style
Where the runway meets the street

最高のデザイナーは服だけを作るのではない。質感やアイデアで独自の言語全体をつくっている。壮大に聞こえるかもしれないが、理解し始めると無視できなくなる概念だ。そして、まさにそれを体現するデザイナーこそ、ウォルター・ヴァン・ベイレンドンク(Walter Van Beirendonck)である。ラインダンスを踊るカウボーイやラインストーンのボディスーツ、宇宙人のパクパク君などをファッションショーに登場させるといったパンクな演出で独自の世界を成した彼は、ベルギーファッションを世界レベルに押し上げた著名デザイナー陣「アントワープの6人」のうちの一人である。しかし、彼の名は同胞のアン・ドゥムルメステール(Ann Demeulemeester)やドリス・ヴァン・ノッテン(Dries Van Noten)ほど知られていないかもしれない。また、同じベルギー出身のクリス・ヴァン・アッシュ(Kris Van Assche)やラフ・シモンズ(Raf Simons)(いずれも元DIORのクリエイティブディレクター)のように唸るほどの大金を成したわけでもない。

ヴァン・ベイレンドンクは、LVMHやケリングのような大手ラグジュアリー企業のエリートとして君臨する存在ではないが、その突飛なまでにシュールな感性、そして実験的サブレーベルW.&L.T.(ウォルト:Wild and Lethal Trash、または頭文字を取って “Walt” と読まれる)で発信した予見的抗議スローガン “KISS THE FUTURE! FUCK THE PAST!(未来に口付けしろ! 過去は壊せ!)” は、ジェレミー・スコット(Jeremy Scott)、ヴァージル・アブロー(Virgil Abloh)、クレイグ・グリーン(Craig Green:元インターン)、グレン・マーティンス(Glenn Martens:元教え子)、デムナ・ヴァザリア(Demna Gvasalia:元教え子および元従業員)といったデザイナーらを(彼ら自身が実際そうだとは認めないとしても)感化し続けてきた。ラフ・シモンズの大成功も、もとを辿ればかつてインターンだった彼を家具デザインの世界からファッションへと導いたヴァン・ベイレンドンクに帰着する。

「自分が歳を取ってもコミュニティが老いていないことはとても誇らしい」と、12月のある寒い日の午後、67歳のデザイナー、ヴァン・ベイレンドンクは、アントワープのスタジオから挑戦的に語った。質問に答えながらも回り道をしたり、別の話題に飛んだり、遮られるまで意気揚々と話し続ける。「自分の服に興味を持つのはいつも若者だった。それは今でも変わらない。それが原動力になる。どんな世の中であっても、良いもの、何か違うものを作りたい、誰かに何か意味のあるものを届けたいという意欲が湧いてくる。その気持ちが今はこれまで以上に強い」

ヴァン・ベイレンドンクは80年代、山本耀司、三宅一生、そして後に友人、仕事仲間となる川久保玲に代表される、モノクロームで落ち着いた日本のアヴァンギャルドとは対照的な、色鮮やかでサドマゾヒスティックなスタイルで登場した。空気で膨らませるハルクの筋肉ジャケット、ラテックスのフェティッシュマスク、アフリカのボゾ民族のデザインをモチーフにしたヘッドギアは、それまで糊の効いたシャツのようなものばかりだったファッションの世界を切り裂くように刺激を与え続けてきた。ファッション業界がデザイナーの椅子取りゲームのような状況にある中で、アナーキーで遊び心のあるヴァン・ベイレンドンクの服は、セーフセックス、権威主義、資本主義のメッセージの強力な発信手段であり続けている。

インタビュー当日、ヴァン・ベイレンドンクはトレードマークのナックルダスターを着けていた。重そうなその指輪から解放されているのは中指と親指のみ。黒いジップアップパーカーの前面には厚い赤のフェルトで “Otherworldly(異世界的)” と書かれており、“w” の文字だけがほかの文字の2倍の大きさになっている。その上には巨大な虹の周りを空飛ぶ円盤で旋回する宇宙人達が描かれている。インタビュー中、彼は新作コレクション向けに制作中だという新地球外生命体のプリントを、カメラに不器用に掲げ、見せてくれた。

ヴァン・ベイレンドンクは、同胞最後のストーリーテラーだ。マルタン・マルジェラ(Martin Margiela)は2008年にファッション界を去り、アートの世界へと転身した。アン・ドゥムルメステール(Ann Demeulemeester)も現在は主にホームウェアのデザインを手がけている。ヴァン・ノッテンは2024年に自身のレーベルを離れ「これまで時間が取れなかった」ことに集中するようになった。アントワープの6人のデザイナーの中で、唯一現在も自身のレーベルで精力的にデザインを続けているヴァン・ベイレンドンクだが、自身の代表作の再利用や焼き直しは決してせず、常に衝撃と刺激を与えるコレクションを発表し続けている。袖口に等間隔のステッチが入ったクレーターボンバージャケット、ビッグフットのモコモコとしたニット、バロック調のギムプマスクなどの最近の作品はショーの観客を魅了し言葉を失わせた(2024年秋冬コレクションの観客は「絶賛した」と批評家のルーク・リーチ(Luke Leitch)は報じている)。疲れ知らずのアウトプットは、ミウッチャ・プラダ(Miuccia Prada)やドナテラ・ヴェルサーチェ(Donatella Versace)に匹敵するだろう。批判、嫌悪を乗り越え、狂気じみた夢の深みに分け入ってショーを見せ、デザインの力を次世代のデザイナーに教え続けるウォルター・ヴァン・ベイレンドンク。なぜそれほどのことができるのだろうか?

