ストリートウェア全史:20年にわたるアンダーグラウンドの物語
ストリートウェアには決定的なストーリーは存在しない。決定版と名乗るものが登場したとしても、扱いにくかったり矛盾に満ちていたり過度に神話化されていたり、有用とは言えないだろう。最近使われるようになったスラング “IYKYK”(分かる人には分かる)はあるが、その考え方はサブカルチャーの始まりから一貫して存在してきた。そもそも、ストリートウェアは万人向けに作られたものではない。
とは言え、ファッションについて語るには、後にストリートウェアと名付けられることとなったこのシーンに触れないわけにはいかない。ストリートウェアの定義はまちまちだ。「自己表現」のように漠然とした、抽象的で宗教的な定義をされることもある。正確ながら長々しい定義もあれば、但し書き付きで散漫な定義もある(詳細は割愛する)。また定義付けそのものを嫌う考えもある。
『HIGHSNOBIETY』としては、分類やストーリーに価値はあると感じている。そのためこのような記事を長年にわたり刊行してきた。情報が氾濫する中で歴史的瞬間を捉えるためには選別と整理が必要であることを肯定する営みとも言える。
『HIGHSNOBIETY』20周年を記念し、過去20年間パーソナルスタイルに貢献してきた20人のデザイナー、ブランド創設者、店舗オーナー、クリエイターと対談した。内容は全編、時系列的なまとめよりもコラージュのような構成でYouTubeに公開している。脱線した部分や重要人物を省略している場合もあるが、読者のみなさまはおそらくこの記事を今スマートフォンでお読みのことと思われるため、詳しい背景情報はGoogle検索で確認してみていただきたい。あるいはどこかお近くの店舗へ赴き、本記事内に登場する時代や人物について話をしてみてはどうだろう。意外な学びが得られるかもしれない。
※いずれの引用も、理解促進のため、編集、要約しています。
ストリートウェア2.0:ニューヨーク、ダウンタウンのボーダー(2005年-2009年)
ニューヨークのダウンタウンは何十年にもわたり、若き反逆者、アーティスト志望者、貧乏な社交界の人々など、クールで熱いものに精通した人々を惹きつける魅力を放ち続けている。服や着こなしも常にその一部であり続けてきた。やがて14番街以南で生まれた文化のコードや規範は広まり、シーンに属さない人々も参加を試みるようになった。その存在感はアメリカ全土、さらには世界中の人々を魅了した。
ヘッティ・ジョーンズ(Hettie Jones)は自伝『How I Became Hettie Jones』の中で、1950年代前後のファッションシーンについて、「ダウンタウンはみんなの新しい場所だった」と語っている。その前の時代には冒険心に満ちたボヘミアンがA列車でアップタウンへ繰り出し黒人文化を体験したことで文化交流が促進された。ジョーンズにとってダウンタウンは発見を分かち合う場所だった。
ダウンタウンは長年、ジョーンズや、様々な人種から成る彼女の詩人仲間、批評家、ジャズミュージシャンらのものだったが、ジョーンズはある日ある店で、彼女のような服装をした一体のマネキンを目にした。「自分がそれほど文化に影響を与えていることや、自分が世間の多くの女性から、具体的にどのような意味においてかはさて置き、憧れられていることが不思議に感じられた」と彼女は書いている。本物のサブカルチャーが商業的に強く求められるのも事実だが、商業はそもそも、サブカルチャーの存在価値を理解した上に成り立つものではない。
この営みは繰り返される。その50年後、2005年前後のダウンタウンを見てみると、ストリートウェアという言葉自体は使われていなかったが、それに相当するものによって多くの融合と創造が生まれていた。ビート詩やジャズがスケートボードやグラフィティに置き換わりはしたが、人種、民族、階級、昔からのニューヨーカーと移住者との混合が活力を与える現象には変わりはなかった。
UNION(ユニオン:1989年設立)やSupreme(シュプリーム:1994年設立)などのショップがクラブやコーヒーショップの役割を果たし、少数の同志を引き寄せた。公式な招待があったわけではない。1990年代のニューヨークは攻撃的で排他的な場所だった。警戒心の強い刺々しい態度が当たり前だったが、やがてその態度も緩み、時代は職業上のネットワーキング、利益をもたらすコラボレーション、国際企業投資へと移行していく。以下はその変遷過程の一例だ。
クンル・マーティンス(Kunle Martins:IRAK創設者、アーティスト)
「90年代はまるで冬のように厳しい時代でした。人々は冷たく、辛辣でした。でも2000年代になると、だいぶ柔らかくなったように感じます。機会も増え、人々の考えも広がりやすくなったと思います」
アンジェロ・バク(Angelo Baque:AWAKE NY創設者、Supreme元ブランドディレクター)
