淘汰されゆく写真。写真の意義を「Taka Ishii Gallery」石井孝之に問う
- By HighsnobietyJapan in style
- 2025年4月28日

——石井(孝之)さんは、ファインアートを勉強されて、アーティストを経験されて、ギャラリストになられたと伺いました。ギャラリストに転向された時はどのような夢や野心、目的があったのでしょう? アートシーンへの貢献なのか、自分のため、社会のためだったのでしょうか?
当時なので、社会のためとか一切考えていなかったんですが、今思えば社会のためになったのかもしれないですね。1980年代当時はバブルで、第二次絵画ブームと言われていました。第一次は60年代かな。凄い勢いで売れていたので、学生の頃に作品を買って、梱包して送るアルバイトをしていました。いろんな作品が目の前に来て、送る前の数日はうちにあって、壁にかけて、楽しんでいました。そうするうちに、なんとなく面白くなってきて。ピカソの「貧しき食事」のプリントが額装されていない状態で、目の前にあるんですよ。そんな経験ってなかなかないじゃないですか。ギャラリーの仕事は面白いのかもしれないと思って始めたのがきっかけです。
その頃はギャラリストという発想はあまりなくて、アーティストとして生きていくのに必死でした。でも、そうやっていくうちに面白くなってきて、本業化しました。ギャラリストではなくて、コンサルタントのようなアートディーラーです。
——アートディーラーはロサンゼルスでどれくらいやられていたんですか?
1990年代半ばまでやっていました。それで、1991年に一度日本に帰ってきました。
——野村佐紀子(以降、野村):何がきっかけで帰ってきたのですか?
家庭の事情です。その後、ビザの関係で戻るのが難しかったので日本で腰を据えてやろうと。ギャラリーには一切勤めていないので、ノウハウが分からず、もう、本当になんとなく、手探り。
——野村:その頃東京にはどんなギャラリーがあったのですか?
その頃は佐谷画廊とか、デイヴィッド・ホックニー展をやっていた西村画廊とかかな。東京画廊も。南天子画廊もあったりとか。本当に昔の画廊という感じですね。現代美術だけのギャラリーは本当に少なかったです。競争相手はいないけど、マーケットがなく、お客さんもいない……。
——どういう風に市場を耕していったんでしょうか?
多少(お客さん)はいましたが、海外に日本の作家を売るしかなかったです。あと、バブルの頃に買って眠っている作品が日本に結構あって、最初はそれを海外に売っていました。その後、1994年にギャラリーを大塚の実家にオープンしました。
——土地柄的には、文化的に盛り上がっていましたか?
池袋が隣の駅で西武の美術館がありました。アール・ヴィヴァンというギャラリーがあったり、文化的なことは少しはありましたね。あと、池袋には芸術村があって、シアターもありますよね。大塚も今は少なくなりましたが、アンダーグラウンドのシアターがたくさんあったんです。花街なのでお茶屋さんや割烹料理屋もありました。江戸料理研究家がやっている料亭があって、その方々にうちのギャラリーに来てもらったり、仲良くしてもらっていました。フグの時期に政治家達が車で来て、乗り付けていたところもあります。昔は結構楽しかったですね。
——それから、六本木の方に?
それから新川の紙の倉庫だったところを借りて、ギャラリーコンプレックスにしました。小山登美夫ギャラリーは元々一緒でしたが、シュウゴアーツと、杉本博司さんが所属されているギャラリー小柳の4社で借りました。
——野村:覚えてる。すごく遠かった記憶があります。
何年やったかは覚えていないんですが、3、4年とか。その後、清澄白河に移りました。そこも巨大な庫でギャラリーが7社くらい入りました。
——ギャラリーが集まるのは昔からですか?
その頃は、相乗効果で集まった方がいいんじゃないかということで、自然とみんなで集まりました。ここは森ビルさんに相談して、駐車場だったところを10年の期間限定で。あと2年です。でも、この辺りは再開発がかかるのですが、今年は六本木5丁目です。こっちは6丁目なんでまだちょっと残っています。今景気が良くなってきていて、インバウンドも凄いので、(開発も)早まると思います。なので、先日京橋にもギャラリーをオープンしました。この辺はなくなっていきます。
——野村:えぇ。景色が全然変わっちゃう。
ここと麻布台が地下でつながるんですよ。
——野村:迷子になりますね、絶対。六本木変わるんですね。
京橋は3、4社くらい。ピラミデビルも5、6社入っていますが、そこも出て、一緒になったら面白いと思うんですよね。
——特に、清澄白河や六本木、京橋に行ったりとか、文化的な土地を選んでいるのではないんでしょうか?
ご縁があって進んだところに。そうすると人が来るし、相乗効果でいろんな文化も生まれます。デザインもレストランも、若い人達が集まってきて。
——地方活性化にも良さそうですね。
福岡は特にそういう感じですね。この前福岡に行きましたが、凄かったですね。
——野村:福岡はいいものありましたか?
レストランが増えていました。美術館も内容が面白いですね。この前福岡市美術館で「キース・へリング展」をやっていたんですよ。ロケーションもいい。
——ギャラリーに戻りますが、30年やられて、何か心境の変化はありましたか?
30年経っても、心境の変化は特にないですね。アーティストをプロモーションすることには変わりなく、最終目標としては、「アーティストを美術史に載せる」。そこまでできたらいいなと思っています。自分の名前は残らないですが、アーティストの名前が残るので。みんなそうだと思います。お金のためにやっている人はあまりいないかもしれないですね。儲かる仕事は他にもっとあるので。
美術史なのでかなり大変だと思うんですけど、残るのは数人だから。でも、やっぱり村上(隆)とか奈良(美智)さんと並ぶ人、荒木(経惟)さん、森山大道さんはもう残っていますよ。だから、それ以降ですよね。どうなるかって感じですね。

