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多岐にわたり活動を続け、言わずと知れたイラストレーターの長場雄。白と黒の線で描かれるシンプルながらも特徴を掴んだイラストは、多くのファンの支持を得て、雑誌や広告、音楽、アートなどの様々な場で愛されている。COVID-19のパンデミックの影響もあり、自身の創作活動やライフスタイルも見つめ直す機会になったと言う彼が今、感じていることはなんだろうか?

——既にたくさんお話しされていると思いますが、改めて、今のアーティスト「長場雄」ができ上がった経緯について教えてください。

子供の頃から絵を描くのが好きで、将来は絵描きとしてクリエイティブな仕事につきたいと、ぼんやり思っていま した。美術系の大学に進学した後、アパレル企業のデザイナーとして約6年ほど勤め、そこでTシャツのグラフィックデザインを担当していました。働きながらも自身の創作活動を続けていて、2014年から今のようなスタイルでイラストを描き続けています。

——10歳のときにトルコへ引っ越し、油絵を描くトルコ人の女性アーティストとの出会いもあり、本格的に絵を始めるようになったと聞きました。その時、長場さんにとってのトルコはどういう印象でしたか?

父親の仕事の関係で家族で引っ越すことになったのですが、トルコが初めての外国でした。とにかく埃っぽかっ た印象があります(笑)。排気ガスがモクモクとしていて、男の人はみんな髭を生やしてモッサリとしていて、女の人は黒いスカーフで顔を覆っていました。街ではコーランが流れていて混沌としていました。日本とはまったく違う国に来てしまったんだなと思いました。

僕に絵を教えてくれたトルコ人の先生はアーティストとして活動していたので、普段は人に絵を教えることをしてい ませんでしたが、父親の友人の友人ということで快諾してくれたんだと思います。異国の地に来て精神的に参ってい た僕を見兼ねた親が、早く現地の生活に馴染んでほしいと思い、好きな絵を習わせてくれたのかもしれません。先 生の作風は薄暗い油絵で、とても大きいサイズの人物画を描いていました。自分自身の作風に直接影響を受けて はいませんが、デッサンや模写など基礎の部分を習いました。先生とのコミュニケーションは英語だったのですが、 僕自身まだ英語も習いたてで、辞書を片手にやりとりをしていました。明度や彩度など絵画の専門的な言葉の説明 でしたので、10 歳の僕には辞書に書いてある日本語自体の意味が分からないこともありました(笑)。

——その後も先生とは交流はありましたか?

ずっと連絡をとっていなかったのですが、去年、彼女が日本に来るタイミングがあって、それで久しぶりに会いま した。今、70歳くらいですかね。まだ現役でアーティストをやっています。アイデンティティ問題、フェミニズム、移民をテーマにした作品を作っています。

——トルコという国は、長場さんにとってもキーワードになっていますか?日本に戻ってきてから絵を描き続けることになった のは、そこへ行った影響が大きいですか?

そうですね、トルコでは今の基礎になることをたくさん経験しました。今と違ってインターネットがない時代で、日本の漫画やゲームの文化が完全にシャットアウトされて、向こうの娯楽文化を自分なりに見つけ出さなきゃいけませんでした。トルコはサッカーが日本よりも盛んだったので、近所の子供と一緒にサッカーをしたり、学校はインターナショナルスクールだったので、アメリカの映画や音楽もその時知りました。

絵は先生に習ったことで良くも悪くも描くことが嫌になってしまいました(笑)。習いたての頃は課題を与えられて、 絵を描いていたのですが、後半は自分で題材を見つけて描きなさいと言われました。正直描きたいものなんてないので、とても困りました。描きたいものがなければ、絵を描く意味がないと言われている気がして、日本に戻ってか らもしばらく絵の世界から離れてしまいました。

——長場さんといえば「かえる先生」の印象も強いですが、いつできたものですか?