「昨日、友人と2005年のことについて話していました。ちょうどNom de Guerre(ノム ド ゲール)で働き始めて2年目の頃です。当時はブリーカー・ストリートとブロードウェイの交差点の角にお店を構えており、地下には奥に秘密のスニーカーショップがありました。大口のお客様の一人にジュード・ロウがいらっしゃいましたが、誰にも話したことはありませんでした。そこには独自のルールがあったのです」
サレヘ・ベンバリー(Salehe Bembury:SPUNGE創設者)
「2005年は大学に入学した年でした。当時は仲間と一緒にDigitalGravelで、Rocksmithや10.Deep、RockersNYC、aNYthing、STAPLEなど、ニューヨークのローカルなストリートウェアブランドをあれこれ購入していました。そうした、自分が着るべきだと思えるニューヨークのブランドがありました」
アンジェロ・バク
「オールオーバープリントのNEW ERA(ニューエラ)や、10.Deep、Crooks & CastlesみたいなTumblrファッションが生まれた時期でした」
マシュー・ウィリアムズ(Matthew Williams:1017 ALYX 9SM創設者、Been Trill創設者)
「ニューヨークでいろいろなブランド服の生産を担当していました。メンズウェアに夢中でした。マーサーストリートに友達の勤務先の店舗があって、ラフ(Raf)とかベルンハルト・ウィルヘルム(Bernhard Willhelm)とか、かなり斬新なデザイナーの服を売っていました。Nom de Guerreも、私にとって学びの多い場所でした。ランウェイショーやストリートスタイル、日本の雑誌も勉強材料にしていました。12番街にある本屋「Gallagher’s」には、ファッション史を学ぶために通っていました」
ヘロン・プレストン(Heron Preston:クリエイティブディレクター、デザイナー、DJ、Heron Preston創設者、Been Trill創設者)
「サンフランシスコでスケートボードをして育ち、STÜSSY(ステューシー)のようなスケートブランドが大好きでした。サンフランシスコで触れていたストリートウェアやストリートファッションは、自分がニューヨークに移住してからさらに深まったように感じます。ラップ音楽やハーレム(Harlem)、キャムロン(Cam’ron)からも大きな影響を受けました。ピンクのポロシャツを着たり、A.P.C.(アーペーセー)を知ったりしながら、自分のスタイルは徐々に変化し、見識も広がりましたが、まだ探求の途中でした」
ロニー・ファイグ(Ronnie Fieg :KITH創設者、クリエイティブディレクター)
「Nom de Guerreはお気に入りのショップでした。North/ReconやAlife Rivington Club、ラファイエットのClienteleもそうです。アメリカ各地には、UndefeatedやUNION(ロサンゼルス)、RSVPギャラリー(シカゴ)、マイアミのArriveなどのショップもありました」
クリス・ギブス(Chris Gibbs)は、日本ブランドを多く扱うUNIONUnionで働いていた。店舗の専門性は年月を経るごとにますます高まっていった。やがて経営を引き継いだギブスは90年代後半に初めて訪れた東京で見た職人技に感銘を受け、その情熱をさらに深めていった。
2005年当時、日本製品を買うと言えばA BATHING APE(ア ベイシング エイプ)を買うことを意味していた。2025年のUNIONのアンカーブランドであったBAPEには「弾丸みたいな勢い」があったとギブスは言う。2000年代に東京に移住したイギリス人スケーターでA&Rのトビー・フェルトウェル(Toby Feltwell)は、BAPEのクリエイティブヴィジョンの伝説的主導者NIGO®(ニゴー)のアドバイザーとして働いていた(そして後にNIGO®とファレルと共にBillionaire Boys Clubの立ち上げにも携わった)。当時アメリカ初のBAPE店舗オープンを計画していた2人はニューヨークのダウンタウンに狙いを定めた。
クリス・ギブス(UNIONロサンゼルス店オーナー兼クリエイティブディレクター)
「当時のA BATHING APE®ほど成功したブランドは後にも先にもありません。あれほどの金額を発注したことはありませんでしたが、一日で完売してしまいました。ソーシャルメディアもECもない、純粋に実店舗だけの時代です。初めて日本へBAPEの買い付けに行った際、ラインシートを見たのを覚えています。ほとんどのブランドは最低発注数を設定していて、20点以上でなければ注文できません。しかし、自分がA BATHING APE®にした初回の発注は最大量で、購入数量に上限があるのを目にするのは初めてでした。A BATHING APE®のパーカーは、グリーンカモ、パープル、ブルー、レッド、マルチカモの5色展開で、最大注文数は1点と記されていました。思わず「各色、各サイズで1点ずつですか?」と尋ねると、「いいえ、1点です」と返されました。欲しいパーカーのサイズと色を選び、1点だけ購入できる仕組みです。BAPEを買おうとUNIONの列に並んでくれたお客様が、結局購入できずに泣いてしまうのも、こうした事情によるものです」