——資本主義とのバランスはどのように考えていますか?
アートは別になくてもいいもの。それにどう価値を見いだすかとなると、どうしてもお金は絡んできます。王様が絵を描かせてきたように歴史が物語っています。そういう人達を相手にしないといけません。そこからお金をいただいて、作家に還元するというサイクルです。
——30年前と比べて購入者の裾野が広がっていると感じますか?
ここ10年でガラッと変わりましたね。若いIT系の人達が買い出しました。その前は、金融とか不動産、医者、弁護士など。
——それは、アートシーン、もしくはアーティストにとっていいことですか?
いいことなんじゃないですかね。もちろん裾野が広がることもいいことだし、ちゃんと食べられるようになってきました。
——ギャラリストになられたきっかけのひとつとして、ラリー・クラーク(Larry Clark)の写真に魅了されたというエピソードがありました。ストレートフォトグラフィーについて先ほど野村さんと議論していたのですが、どこまでがストレートフォトグラフィーになるのかが少しあやふやでした。
——野村:言葉のことですからね。
難しいですよね。コンセプチュアルフォトグラフィーも実はストレートフォトグラフィーだったりします。それに基づいて言葉づけしていって、アートの中で作品化する人もいたりとか。でも、見た目はストレートな写真なんです。だから、結構大きくなってきていて、ストレートフォトグラフィーという言葉だけでは説明できなくなってきています。写真という言葉もおかしいですもんね。真実を写すというか、「真実ってどこ?」みたいな。だから、ストレートフォトグラフィーは一言で言えるジャンルではない。「真実を写す」写真はないです。テクニックでしかない。筆と一緒。
——今回、写真の意義は今どこにあるのかをアートの視点で伺いたかったんです。ストレートフォトグラフィーという言葉も、もうなくなりつつあると、これから何を写していけばいいのでしょうか。
面白い動きだなと思っていて。写真家はもういないというか。コマーシャルで写真を撮っている人もいますが、その人達は多分いなくなると思います。機材も良くなってきているから、コマーシャルな写真は機械が撮れるようになります。
——AIで作れてしまう。
とかね。なので、芸術寄りの写真は残ると思います。でも、そのスナップで撮っている人達はそのまま残っていくと思います。それはペインティングと一緒。またコンセプチュアルフォトグラフィーというジャンルがあって、それは別にうまくなくても、概念があれば成立する。それが写真です。言葉で作る写真、作品。言葉が重要になってきます。
——ファッション写真に関してはいかがでしょう? 基本的にグラフィックのみで捉えている印象なので、なかなか言語化が難しいというか。
それは言語化する必要はないと思います。見た目そのままで勝負すればいい。だってその写真自体、作品じゃないから。作品だと言う人もいるでしょうけど、その場合、写真、作品だというコンセプトが必要になってきます。面白いのは、荒木さんも、ファッションを撮っていますよね。荒木さんのコンセプトがあるから、それが芸術作品になる。そういう特殊な人もいます。荒木さんや、ホンマタカシさん、森山さんもそうかもしれない。両方器用にできる人。










——野村さんと初めてCELINEの企画を撮った時に、ばっちりはまりました。野村さんだと、物語を作りやすいというか。
そうですよね。日本は割と両方できる人がいる方なんだけど、なかなかいないですよね。荒木さん達のおかげです。東松(照明)さんも。欧米ではすごく少ないです。
——野村:昔は特にいなかったですよね。昔はどっちかという感じじゃなかったですか? だから、広告やるな、みたいな流れが、1990年代はそういう雰囲気がありました。頼まれたものは撮るな、ってよく言われていましたよね。
昔はね。でも、なかなかやらない。

