妖怪は、彼女を守るために生まれた。
柳原路世の写真を前にすると、まず言葉が遅れる。
そこに写っているのは妖怪なのか、人間なのか、あるいはそのどちらでもない何かなのか。説明しようとすればするほど、言葉は的確さを失い、輪郭は曖昧になる。写真を観るという行為が、無意識のうちに「意味」を求めてしまうからだ。
彼女の作品はしばしば「妖怪的」「神話的」「幻想的」と形容されてきた。だが、柳原自身は妖怪を主題として扱っているわけではない。妖怪はあくまでモチーフであり、装置であり、もっと言えば、彼女がある時期にどうしても必要とした「形」に過ぎない。なぜ、その形が妖怪でなければならなかったのか。
柳原の写真に登場する妖怪は、恐ろしくない。どこか滑稽で、ポップで、ときに愛嬌すらある。それは、観る者を怖がらせるための存在ではない。むしろ、かつて怖がっていた「誰か」に向けて、「もう大丈夫だ」と語りかけるための存在だ。妖怪は外側に向けて放たれたメッセージではなく、内側に向けて組み立てられた応答なのである。
人はしばしば、言葉によって恐れる。神話、迷信、冗談の皮をかぶった恐怖。とりわけ幼少期に浴びたそれらの言葉は、体の奥に沈殿し、名前のない不安として残り続ける。柳原の写真は、その沈殿物を可視化する試みだ。ただし彼女は、それをそのまま再現しない。美しさとユーモアを与え、キャラクターとして再構築することで、恐怖を自分の手に取り戻してみる。

選ばなかった人生から、写真が始まった
柳原路世が写真家になることは、最初から意図されてはいなかった。美術大学を出たわけでもなければ、幼少期からカメラに親しんできたわけでもない。出発点は、地方での映像制作会社の末端業務という、ごく現実的で偶然に満ちた場所にある。ローカルテレビ局のさらに下請けのような存在だった。地方ロケの雑務、機材運び、そこに新規事業として持ち上がったのが、ウェディングフォト部門だった。女性社員が必要だという、今なら問題視されかねない理由で、彼女はカメラを渡される。撮りたかったからではない。やる人がいなかったから。それが、彼女と写真との最初の関係だった。
当時の彼女は、カメラの仕組みも、専門用語も分からない。説明書も読まない。オートで撮って、白飛びして、試して、失敗して、また撮る。理論より先に、体が覚えていく。彼女の写真は、最初から「考えて撮られた」のではなく、「やりながら掴まれた」ものだった。
この出発点が重要なのは、彼女の写真には最初から、「こう表現したい」「こう見せたい」という欲望よりも先に、状況に適応するための感覚が組み込まれていたから。与えられた役割をこなし、求められる形に応えながら、どうにか自分を失わずにいた。
転機となったのは、東日本大震災だった。東京の制作現場が麻痺し、そのしわ寄せが地方に流れ込む。仕事は激増し、休む暇もなく、精神的にも肉体的にも限界を迎える。彼女はそこで初めて、仕事を続けられなくなる。彼女は一度、壊れた。
辞めるという選択は、逃避でもあり、生存でもあった。「好きなことを仕事にするなら、なんだろう」という問いに、はっきりとした答えはなかったが、写真だけが残った。偶然始まり、偶然続いていたはずの写真が、そのとき初めて「自分の手に残ったもの」として意識される。この時点で、まだ妖怪はいない。作家性も、コンセプトもない。あるのは、環境に適応し、役割を演じ、疲れたらそこから離れるという、ひとつの生き方だけだった。
だが後に、妖怪という形を借りて現れる表現の核は、既にこの頃から芽生えている。それは「なりたい自分」ではなく、「そうせざるを得なかった自分」の履歴だ。彼女の写真は、最初から自由のために始まっていない。むしろ、不自由さの中で、どうやって呼吸を続けるかという問いから始まっている。