トビー・フェルトウェル(Cav Empt共同創設者)
「ストリートウェアは何かに対して『そうじゃない』と主張する性質を持っています。ただなんでもできるわけではなく、一定のルールがあり、そのルールを定義すること自体がストリートウェアの営みの一部です。BAPEは許容されるアイテムの幅を広げた点で貢献しました。当初はスタジャンやTシャツ、スウェットシャツ、パーカー、ジーンズ、コンバットパンツなどに限られていましたが、徐々に多様なアイテムが加わってもリアルさは失われていません。『これからはファッションをやろう』との領域にはまだ踏み込んでいないのです」
ニューヨーク、東京、ストックホルム、どの都市においても、アンダーグラウンド文化には、暗黙のものを含めてコードやルールが不可欠だ。2005年にストックホルムでOUR LEGACY(アワー・レガシー)を共同設立したヨックム・ハリン(Jockum Hallin)は、サブカルチャーの坩堝で形成されたパーソナルスタイルを表現し、カルト的メンズウェアブランドを立ち上げた。
ヨックム・ハリン(OUR LEGACY共同創設者、OUR LEGACY Workshopクリエイティブディレクター)
「スケートボードやほかのサブカルチャー、ハードコアやスニーカー文化の影響を受けました。ファッション店で働いていた経験もあり、その世界に誘われているような感覚もありました。ChuckかVanのシューズにクロップド丈のストレートチノパン、ヴィンテージのRalphシャツ、昔のBURBERRY(バーバリー)のトレンチコートやヴィンテージのM65ジャケットを合わせていました。Maison Margiela(メゾン マルジェラ)やHelmut(ヘルムート)、当時手に入るものであればなんでも取り入れていました。(ストックホルムでは)小規模なブランドからのインスピレーションが中心でしたが、イギリスやニューヨーク、日本のブランドからも多くのものを取り入れていました」
ビー・フェルトウェル
「(BAPEの)エネルギーやアイデンティティは当時全てニューヨークから発信されていました。あの頃、月に一度はNIGO®と一緒にニューヨークに行っていました。馬鹿騒ぎのパーティー、ジュエリー、シャンパン、プライベートジェット。笑えるほどベタな派手さがありました。今のブランドのイメージは、20年前のそんな時代に形作られたものです」
従兄弟達にSupremeをねだられる(2010年-2014年)
2000年代の終わりには、スニーカーデザイナーのサレヘ・ベンバリーのようなクリエイティブ志望の若者達が、思春期を過ぎて大人になり、そして悲劇的にも労働の世界へ足を踏み入れていた。(服やスニーカーの転売業者にとって「働く」とは、ニューヨークのラファイエット・ストリートや、サラ・アンデルマンが1997年に母親と共同設立したパリのコンセプトストア「COLETTE」の外で、ポータブルDVDプレーヤーとスナックを片手に座り込むことを意味していた)。ベンバリーの場合、20代はCOLE HAANに勤め、堅苦しいオフィスでジーンズとウィングチップを合わせる際、足首をどこまで見せるべきかに気を使っていた。
CEOミッキー・ドレクスラーの舵取りと、ジェナ・ライオンズの細部まで行き届いたクリエイティブ・ヴィジョンのもと、J.Crew(ジェイクルー)はそうした懸念に応えるかたちでリブランディングを果たした。オバマ一家からのお墨付きと、洗練されたアメリカン・ヘリテージの解釈が後押しとなり、2010年には30億ドルの買収提案を受けるなど大きな話題を呼んだ。一方で、古いものの復活よりも常に新しさを信条とするトビー・フェルトウェルにとっては面白くない展開だった(「ワックスで固めた口ひげ」と言うだけで顔をしかめるような人物だ)。
サレヘ・ベンバリー(Salehe Bembury)
「大学を出て3つ目の仕事で、NIKE(ナイキ)の “ヨーダ” 的存在、ジェフ・ヘンダーソン(Jeff Henderson)のもとで働いていました。彼は、ハードソールのオックスフォードが持つ格式と、スニーカーの快適さや機能性を兼ね備えたシューズ、LUNARGRAND(ルナグランド)のデザインディレクターでした。当時の自分はボタンダウンのシャツにジーンズで足首を覗かせ、足もとにはLUNARGRANDを履いていました」
ジェナ・ライオンズ(Jenna Lyons:J.Crew元プレジデント兼エグゼクティブクリエイティブディレクター)
「女性向けビジネスは大規模に展開していたので、次はメンズ部門に注力したいと考えていました。Partners & Spadeを手がけていたアンディ・スペード(Andy Spade)とアンソニー・スペルドゥティ(Anthony Sperduti)に立ち上げの協力をお願いしたところ、トライベッカにあったリカーストアを活用するアイデアを出してくれたんです。オーナーの女性はリース契約が切れたまま放置していて、近くにシナゴーグが出来たことでアルコールの提供もできなくなっていました。それでも彼女はバーを撤去しなかったので、実質使用できないスペースになっていたんです。そこで私達は、大型店舗とは違う厳選された品揃えを展開し、当時既に始めていたコラボを打ち出す場としてこの場所を活用しました。(J.Crew リカーストアは)自分達が愛し、共有したいと思ったものを凝縮し、洗練されたかたちで表現した場所でした」
