life
Life beyond style

パンクからニューロマンティク、ヒップホップなどの近代の音楽史とともに歩みを進めた当時のファッション・カルチャーはこの人の歩幅に合わせていたかのようだった。80年代、ファッション誌の金字塔である『THEFACE』や『i-D』、そしてマドンナ(Madonna)やビョーク(Bjork)などのアーティストを媒介しながらジュディ・ブレイム(Judy Blame)のクリエイションは海を超えて世界中を共鳴させた。問題だらけの社会にステートメントを発し、道端のガラクタさえまばゆいアートピースに昇華させてしまう、規格外の心優しい天才。「DIOR(ディオール)」ウィンター2020メンズコレクションでオマージュを捧げられた表現者ジュディ・ブレイム。そのクリエイティビティの本質を探るべく、財団に質問を投げかけた。

——様々な分野でその才能を発揮してきたブレイム氏。制作に対する深い情熱は作品からもうかがい知ることができます。まずどのような姿勢でクリエーションに向かっていたのでしょう?

ジュディは常に直感で仕事をしていました。独学ゆえにその過程はユニークで、すべてが必然に導かれているようでした。しかし、人知れず血のにじむような努力をしていることは、現場に到着したルックを見れば一目瞭然でした。彼の作品には「特別なレシピ」はありません。アイデアをつなぎ、素晴らしいものにしただけ。ただ、生まれ持った審美眼と独特な感性が、歴史と現代、トライバルとハイファッションなどの一見矛盾するものを掛け合わせさせ、革新的なものを生み出していたんです。

具体的な手法のひとつとして選んでいたのが「アイデアブック」の制作です。画像やスケッチのアイデアをコラージュしたもので、時折、注釈だらけのスケッチを描いていました。しかし、多くはアイデアが輝く確かな瞬間まで、彼の頭の引き出しにとどめていることがほとんどでした。

ジュディの知識は多岐にわたっており、様々な分野でその才能を発揮していましたが、これはとても珍しいこと。スタイリング、アートディレクション、グラフィック、デザインのどれをとっても限界値を超えていて、関わる人全てのベストな能力を引き出していました。

——幼い頃から母親の化粧や装いに意見していたというブレイム氏のエピソードから先天的な才能が伺えます。現在でも力強い作品たちはいかなる手法で作り出されていたのでしょう?

ジュエリー制作の際は、ある物体やアイデアからスタートし、徐々に周りを構築していきました。おもちゃの兵隊でも、コルクでも、潰れたコーラの缶であろうとも、その物体のある種それが持つ特別な美しさを指し示すかのように、その枠組みを高めるのが彼のスタイル。「拾ったゴミを今まで見たことのない最も品のあるものに仕上げるんだ」という風にね。

「色」も重要な要素のひとつと言っても過言ではないでしょう。ありとあらゆる素材をかき集め、色分けされたボックスに保管をしていました。アクセサリーを作る時に、色は物体や素材を選ぶときのカギとなります。

(パンクな)心意気と真正さはジュディにとって欠かせないものでした。様々な文脈を持つ素材を組み合わせ、不協和音と相違するものの並置のバランスを見極めることで、アイデアとモチーフの複雑なレイヤーを構築していくんです。

——彼は若い頃スペインで教育を受けており、学びを積み重ねた聡明さを基盤にするも、不本意にもイギリスに戻った。この時に感じたある種の失脚感・喪失感が、クリエイティブやパンクミュージックに向かわせたようです。

音楽はジュディにとって重要な触媒でした。スペインからイギリスの田舎町、デヴォンへの移住はトラウマティックな出来事であり、「パンク」という形でファッション界に衝撃をもたらす反逆の発端であったことは間違いないでしょうね。音楽としてはもちろん、社会に対する姿勢や聖像破壊主義的なムードそのものが彼を駆り立てていました。彼は、常に既存の視覚表現を覆し続けたんです。それゆえ、服飾史において伝統の象徴ともいえるパールやツイード、ボーラーハットに別の価値観を与え続けることに躍起になっていたんですね。

——当時、パンク・カルチャーの渦中に身を置くことは大変なことだったのではないでしょうか。

当時のイングランドは非常に保守的で、ただ身なりが違うだけで唾をかけられたり、暴行をされる時代でした。ジュディはジュディであり続けることで、わざと周りをイラつかせていましたね。常に挑発的な態度で周りを巻き込み、ある時はエルヴィス・プレスリーが亡くなった日に「HAHAHA(ハハハ)」と書いた特大バッジを作ったんです。気分を害したテディボーイから集団リンチに遭ったときは、心臓が止まるほど驚きました。

ジュディに言わせれば、既成の秩序へのアンタゴニズム(敵対)と挑発こそがパンク。

「パンクはヒッピー運動や過去に興味はない。全てを破壊しやり直す。衝突こそがパンクだ」ージュディ・ブレイム

——マンチェスターのレゲエクラブで、ダブやレゲエ文化と出合い幅広い交流が生まれたとか。パンクとレゲエが混ざり合い、異人種が交流する場となっていた当時の状況を聞かせてください。

「パンクス」は、その身なりからほとんどのクラブで敬遠されていましたが、それが許されるいくつかのうちのひとつがレゲエシーンにありました。当時の社会の主流から取り残されているパンクやレゲエのようなカルチャーは結束を強め、互いに影響されましたね。(イギリスのパンクロックバンド)「TheClash(ザ・クラッシュ)」や「TheSlits(ザ・スリッツ)」の音楽性がクロスオーバーしたことからも伺えます。彼らはメインストリームから外れたアウトサイダーであり、一般人からは見下され、暴力や暴言の対象となっていました。ジュディのレゲエ愛とブラックカルチャーとの密接な関係は、その当時に育まれました。その後の人生では、黒人アーティストやミュージシャンのプロモーターとして精を尽くしました。

——勤めていたクラブのクロークで財布とコートを盗んだのは有名な話ですが、その後お咎めなしだったのですか?どのように切り抜けたのでしょう?

