021年11月28日に突然の訃報で途絶えてしまった。シカゴの少年だったアブローが世代を代表する影響力を持つクリエイターとなった軌跡は、イノベーション、コラボ、本物の力の証だ。ファッション、アート、音楽、デザインにわたる作品で、アブローは独自の個性を決して諦めることなく、デザイナーの役割やストリートウェアの定義を刷新した。
カニエ・ウェストとの初期のコラボからLOUIS VUITTON初の黒人アーティスティックディレクター就任まで、アブローは規範を破り、社会から疎外されたコミュニティを力づけ、文化的ストーリーを再構築するマスタークラスのようなキャリアを歩んだ。アブローはイリノイ州ロックフォードでガーナ系移民の親のもとに生まれた。父は塗料会社で働き、母は縫製師で彼に裁縫の基礎を教えた。裁縫のスキルは後に彼のキャリアに大きく影響することになった。幼少期から工芸と創造性の価値に親しんだアブローだが、学生時代に最初に学んだのは建築だった。
「アブローは規範を破り、社会から疎外されたコミュニティを力づけ、文化的ストーリーを再構築するマスタークラスのようなキャリアを歩んだ」
2002年にウィスコンシン大学マディソン校で土木工学の学位を取得した後、イリノイ工科大学で建築学修士号を取得した。ミース・ファン・デル・ローエ(Mies van der Rohe)が設計したキャンパスから、「形は機能に従う」というモダニズムの原則を教わった。建築を学んだことは彼の仕事に終始よく表れていた。アブローは作品を構造の中に組み込む独自の方法に長けていた。自ら設定したルール、ハック、ショートカットを駆使し効率を高めることで膨大な作品を生み出した。実際彼は衣服、スニーカー、家具、文化運動など多様な形態をとった「構造」をデザインしていたと言えるだろう。
ヴァージル・アブローの創造的軌跡を決定的に変えたのは、2002年のカニエ・ウェストとの出会いだった。2009年、2人はFENDIでインターンシップを開始した。既に当代屈指の影響力を持つミュージシャンだったウェストだが、この挑戦には真剣に向き合い、アブローも彼の右腕として共に歩んだ。その後まもなくアブローはカニエ・ウェストのビジュアル、文化帝国の作り手として、アルバムアート、ステージデザイン、マーチャンダイジング、コラボ全般を監修するようになった。
二人のプロジェクトで特に代表的なのが2011年のアルバム『Watch the Throne』のアルバムカバーだ。GIVENCHY(ジバンシィ)の元クリエイティブディレクター、リカルド・ティッシ(Riccardo Tisci)との共同デザインによるものである。アート、音楽、ラグジュアリーの融合を象徴し、金色のエンボス加工を施した複雑なデザインは、グラミー賞の最優秀レコーディング・パッケージにノミネートされた。その後も二人は境界を突破するコラボを続行。フランス発のアパレルブランドA.P.C.(アーペーセー)と2つのカプセルコレクションを発表した。A.P.C.のミニマルな基本アイテムとウェストの洗練された感性を融合させ、ミリタリアやワークウェアのストリートウェアの要素と、パーフェクトTシャツのようなハイファッションのテイストを巧みに組み合わせたこのコラボは見るものを驚かせた。シンプルな白Tシャツでも$120と、小売価格はストリートウェア消費者にとってやや高価だったが、メディアを席巻し、瞬く間に完売した。熱狂的ファンがA.P.C.の店舗前に列をなし、NIKEとのコラボ以来の盛り上がりを見せた。
アブローの貢献はデザイン面に留まらなかった。彼の働きにより、マーチャンダイズがアーティストブランドの正当な拡張として位置付けられるようになり、ツアーマーチャンダイズの発売日がSUPREMEの発売日に匹敵する興奮を呼ぶ時代が築かれた。『Yeezus』ツアーから『The Life of Pablo』まで、アブローとウェストは使い捨ての記念品程度であったツアーマーチャンダイズをアーティストのヴィジョンの一部として扱い、文化的遺物へと昇華させた。世界各地の都市に現れた『The Life of Pablo』のポップアップショップでは刹那的瞬間をグローバル現象へと変えるアブローの能力が示された。その際の創造的エネルギーはウェスト人気に帰するところも大きかったが、ライブ会場で毎回観客同士が体をぶつけ合いながら踊り出すことで知られていたヒューストンのアーティスト、トラヴィス・スコット(Travis Scott)とのコラボでも同様の成功を収め、アブローの実力はいよいよ明らかなものとなった。多分野横断型精神を特徴としていったアブローは、様々な業界を自在に横断し、ストリートカルチャーを新たな高みへと引き上げていった。