ブレンドン・バベンジン(Brendon Babenzien:Noah共同創設者、Supreme元デザインディレクター)
「J.Crewはアメリカのメンズファッションを進化させたと思います。男性がセルビッジを知るようになったこと自体がJ.Crewの功績です。ジェナとフランクの時代のJ.Crewは、世の中の動向をよく分かっている感じがしました。クールなスニーカーやサードパーティブランドのものを少しずつ並べていて『一般男性に買い物の選択肢を増やす良い仕事をしている』とジェームズ・ジェビア(James Jebbia)も自分も評価していました」
9時から5時までの勤務に代わる選択肢をもたらしたのは、「人を殺せ、燃やせ、学校なんてくそくらえ」と叫ぶロサンゼルスの19歳の若者だった。Odd Futureのリーダー、タイラー・ザ・クリエイター(Tyler, The Creator)は2011年2月、ロックフェラー・センター30番地(コムキャスト・ビルディングにあるNBCの放送スタジオ)に、Supremeと書かれた赤い四角形のロゴの入った白いパーカー姿で登場した。その夜放送された『レイト・ナイト・ウィズ・ジミー・ファロン』(正確には翌日のYouTube配信の視聴者の方が多かったかもしれない)で一世代の信奉者が生まれた。タイラーは初期の楽曲「AssMilk」で「スケートもできない奴がボックスロゴを付けるな」と歌い、フェルトウェルがストリートウェアの精神として説明したアウトサイダーの思想を体現していた。しかし当時Supremeを欲しがったのは、整備の行き届いた郊外の家に住み、敷地内に長い車道があっても、そこでキックフリップをやってみようとさえしないような若者達だった。
アンジェロ・バク
「毎年、親戚のバーベキューパーティーを開いていました。自分の仕事にはこれまで誰も興味を示さなかったのですが、2011年から2012年頃になると、従兄弟達から急に『Supremeの帽子を買ってくれない?』とねだられるようになったんです。当時はA$AP Mobやタイラー、アール(Earl)、テリー・リチャードソン(Terry Richardson)が一気に登場していて、その中心にSupremeがありました」
トレマイン・エモリー(Tremaine Emory :Denim Tears創設者、Supreme元クリエイティブディレクター)
「Supremeは1994年に生まれています。Supremeのデザイン、Instagram、A$AP Mob、Golf Wang(ゴルフワン)が相まって大ブームになりました。西海岸、東海岸のクルーが若者を熱狂させ、それがInstagramで拡散され、Supremeの服、デザインが一気に注目されました。同じ路線のSkepta(スケプタ)、BBK、Giggs、WALES BONNER(ウェールズボナー)、MARTINE ROSE(マーティン・ローズ)も、何年も長く活動を続けています」
不況の中、創設者でオーナーのエディ・クルーズ(Eddie Cruz)からUNIONを買収し、新たな事業計画を実行する機会を得たクリス・ギブス(Chris Gibbs)は、ストリートウェアの中心的アイテムであるTシャツの販売を廃止した。ロゴ入りTシャツよりも高額商品に投資をしたいと考えたクリスは、モカシンで知られる、ある日本のブランドに狙いを定めた。
クリス・ギブス
「10年間visvim(ビズビム)一筋でした。visvimは自分が愛し、理解しているブランドでした。(中村)ヒロキとはとても良い関係で、2010年から2017年か2018年くらいまで、UNIONの売上の約50%はvisvimでした。ヒロキを呼んで、シャトー・マーモントを借り切って、大規模トランクショーを年2回開催していました。ジョン・メイヤー(John Mayer)のような大口顧客もいましたが、トランクショーは予約制なので、有名人はあまり来ませんでした。富裕層の有名人は6カ月先まで受け取れないものは買わないからです。ショーに来ていたのは趣味の良い裕福な紳士層で、1シーズンでvisvimに2万ドル以上使う方もいました」
ウンベルト・リオン(Humberto Leon)とキャロル・リム(Carol Lim)は2012年、イーストビレッジの音楽会場、ウェブスターホールで、2人が設立した店舗兼ブランドOPENING CEREMONY(オープニングセレモニー)の創業10周年を祝う大規模なパーティーを開催した。2人の香港旅行から着想を得て生まれたOPENING CEREMONYは、ダウンタウンの偏狭な考えを非難するのではなく、2人のセンスを純粋に反映している点において、ファッションのグローバルな未来を受け入れていた。そして世界中のショップのバイヤー達がリオンとリムのセンスを学びに訪れた。