その話の真相は、スカーレット(・キャノン、親友)によると、わざとハンガーを間違えて、「こっちのコートの方がオシャレに見える」とふざけてコーディネートしていたらしいんです。必然的にコートは間違ったハンガーに、夜が明ける頃にはカオスに。これが悪名高き「BlameJudy!(ジュディのせいだ!)」の物語。コートは決して盗んだことはなかったけれど、とんだ問題児ですよね!一回だけ盗んだことがあるのは、ナイトクラブ「HEAVEN」の経営者と言い争った後のこと。クロークをほっぽり出して、パーティーに繰り出しました。二度と見ることはなくなった、彼のコートチェック「ガール」としてのキャリアは幕を閉じました。

——パンクからニューロマンティック、ヒップホップなどの創世記に発信を続けることで、クリエイティブな人々との出会いも多く活動の幅を広げました。

規格外の人格とスタイルセンスで、ジュディは1980年代ロンドンのクラブシーンで知らないものはいませんでした。ジュディと出会った多くは、文化的にも強い影響力を持つ人物になっていきました。デレク・ジャーマンは、ジョン・メイブリーやケリス・ウィン・エヴァンス、ボーイ・ジョージ、マリリン(・マンソン)などを繋げた人物。ロンドンのアートシーンにジュディを引き込んだのもデレクです。そんな彼ですが、美術展覧会で無料のカナッペとアルコールのみで生活していたこともあったとか。

アンソニー・プライスは、「正式な」ファッションショーで初めてジュエリー制作を依頼し、クチュールやハイファッションの世界を見せた人物です。彼を通じて、リー・バウリーやジョン・ガリアーノ、スティーブン・ジョーンズ、マイケル・クラークとも友人となりました。スザンヌ・バーチは、ジュディの初期のジュエリーをニューヨークで販売した重要人物。結果、ジュディはニューヨークへと向かい、ラップやヒップホップカルチャーの根源に触れることに。なぜならそれらに、パンクが持つエネルギーや社会的姿勢、主流のカルチャーへの反抗表明に似たものを感じたからです。ニューロマンティックがファッションや自己表現の理解への足がかりとなる頃、ヒップホップカルチャーが持つ痛みと活力はジュディに大きな影響を与えました。

——彼の政治的オピニオンはどのようなことだったのでしょう?

ジュディの政治に対するオピニオンは揺るぎないものでした。そして彼のクリエイティブ活動は、自己の見解を模索試行するためのものでした。アンダーグラウンドの才能のサポートや人種平等、さらに環境問題への傾倒は、全て彼のパンク活動から派生したものに過ぎないのです。

——もし彼が今存在していたら、現在の政治に対してどのような発言をするでしょう?

特に人種差別や環境問題に対する意見に関しては、首尾一貫していました。キャスティングや作品の擁護、ジュエリーのリユースやリサイクル、反ファシズムや環境汚染などの問題のエディトリアルでの表現に至るまで、関わるもの全てに考えをぶつけていましたから。

——多くの著名人のスタイリングでは、個性を見出し魅力を引き出すことに非常に長けていました。この本質は彼のどのような性質から導き出されたと考えられますか?

ジュディのスタイリングは全体像へのアプローチでした。はじまりはいつも「人柄」から。彼の作り出すルックは実直かつ真摯で、説得力に満ちたものでした。ジュディにとっては誠実さが全てで、正しいムードやアティチュードを捉えるためには、服は二の次。だからこそ彼の作り出したイメージは今も強く語りかけるのでしょう。さらに、キャスティングも彼にとって非常に重要なパートでした。人間の多様性を詳細に追求し、全体像を作り上げていました。ネナ・チェリーにしても、ビョークにしてもそれは同じ。

ジュディは気前の良いコラボレーターであり、人を繋ぐコネクターでもありました。ヴィジョンを具体化するために多分野にわたるスキルを惜しみなく活用し、同じ考えを持つ同士を集めて、然るべきタイミングでアイデアを形にできる人でした。

——2016年にICAで行われたエキシビション「NeverAgain」の収益金を全て寄付するなど社会貢献にも積極的でした。

多くの友人を亡くしたエイズ危機に端を発して、反人種差別、環境公正、セーフセックス、薬物教育などの認知拡大へ邁進していました。子供が好きだったジュディは、名付け子に対しても責任感を強く持っており、パディントンにあるセント・メアリー病院の小児科への募金を募り、2人の名付け子の治療費に充てていたほど。とても思いやりのある人で、常に弱者を擁護していました。

ジュディ・ブレイム財団は、ジュディの一生涯の作品を保管するため、そして若い才能を教育サポートし続けた彼の歩みを途絶えさせないために設立されました。地球やお互いを思いやれる世界を願うジュディのために。

彼の単なるルーツに過ぎないファッションやアートが、より良い世界へのきっかけになることを祈っています。