デザイナーとしてアパレル会社に勤めていた時です。社長から出された課題はひとつ「売れるものを作ってください」でした。そのような考え方で作品を作ったことがなかったので、ものすごくショックでした。反面、とても明確な課題を渡されたので、集中して作品作りをすることもできました。ただ、売れるものだけを追求したときに、自分にしかないものを失っていく感じが怖くなり、プライベートワークとして考え直して出てきたのが「かえる先生」でした。

——会社ではどのように「売れる」作品を作っていた(売れると判断していた)のですか?

色々な手法で作品作りをしていました。写実的な絵だったり、パソコンを使ったグラフィックな作品、写真も撮ったりしていました。世の中にリリースして売れた、売れないなどひとつひとつトライアンドエラーでやっていました。 そのなかで、手描きのキャラクターのウケが良かったので、自分はこういう絵を描く方がいいのかもと思いました。

——自身の作品に関してはどう変わっていきましたか?

「かえる先生」を育てていこうと思っていたのですが、「かえる先生」にいいストーリーを付けることができなくって、とても苦戦しました。このままズルズル引っ張っていても仕方がないので、一度「かえる先生」はお休みさせて、別の作風に取りかかりました。自分の好きな映画、絵画、有名人などをテーマにした線数の少ない作品です。それが今のスタイルです。

——今のような作風に変わったのも、奥さんからの意見もあったと伺いました。

そうですね。2014年1月に中野にある小さなギャラリーで個展をしてほしいと依頼があり、準備をしていました。 個展開催直前に家でこんな作品を発表しようと思うと見せたら、面白くないねってハッキリ言われて(笑)。それで2〜3枚描きためていた今のスタイルの絵を見せたらこっちの方がいいじゃんとなり、急いで作品を作り直しました。 彼女からの意見は変なバイアスがかかっていないので、信頼しています。

——第三者の視点として、長場さんのイラストは万人に受けているという印象です。それに関して、ご本人はどのように受け止めていますか?

自分しか持っていない世界観であったり、フェチズムを100%表現するイラストレーターやアーティストが多いなと思っています。見る側から受け入れられないこともあり、(そのような作風の)好きなアーティストはいるのですが、自分に置き換えたときにそれは違うな、と。もうちょっと普通というか、抑えたものの方がしっくりくるというか。そこまで変人でもないし……。

——アーティストは変人が多いというか、変人になりたがるというか、確固たる自己を突き詰める傾向にあるけれど、長場さんはそうしないことがある種の個性だということですね。

そういうことになりますね。現代アートを勉強していると、この時代はこれが流行ったから、次はこう、と新しいルールがどんどん出来上がっていきます。その中でも、アーティストのドナルド・ジャッドからは影響を受けたと思います。実際に自分で製作せず、外注して工業製品のようなものを作っているんです。それまでは、いかに個性を出すかがアートと思っていたことが、消すこともアートになりうるんだと。そのような考え方に共感して、今でもずっと影響を受けています。

——コロナのパンデミックで気づかされたこと、変わったことなどはありますか?

決まっていた仕事が延期になったり、中止になったりして、仕事のペースがゆっくりになりました。時間に余裕はできたのですが、どこにも行けないので、家族だけの時間が増えました。2歳になる息子がいるのですが、この子の成長のことや家族の方向性をよく話すようになりました。

——「見直すべきだった」ことはありますか?

心配性なので、できる限り仕事を受けていたのですが、もう少しペースダウンしてもいいかなと思っています。お金はもちろん生きていくうえで大切ですが、優先的に頑張らなくてもいいのかなと。お金を稼ぐことにずっと疑問を感じていたのですが、その「稼ぐこと」に変わる目標が自分の中に明確になかったんです。

コロナ禍で何が自分にとって幸せなのかを考えるようになりました。人と会って話したり、家族や仲間が自分の人生において必要なんだなと思いました。お金ではない、こういう価値観は大切にした方がいいし、自分の作る作品にも反映されてくるので、コロナをきっかけに見直すことができて良かったと思っています。まずは受け入れて、色々やってみて自分を成長させる時期から、時間を使って試行錯誤する自分を育てていこうかなと思っています。

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