ウンベルト・リオン(OPENING CEREMONY共同創設者)
「2000年代初頭、キャロルと一緒にいろいろな新興ブランドを発掘していました。Acne Studios(アクネストゥディオズ)、Alexander Wang(アレキサンダー・ワン)、BAND OF OUTSIDERS(バンドオブアウトサイダーズ)、RODARTE(ロダルテ)を扱ったのはOPENING CEREMONYが最初でした。2010年代に入る頃にはその多くが有名になっていたと思います。JACQUEMUS(ジャックムス)を扱ったところ、3シーズンで有名になりました。JW Anderson(ジェイダブリュー・アンダーソン)も扱った2シーズン後に有名になりました。キャロルと一緒に卒業ショーを全て観覧し、気に入った5人のデザイナーを選んでいました。コレクションの費用も払えないようなデザイナーが多く、サンプル制作や生産、サイズ展開の資金援助をしていました」
キャロル・リム(Opening Ceremony共同創設者)
「Eコマースも大衆的ショッピング手段になってきました。2010年代になると翌日配達が求められるようになり、マスブランドのグローバル化も進みました」
2010年、トレマイン・エモリーはロンドンに移り、マーク・ジェイコブス(Marc Jacobs)のもとで働き始めた。ロンドンで盛んだったスケプタやギグスらを軸とするグライムに心酔した。音楽マニアであるトレマインは、ブリティッシュ・インヴェイジョンやパンク・ロックの視点からイギリスの影響力を意識した。
トレマイン・エモリー
「ストリートウェアの始祖はヴィヴィアン・ウエストウッド(Vivienne Westwood)だと思います。ヴィヴィアン・ウエストウッドとマルコム・マクラーレン(Malcolm McLaren)のWorld’s End、SEXショップ、SEDITIONARIES(セディショナリーズ)が元祖です。ロンドンに来た藤原ヒロシもSEXショップでバーンズリー(・アーミテージ)を追いかけ回していました。時を経て、(セントラル・セント・マーチンズの学生だった)ウェールズ・ボナー(Wales Bonner)の初期のプレゼンテーションを私は観に行っていたんです。グレースとは長い付き合いです。ウェールズ・ボナーとマーティン・ローズ(Martine Rose)は、自分の制作に大きな刺激を与えてくれます。2人のスタイルは昔から確立されており、世界がやっと追いついてきたのだと思います。そういうものがロンドンではたくさん生まれていましたが、世界は遅れを取っていました」
扉を開けて去ったヴァージル(2015年-2019年)
2010年代末、ストリートウェアとハイファッションの境界はますます曖昧になっていった。そんな、明確な区分への無頓着さが進んだ状況を最もよく体現したデザイナーと言えばヴァージル・アブロー(Virgil Abloh)だろう。二足、三足の草鞋を履いて活躍するデザイナーは、今では珍しくないが、DJ、グラフィティライター、クリエイティブディレクター、デザイナー、ブランド創設者、建築学講師、家具デザイナー、プロのネットワーク構築者として忙しなく世界中を飛び回るアブローはまさにその呼び名にふさわしい人物だった(それを茶化されることもときにはあったが)。彼と関わった人なら誰でも、彼がどれほど心優しく楽観的だったかを語るだろう。万人に完全に受け入れられたわけではないが、それは問題ではない。どうあろうと、ヴァージルは思いを実現したのだから。
クンル・マーティンス(Kunle Martins)
「(ヴァージルは)とても熱意がありました。その点で、自分自身を彼に重ね合わせていたんです。ヴァージルは良い意味で相当なオタクで、自分の見たものを観客に伝えることができました」
ヘロン・プレストン
「ヴァージルと知り合ったのはSplay上だったと思います。Twitterができる前の招待制ディスカッションボードで、Supremeやニューヨークのダウンタウンの若者が招待され、ひたすら話していました。背景が黒で文字は白、リンクは赤だけの画面構成でした。当時、私はケンメアのメキシコ料理店La Esquinaで配膳の仕事をしていました。ある日、目の前をヴァージルが通りかかり、お互い二度見しました。『ヴァージル?』と声をかけると『ヘロン?』と返ってきました。そこでハイタッチをして、その出会いがきっかけになりました。ヴァージルを通じてマット・ウィリアムズ(Matt Williams)やジャスティン・サンダース(Justin Saunders)と出会い、その交友関係からBEEN TRILL(ビーントリル)が生まれました」
マシュー・ウィリアムズ
「LAに着いたヴァージルを空港まで迎えに行きました。車内の選曲はいつもヴァージルがしていました。彼は最新の音楽情報をいち早く仕入れていて、『マット、これが今シカゴで流行っている曲だよ』と言いながらチーフ・キーフ(Chief Keef)を聴かせてくれました。あの頃を象徴するような曲でした」