逃げるために移動する─リセットという自己防衛
柳原路世の人生を振り返ると、ある反復が浮かび上がる。それは「移動」と「断絶」。場所を変え、人間関係を切り、ゼロからやり直す。その振る舞いは、しばしば不安定さや気まぐれとして語られてきたかもしれないが、彼女の言葉を丹念に辿ると、それは衝動的な逃避ではなく、きわめて一貫した自己防衛の形だったことが分かる。人と仲良くなればなるほど、逃げたくなる。自分の輪郭が他者によって定義されるほどに、無意識の拒否が働く。だから彼女は、リセットする。
ロンドン行きも、その延長線上にあった。「箔をつけたい」という軽やかな動機の裏には、東京で増えていく人間関係や期待から、一度距離を取りたいという切実な感覚があった。目的地は重要ではない。重要なのは、今いる場所から離れられるかどうかだった。
アシスタントとして現場に入り、学び、やがて離れる。その繰り返しは、成長の物語としては語りにくい。しかしそれは、彼女が「役割に取り込まれ過ぎない」ための選択でもあった。人は関係性の中で、知らず知らずのうちにキャラクターを与えられる。頼れる人、強い人、面白い人。そのキャラクターが固まる前に、彼女は場を去る。自分が自分でなくなる前に、移動する。
この「リセット癖」は、後に写真表現の核となる感覚と深く繋がっている。彼女の写真には、ひとつの人格に収まりきらない存在が繰り返し現れる。分裂した体、複数の魂を宿すキャラクター、人間と異形のあいだに揺れる存在。それらは、彼女自身が生きてきた方法の視覚的な翻訳だ。固定されることを拒み、定義される前に形を変える。その態度は、写真の中でより純度の高い形を得ていく。
興味深いのは、彼女自身がこのリセットを「異常」だと理解している点。おかしいと思うのにやめられなかった。それほどまでに、移動は彼女にとって必要な呼吸だった。逃げることは、弱さではない。少なくとも彼女にとっては、生き延びるためのスキルだった。
やがて、イギリスで彼女は気づくことになる。アイコニックな写真家が既に溢れる場所で、誰かの模倣では居場所がないという現実に。そこで初めて、「オリジナルでなければならない」という要請が、外側からではなく内側から立ち上がる。だがそのオリジナルは、前進の先にあったのではない。彼女はむしろ、幼少期へと遡っていく。自分が何に怯え、何を好み、どんな物語の中で育ってきたのか。そこから、妖怪というモチーフが、必然的に立ち上がってくる。

妖怪の正体─恐怖は、体に叩き込まれた言語だった
柳原路世が妖怪を撮る理由を辿っていくと、それは想像力やファンタジーの問題ではなく、きわめて現実的な「言葉の記憶」に行き着く。彼女にとって妖怪は、物語の中の存在ではなかった。幼少期、彼女は祖母から恐怖によって躾けられていた。悪いことをすれば、妖怪が来る。魚の骨をきちんと取らずに食べれば、喉を突き破って血が出る。そんな言葉が、日常的に投げかけられていた。
子供にとって言葉は現実そのものになる。妖怪は「いるかもしれない存在」ではなく、「確実に来るもの」だった。恐怖は想像ではなく、教育の一部として体に刻み込まれていった。
なぜグロテスクな表現、異形の存在に強く惹かれるのか。その嗜好は、既に刷り込まれていたものだった。怒られるたびに呼び出されたイメージ。言葉によって呼び出され、言葉によって恐れさせられた存在。それが、妖怪だった。
ここで柳原は、恐怖を拒絶するのではなく、別の選択をする。忘れることも、否定することもせず、一度、形として引き受ける。写真というメディアを通して、妖怪を再び呼び出す。ただし、かつてのように一方的に支配される立場ではない。今度は自分が、構図を決め、光を当て、距離を測る側に立つ。
実際の記憶の中では、妖怪はもっとグロテスクで、もっと暴力的だったが、彼女はそれをそのまま再現しない。ポップに、どこか滑稽に、美しさを与える。ギャグのようにすら見える瞬間もある。それは恐怖を矮小化するためではなく、恐怖をもう一度、自分の手に戻すための操作だったのではないか。少なくとも彼女自身は、それを「癒やしに近いもの」として引き受けている。
続きは本誌をチェック。

【書誌情報】
タイトル:HIGHSNOBIETY JAPAN ISSUE16 JIN AKANISHI
発売日:2026年 3月10日(火)
定価:2,200円(税込)
仕様:B4型
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【書誌情報】
タイトル:HIGHSNOBIETY JAPAN ISSUE16 VERSACE
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- Photography: Michiyo Yanagihara
- Words: Yuki Uenaka