——ヌードというテーマはどのように捉えていますか?
ヌードは昔からのテーマだと思いますが、それをずっとやり続けている人はやっぱり少ないです。普通違うことやりたくなりますもんね。いくら対象が変わったとしても。
——野村:ならないかもしれない。なる? みんな、なるんですか? 飽きるってこと?
多分ね。後、どうしたらいいかみんな迷うんですよね。今流行りのものにいったりとか、シフトしていくじゃない?
——野村:多分、私周りを全く見ないからだと思う。
葛藤があるんですよ、普通。
——野村:それは全くないかも。
やっぱりそれをずっと続けていくと、自然と芸術化されるんですよ。自分がそう思っていなくても、そうなっていく現象があるんですよね。

——それは本心から出てくる欲望のようなものですよね?
そういうことです。写真になっている。自分がね。
——野村:私は18歳で男性ヌードを撮ってみたらと先輩から言われて始めて40年も経って……。そのまま続いているだけなんですよね。
それが凄いよね。河原温さんの「デイト・ペインティング」という作品は1966年から死ぬまでやっているわけですよ。葛藤があったと思うんですよね。
——野村:葛藤ありましたかね?
絶対あったと思いますよ。1960年代とか1970年代って。
——野村:そっか。そういう作品なのですね。
アブストラクトペインティングとかやりたくなると思います。でも、それをしないで真っ直ぐにそれだけやっている。そして認められていく。ポンピドゥー・センターではなくて、グッゲンハイム美術館みたいなところで個展やったりとか。
——野村:羨ましい。
何十年とやっていると、自然とそうなります。
——野村:でも、そういうことじゃないかも。写真って相手がいれば撮ればいいからっていうのが圧倒的に違うかも。迷わなくていいのかも。
そうだけど、写真でもちょっと抽象化してみようとかなってくるじゃない?
——野村:本当?
なる人も結構多いと思う。
——同じことを続けると凄みが出てくるところで言うと、例えば雑誌は新しいものを提供していく趣旨があると思います。同じことを毎号毎号やっていても、面白いものが出来上がりそうですが。
雑誌はまた別で、新しいことをやった方がいいかもしれないです。ちゃんと筋が通っているものだったら同じものでもいいですが、雑誌は新しさが必要です。雑誌ってそういうものだから。
——野村:挑戦。壊していく。
——今雑誌が売れなくなってきているのは10年前くらいからそうだと思うのですが、その辺に関して、アート視点、ギャラリスト視点のアドバイス的なことはありますか? 今はもう既に出来上がっている人を出すのが割と潮流になっています。どこの雑誌も、「あの人が今人気だから」とか。
そうなりがちですよね。うちは全然売れなくてもいいので、考えていないです。だから挑戦できます。広告も入っていないし、規制もない。好きなことができます。
——そういう意味では、雑誌は広告ビジネスが主になっていることが多いです。
1社でも2社でも、スポンサーがいればいい。だって、ITの人達からすると大した額じゃないですよ。一人とか二人だけの出資だけで、広告取らなくても、ニッチにやっていけると思います。
——そっちの方が文化的に残るものが作れますよね。
と思いますけどね。表現も言葉も自由にできるからね。うちの『FUN PALACE』を見てもらったら面白いと思います。文章も面白いんですが、インタビューがないものもすごく面白いです。
——どういう経緯で立ち上がりましたか?
印刷が好きで、写真集、作品集をガンガン作っていたので、雑誌を作った方が面白いということで始めました。自分達の宣伝にもなるし、ずっと残っていくじゃないですか。それが積み重なれば力になると思いました。
インタビューの続き、全文はHIGHSNOBIETY JAPAN ISSUE14に掲載。

【書誌情報】
タイトル:HIGHSNOBIETY JAPAN ISSUE14:SAKIKO NOMURA
発売日:2025年2月28日(金)
定価:1,650円(税込)
仕様:A4変型
※表紙・裏表紙以外の内容は同様になります。
◼︎取り扱い書店
全国書店、ネット書店、電子書店
※一部取り扱いのない店舗もございます。予めご了承ください。
※在庫の有無は、直接店舗までお問い合わせをお願いします。
購入サイト:Amazon、タワーレコードオンライン、HMV & BOOKS online、セブンネットショッピング
- PHOTOGRAPHY: SAKIKO NOMURA
- HAIR: MIHO EMORI
- INTERVIEW: SAKIKO NOMURA, YUKI UENAKA