ヘロン・プレストン
「ボーイバンドのような感じで、自分達でグラフィックTシャツのユニフォームを作っていました。DJをするたびに、そのTシャツを買いたいと言われたんです。そこで帽子やTシャツを作るようになり、それがやがてブランドになりました」
サラ・アンデルマン(Sarah Andelman:COLETTE共同創設者)
「ヴァージルとは、PYREX(パイレックス)のTシャツ発売時にメールでやり取りをしたのが最初でした。ファッションウィーク中にCOLETTE(コレット)のレストランのウォーターバーでTシャツを発売したとき、既に多くの若者が彼を知っていて驚いたんです。当時はまだ情報源が限られていて、Instagramが登場する直前の貴重な時期でした。最初はTシャツだけだったのに、ファッションショーでより洗練されたことをやろうとするヴァージルの考えは理解できませんでした。既にたくさんのブランドがあるのに、本気でこの世界に飛び込もうとしているの? と思ったんです。でも、ヴァージルにとっては最初から筋が通っていました。最初はTシャツだけのショールームだったのが、突然ジャケットやパンツなどが並ぶようになり、そのときは思わず『本当にやるつもり?』と疑ったほどです」
ロリ・ハーシュライファー(Lori Hirshleifer:Hirshleifers共同オーナー兼ウィメンズウェアバイヤー)
「ヴァージルは何度も店に来てくれました。PYREXの後にOff-White™(オフホワイト)を立ち上げたヴァージルに、左岸の小さなスペースでコレクションを見せてもらったときが初対面です。とても斬新で、小さな部屋の全てが白、赤、黒で統一されていました。どれもOff-White™のロゴ入りで、本当に鮮烈でした。絶対に大きな存在になると感じました。“The Bedroom” ではHirshleifersがOff-White™とコラボをしたのですが、そのときもヴァージルは店に来てくれました。とてつもなくあたたかく、優しい人でした。みんな、彼を惜しんでいます」
ロニー・ファイグ
「ヴァージルほど波長が合うと思えた大物はなかなかいません。4時間もメッセージのやりとりをしたことがありました。お互い飛行機に乗っていて、最近の仕事内容をまとめたPDFを送り合っていたんです。私がWorld of Niche(私がオーナーだったことは誰も知らないような小さなシューズショップですが)を開いたときは、古いオフィスで8時間、2人ともトイレにも立たず食事も取らず、ひたすら事業計画について話していました。ヴァージルは本当にアイデアマンでした。これまでの人生で出会った人の中でも、間違いなくトップレベルに創造的な人です」
2018年3月に発表された、ヴァージル・アブローが家族と共にパリに移住しLOUIS VUITTON(ルイ・ヴィトン)のメンズウェアのアーティスティック・ディレクター就任する知らせは、ファッション界に衝撃をもたらした。当時ヴァージルは37歳だった。
サレヘ・ベンバリー(Salehe Bembury)
「オバマ氏が大統領になったときのような衝撃でした。自分が大統領になりたいわけではないけれど、黒人大統領が誕生したことで “不可能ではないんだ” と思えた。ヴァージルの場合も同じで、ハイファッションの世界に自分と同じ黒人が入ったんだと感じました。これまで映画で描かれてきたファーストクラスに乗る男性は、決まってスーツ姿の白人男性でした。ところがヴァージルは、パーカーに紐の緩んだスニーカーの姿でビジネスクラスから降りてきて、年配の白人男性が彼の名前を書いた紙を持って待っていて、その人が荷物を受け取って運んでくれる。そんな光景を目の当たりにして、“こんな世界が本当にあるんだ” と教えられました。しかもヴァージルはそれをひけらかすような感じは全くなく、『これは君達にも開かれている人生なんだ、望めば叶うんだ』と伝えてくれているようでした」
アブローの足跡を辿るようにして、ベンバリーはイタリアのファッションハウスVERSACE(ヴェルサーチェ)でヘッドスニーカーデザイナーに就任し、スニーカー「チェーン リアクション」を発表した。ドナテラ・ヴェルサーチェ(Donatella Versace)がガウン、CEOがスリーピーススーツ姿で出席するようなミラノでの会議に、ベンバリーはアブローの例に倣い自身のスタイルを貫き、Supremeのタイダイシャツとパンツで臨んでいた。
アブローの歴史的就任の1年前、LVMHはフラッグシップブランドとの公式コラボでSupremeに手を差し伸べた。メンズウェアのクリエイティブディレクター、キム・ジョーンズ(Kim Jones)によって実現したこのコラボは、パレ・ロワイヤルでランウェイを飾った。しかし真のファンなら、その約20年前の2000年に、LVのモノグラムを使用したSupremeのスケートボードデッキに、LOUIS VUITTONが販売停止命令を出した過去があることを知っている。
Supremeの道を開いたのは2015年にLVとシューズを共同制作したCOLETTE?