「アブローのコラボと包摂の哲学は、新世代のクリエイティブ人材に道を切り開いた」
2012年アブローがミラノに設立したファッションブランドOFF-WHITE™(オフホワイト)は瞬く間に一大現象となった。ブランド名は黒と白、つまりハイファッションとストリートウェアの間のグレーゾーンを指す。OFF-WHITE™の象徴的なデザイン要素である引用符、ジップタイ、インダストリアルテキストは、瞬く間に認知度を上げ、強い影響力を持つようになった。OFF-WHITE™は単なる服ではなく、言語を創造した。どの作品でも、タイポグラフィ、グラフィック、ラグジュアリーファッションの規範を遊び心で逆転する行為により物語を語っていた。2015年、OFF-WHITE™はLVMHプライズの最終候補に選出され、ファッション界での地位を確立し、アブローを注目のデザイナーとして位置付けた。
2017年のヴァージル・アブローとNIKEとのコラボによる「THE TEN」は、「エア ジョーダン 1」、「エアマックス90」、CONVERSE(コンバース)の「チャックテイラー」など、NIKEを代表する10のシルエットを解体し、アブローのシグネチャー美学を注入したものだった。露出ステッチ、サンセリフ書体、アブローのシグネチャーである引用符、ジップタイで、各スニーカーをステートメントピースへと変身させた。単なるスニーカーコラボではなく、日常アイテムを創造のキャンバスとして見直すストーリーテリングでもあり、履き手を作品の一部として巻き込む体験を提供した。NIKEとのコラボに加え、アブローとオーディエンスのコラボという側面もあった。「THE TEN」はスニーカーコラボの可能性を広げ、多くの模倣者を生み出し、文化革新者としてのアブローの地位を確立するとともに、ファッションにおけるスニーカーの認識を変えた。

©HIGHSNOBIETY

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2018年、ヴァージル・アブローは黒人初のLOUIS VUITTONメンズウェア部門アーティスティックディレクター就任という歴史的快挙を成し遂げた。それは、多様性、表象性の面だけでなく、ストリートウェアがラグジュアリーファッションに与える影響が正式に認められた意味でも画期的な出来事だった。アブローの指揮下、より包摂的で若者を重視するビジョンを掲げ、LOUIS VUITTONは新たな道を切り拓いた。アブローはLOUIS VUITTONのヘリテージを尊重しながら、大胆なグラフィックや遊び心のあるタイポグラフィなどのOFF-WHITE™の美学を取り入れた。
アブローのLOUIS VUITTONデビューコレクションは、多様性と創造性を讃える熱狂的なショーだった。多様性に溢れるモデル達がLOUIS VUITTONの洗練されたデザインとアブローの現代的な感性の融合するアイテムを身にまとい、虹色のランウェイを歩いた。オーバーサイズのモノグラムコート、LOUIS VUITTONのレザーグッズを思考的に解釈したアイテム、定番スポーツウェアのシルエットにオマージュを捧げた人気のスニーカーなど、伝統を尊重しつつ境界を突破するアブローの能力を示す作品の揃ったコレクションであった。
このショーは単なるプレゼンテーションを超え、文化的な局面を意味していた。ラグジュアリーファッションが包摂的なもの、先見性のあるものとなり得ることを示し、LOUIS VUITTONを新たな創造性の時代のリーダーとして位置付けた。アブローの統率の下、LOUIS VUITTONは文化や業界の境界を越えるコラボを積極的に推進した。2020年、アブローはBAPEの創設者、NIGOとのカプセルコレクション「LV2」を発表し、NIGOのデザインコードをフランスのラグジュアリーブランド水準に引き上げた。キム・ジョーンズがショーン・ステューシーに彼の夢見たプロダクトを創造する機会を与えたように、LV2も日本のストリートウェアとフランスのラグジュアリーの両方を讃えるものだった。