サラ・アンデルマン
「自分達を過大評価するつもりはないけれど、同じヒップホップアーティストがSupremeとLOUIS VUITTONのバッグを持っていてもいい、いや、むしろ一緒に持ってもいいんだ、と気づかせる手助けを、私達はできたと思う」
マイケル・デュポイ(Michael Dupouy:『ALL GONE』著者、発行者)
「これまで出会った人の中でサラほど心を開いた人はいません。ハイファッション、音楽、食、デザイン、ストリートカルチャー、スニーカー、スティレットヒールについて強い意見を言うこともするし、議論も厭わず、多くを学ばせてもくれる。サラが一切の制限なく、やりたいことを自由にしていたからこそ、COLETTEでは同じ日にドレイク、カール・ラガーフェルド(Karl Lagerfeld)、日本のグルメな若手デザイナーが訪れる、そんなことが現実になったんです」
トビー・フェルトウェル(Toby Feltwell)
「自分達が関わってきたストリートウェアのひとつの時代が終わったのだと思います。ストリートウェアがLOUIS VUITTONになってしまったら、もはや意味を成しません。仲間同士で集まって外部の支援なしに自分達がクールだと思うことをするのがストリートウェアでした。けれど、歴史と権威のあるラグジュアリーブランドに認められた瞬間に、その幕は下りてしまったのです」
クンル・マーティンス
「グラフィティとストリートウェアは自分にとっては同じものです。ストリートウェアはスケートボードから生まれ、グラフィティライターとスケートボーダーは系統が同じだから。そういうアンダーグラウンドな世界は宝の山でした。ストリートウェアを探求できる環境を持ったファッション界は本当に幸運だったと思います」
アティバ・ジェファーソン(Atiba Jefferson:フォトグラファー、スケートボーダー)
「Supremeは永遠のスケートショップですし、HUF(ハフ)は永遠のスケートカンパニーです。ストリートウェアとは何か、私達は知っています。それはストリートの泥臭い場所から生まれるものです。ハイファッションはストリートではないので、ストリートを名乗ることはできません。だからこそ、スケートボードはいつまでもフレッシュでいられるのです。私達はストリートに生きています」
LOUIS VUITTON退社後、キム・ジョーンズはDIOR(ディオール)の指揮を執った。彼が採用した人材の一人に、DIORメンズ部門のジュエリープログラム統率を任されたユン・アン(Yoon Ahn)がいる。彼女にとって、ストリートウェアとラグジュアリーの交わりは、故郷である東京を彷彿とさせるものだった。
ユン・アン(AMBUSHクリエイティブ・ディレクター兼創設者)
「ヨーロッパのファッションの舞台で見るのは楽しいけれど、東京出身の私から見れば新しいものではありませんでした。SupremeとLOUIS VUITTONやDIORのように、ハイとローをミックスするのは元々私達の得意分野だったからです。でも、ランウェイや世界舞台でそれを見るのは新鮮でした。それは消費者が本当に求めていたことであり、ブランド側がただそれに応えていたのだと実感しました」
ニューヨークでは、新たなブランドが台頭し、アメリカンスタイルのコードを見直しつつ、ストリートウェアやJ.Crewブームを経験した新世代が求める、より洗練されたオーダーメイドのアイテムを提案していた。そうした世代を惹きつけたのが、田園の静けさ、着古した生地、東海岸の神話を表現するアトランタ出身のエミリー・アダムス・ボデ・アウジャラ(Emily Adams Bode Aujla)が2016年に設立したBODE(ボーディー)だった。
エミリー・アダムス・ボデ・アウジャ(BODE 創設者)
「2019年秋、友人のトッド・アルデン(Todd Alden)をモデルにコレクションを制作しました。トッドの幼少期の話をたくさん聞き、お互いが『エフェメラ(儚いもの)を集める』との考えに影響を受けて育ったことに気づいたんです。小さなプラスチックのスリーブに1セントコインを集めているトッドの話をもとにデザインしたジャケットは、私がなぜこの仕事をするのか、そして記憶がデザインにおいていかに大切かを体現するものとなりました」
情報過多(2020年-2025年)
小売業の崩壊。ポストコロナ。雰囲気の変化。クワイエット・ラグジュアリー。ブーム、ブーム。不況の兆し。ファッションの最新章は風を捉えるようなもので、まとめるのは容易ではない。スピードと情報は当たり前にあるが、その情報に本当に価値はあるのか? 意味を伴わないテンポに、一体なんの意味があるのか。
最近ではクリエイティブディレクターやデザイナーが漫画のような速さでブランドを転々としている。この5年は2021年のアブローの衝撃的な死など悲劇も多かった。2年後、ファレル・ウィリアムズがLOUIS VUITTONに就任した。LOUIS VUITTONの2024年の広告に出演し飛行機の前に立ったタイラー・ザ・クリエイターの手にはスーツケースが握られていた。伝統が再び顔を覗かせるが、リミックスされたかたちだ。
このストーリーの参加者はほぼ全員が話上手だ。見知らぬ人だらけの場所でもうまく動き回り、共通の興味を通じて繋がり合う術を知っている。才能を見いだし、関係を築く。こうしたスキルを持った人物は2025年の現在、いるだろうか。アンジェロ・バク(Angelo Baque)が「全員スマホを見ていてほかの乗客と目を合わせたり話したりしない」ことが最近のニューヨークの地下鉄で最も嫌なことと語ったが、まさにそれが現状だ。
この5年について話すのは難しい。5年間によって何がもたらされたのかはまだ明確になっていない。しかしある程度の推測はできる。
ルイージ・ビラセノール (Rhuigi Villaseñor:RHUDE創設者、クリエイティブディレクター)
「多くの企業にとって最大の課題は生産だと思います。ビジネスをする限り会計や利益率の管理は必須です。そうでなければ夢物語に終わってしまいます。コアな顧客を離れさせてしまうか、連れ立って羽ばたけるか。RHUDE(ルード)は試行錯誤の段階にあります。音楽界に好きなミュージシャンのファーストアルバムを絶対視するコアなファンがいるように、RHUDEにも、今のRHUDEより初期のRHUDEを大切に思っているファンがいる。だからその元祖のエッセンスをどう掴み取るかを考えなければなりません。それは簡単な道のりではありません」
エミリー・アダムス・ボーディ・アウジュラ(Emily Adams Bode Aujla)
「BODEでは常に歴史と意図性を重視してきましたが、成長には効率も必要で、その両方を支える構造作りに努めてきました。どの作品も、深く研究したストーリー、個人的に共鳴するストーリーから生まれます。だからこそ、そうしたストーリーを同じ熱量で語り続けることが私にとって大切なのです。自分が大事にしていることを軸にビジネスを築くことは可能だと思います。ただ、成長に伴ってプロセスは変えていく必要があります」
アンジェロ・バケ
「若い人の多くは、Tシャツブランドを立ち上げたら1年で大金を稼げると思っているようです。もしそうなれば素晴らしいですが、ほとんどの場合は地道に積み上げていくだけです。Supremeだって、2010年に栄光をつかむまでには20年の努力がありました。もちろん、全員がそうとは限りません。1990年代半ばから後半の成功するまでにせいぜい3回か4回くらいの失敗しかしていないマーク・ジェイコブスのような人もいます。でも世の中には、1回、2回、3回、4回、5回と失敗を繰り返してようやく成功するデザイナーもたくさんいるのです」
ブレンドン・バベンジン(Brendon Babenzien)
「現代人は昔より独立して考えるようになったと言われますが、私はそうは思いません。確かに活動の自由度は広がりましたが、どうあるべきか、どう振る舞うか、何を着るかについて大量の情報を与えられています。多くの人がいろいろなことに挑戦するようになったものの、それが本当に自発的かどうかは疑問です。以前は、興味を引くものを見極めて並べる店のオーナーやバイヤーを信頼していました。だからこそ、聞いたことのないブランドでも、ラックに並んだ服を手に取って触れてみて、『いいな』と思えば買ったものです。今のように情報が溢れて耳に入ってくる時代では、当時のような自立的な選択をしようとしても難しいと思います」
トレマイン・エモリー
「DENIM TEARS(デニムティアーズ)の店舗はうまくいっていますが、ニューヨークでは今もオンラインの売り上げの方が多いのが残念です。せっかくブルックリンに住んでいるなら、電車に乗って店まで来て、スタッフと話したり試着をしたり、ほかの商品も見てみたりしてほしいと思います」
サラ・アンデルマン
「クリスマスに香港でショーをしました。「ラブブ」を手がけたアーティスト、カシン・ローン(Kasing Lung)とも一緒に仕事をしました。今では毎日「ラブブ」を見かけます。本物も偽物も入り乱れています。元々大好きだったので、少し残念に感じます。抹茶も昔好きでしたが、今ではどこにでもあります。だから『もう馬鹿馬鹿しい、抹茶なんて飲めない』と思ってしまいます。自分が昔好きだったものが嫌になってしまうほど、全てがあっという間に広まってしまうのです」
マシュー・ウィリアムズ
「レイモンド・ペティボン(Raymond Pettibon)が描いたブラック・フラッグのチラシに、LAのパンクやハードコアシーンについて『文句があるなら自分でバンドを組んでパーティーを開け』と書かれていました。BEEN TRILLはまさにそういう存在でした。それで自分のブランドを立ち上げました。システムの欠陥に不満を言うのをやめて、コミュニティにとって価値のある優れた製品を作ろうと思いました。誰も実現する様子のないビジネスプランを提示するのではなく、価値の欠如した世界に価値を提供したいのです。デザイナーを変えたり、CEOを解雇したりするのが一番手っ取り早い解決策かもしれませんが、複雑な問題を理解しようと時間と労力をかけるよりも、変化を起こすことの方が簡単だと感じます」
クンル・マーティンス
「昔クールで、今また流行り始めているアイテムをひとつ思い浮かべてみて下さい。それがクールだったのには理由があります。本当に分かっている人にとって、それは独自の存在感を持っていました。だからまた流行ります。誰もが持つようになったからといって心配はいりません。『パンデミックでニューヨークは死んだ』と言う人もいますが、少し時間を置いて見てください。長生きして、古臭くて陳腐な老人になれたら最高だと思います。年を重ねるほど、永遠に最大、最高であり続けることが重要でないと気づくものです。そして、浮き沈みのサイクルを受け入れるようになります。心配はいりません、大丈夫です」
- Words: Ross Scarano
- Translation: Ayaka Kadotani
- With Additional Reporting: Jian Deleon
- Videos: Peter Sidlauskas