アブローがここで偉業を成し得た背景には、彼がNIGOの作品を単に評価していただけでなく、NIGOの仕事の真のファンであったとの事実がある。カモフラージュ柄の「ペプシ」缶やキャンディカラーのパテントレザースニーカーを魅力的に仕上げるNIGOの才能は、LOUIS VUITTONのようなブランドにも通用した。アブローはそのNIGOにプラットフォームを提供する仲介役だった。ストリートウェアの過去と現在を結びつけたこのコレクションで、アブローはストリートウェアの未来の新章を書いた。それからまもなくNIGO自身もKENZO(ケンゾー)のアーティスティックディレクターとしてLVMHグループに迎えられた。LOUIS VUITTONは以前にもスケートボード界との繋がりに挑んでいたが、アブローはスケーターのルシアン・クラーク(Lucien Clarke)をこれもやはり初めて起用し、スケート界との繋がりをさらに深めた。アブローはルシアン・クラークにシグネチャーシューズ「A View」も提供した。過酷な長時間スケートで履き潰されることを前提した$1,200の価格帯のスニーカーだ。ストリートカルチャーの伝説をラグジュアリーの世界で正規のものとし、スケートボードをファッションの最高峰に持ち込むプロジェクトの数々により、LOUIS VUITTONの物語に新たな層が加わった。こうして文化が急速に変化する中、LOUIS VUITTONの存在意義が強化された。
キム・ジョーンズはDIORエアジョーダンのコラボでスポーツウェアとラグジュアリーの枠組みを破った。そのコンセプトを2022年、アブローがNIKEとLOUIS VUITTONの大規模なコラボを通じて独自に進化させた。スニーカー文化のルーツに戻り、アイコニックなAir Force 1を複数のカラーウェイで再解釈した50足近くのモデルで、FOOT LOCKER(フットロッカー)など至る所にある人気スニーカー店の風景を再現した。それは、人気YouTubeシリーズComplexの「Sneaker Shopping」などによく登場する小売店のスニーカーコーナーの光景をラグジュアリーブランドの世界観に組み込む発想であった。
コレクションの幅広さと多様性にはアブローの個性が色濃く表れていた。彼の代名詞であるジップタイをレザーのLVラゲッジタグに置き換え、インダストリアルな「AIR」の文字をソールに刻印し、キャナル・ストリートの海賊版や、Newport(ニューポート)のタバコをモチーフにしたアリ・サール・フォーマン(Ali Saur Forman)の「アリ・メンソール10s」を思わせるカラーウェイを使うなど、全てのシューズがスニーカーとストリートウェアの文化を物語っていた。グローバルアクティベーションとポップアップストアも展開され、高額な価格($2,750から$3,450)を支払えない消費者も、没入型体験を通じてその興奮を味わうことができた。

©COURTESY OF LOUIS VUITTON
ファッションの仕事のみならず機会創出にも取り組んでいたアブローは、「ポストモダン」奨学金基金などを通じ、ファッションやデザイン分野での就業を希望する黒人学生を支援していた。コラボと包摂を重視するアブローの哲学により、新世代のクリエイターに彼の足跡をたどる道が開けた。同基金では初年度に$100万ドルを超える資金を調達した。業界で声を上げにくい層への機会創出にアブローが熱心に取り組んでいたことが伺える。指導の精神は彼のコラボにも及んだ。アブローは新興デザイナーやクリエイターと頻繁にコラボをし、彼らの声を自身のプラットフォームを活用して広めた。
彼自身が望ましいと考える世界の捉え方を伝えるにはコラボが有効であることを、ヴァージル・アブローはそのキャリアを通して証明していた。分野もファッションのみに留まらず、家具デザイン、自動車、飲料など多岐にわたった。アブローのコラボは単なるパートナーシップではなく、ブランドとクリエイターの関わり合い方を刷新する文化的瞬間であり、いわゆる「デザイナー」が達成できる可能性を広げるものだった。デザインとは普遍的なものである、というアブローの信念を、数々のプロジェクトが浮き彫りにしていった。スニーカー、ハンドバッグ、ウォーターボトルと、いかなる媒体にもアブローは同水準の目的意識と革新性を持って取り組み、どれほど小さく、些細なものであっても、デザインによって高められないものはないと立証していた。
- Words: Jian Deleon