その答えは原点に回帰することで見えてくる。ヴァン・ベイレンドンクはアントワープの6人のほかのメンバーと同じく、極めて狭き門であるアントワープ王立芸術アカデミーに通っていた。「(マルタン・マルジェラと自分は)全く同じ課題を与えられた。毎週の課題は一種の儀式のようだった」と、ヴァン・ベイレンドンクは説明した。何をどうすべきかの指示はなく、ただ「やり直し」とひたすら言われ続けたと、やはり、卒業生で現在DIESEL(ディーゼル)のトップであるグレン・マーティンスも語る。まずは白のコットン素材の使用しか認められない。そして毎週何かひとつ歴史的絵画やデッサンを選び、それを着想源に現代的デザインを考えるという課題に繰り返し取り組む。

2019年のドキュメンタリー映画『マルジェラが語る “マルタン・マルジェラ”』の中で、マルジェラは、キッチンにある材料だけで衣服を制作する課題を出されたことを振り返っている(マルジェラはキッチンタオルでスモックを制作した)。同じ課題について、ヴァン・ベイレンドンクは「生地店で材料を買うのではなく家にあるものを再利用するように言われた」と振り返ったが、具体的に何を制作したかを思い起こすにはしばらく時間を要した。何しろ50年近く前の話だ。「チェック柄のタオルとプラスチックを組み合わせた」という。伝統的な生地と高性能なハイテク素材の組み合わせは、今でこそ普通と思われるかもしれないが、当時としては型破りだった。そんなテキスタイルの取り入れ方を若い学生であったヴァン・ベイレンドンクに促したのも、まさにこの教育方法だったというわけだ。彼はこの姿勢を現在も貫いている。2024年春夏のAIに着想を得たエイリアンのアルファベットプリントやパッド入りダミースーツなどがその例だ。

6人が王立アカデミーを卒業した1980~1981年当時、アントワープはデザイナーよりもまだダイヤモンドで有名な時代だった。「最初の5年から7年の間はインパクトのあるものを作ることができた」とヴァン・ベイレンドンクは語る。世界がベルギーの “Twerps(アントワープの6人)” に注目し、男性の胸にフィットするようにサイズを変更した刺繍入りのベビー用ハーネスやキングコングのセーターなど、彼の洋服は毎年世界の新たなバイヤーを魅了した。「当時は今で言うところのストリートウェアが生まれつつあった頃。その時代にバイカーウェア、安全装備、エレガントな仕立ての要素を組み合わせ、若者向けのカラフルな製品を作った」

パリでの有給インターンシップの機会を逃したヴァン・ベイレンドンクはアントワープに戻り、自身の名を冠したブランドを立ち上げた。資金繰りのためにベルギー版BURBERRY(バーバリー)とも言うべきBARTSONS(バートソンズ)にも勤め、そこでテーラリングの技術を磨いた。1985年にはしぶしぶ母校で教鞭を執ることになった。当初は不安で断ろうとさえした話だった。「仕事を3つかけ持ちしていた上に教壇にまで立つことになったから」と彼は言う。自身のブランドとBARTSONSでの仕事のほかに抱えていた3つ目の仕事とは、GIANFRANCO FERRÉ(ジャンフランコ・フェレ)向けのスポーツウェアライン、Rhinosaurus Rexのことだ。「3シーズンか4シーズン続けた。(ジャンフランコ・)フェレ(Gianfranco Ferre)との仕事はとても楽しかった。知らないことをいろいろと教えてもらった。スポーツウェアやストリートウェア、バギーパンツなど、当時としてはとても新しいものを紹介してくれた」

自身のレーベルでは、テクニカルファブリックとテーラリングを融合させる技術を駆使し、あたためていたコンセプトをニットウェアやラテックスに変身させた。1986年、ロンドンで開催されたブリティッシュ・デザイナー・ショーに、アカデミー卒の仲間と共にバスで商品を運んだのは、ファッションの中心地のパリやミラノよりもロンドンのショーの方が新参者に開かれていると感じたから。コレクションを発表し、バーニーズ・ニューヨークからまとまった注文を受けるようになると、彼らは「アントワープの6人」と呼ばれるようになった。

ヴァン・ベイレンドンクのコレクションは、当時の『WWD』誌に「『原始家族フリントストーン』とアフリカのボディペインティングの要素を取り入れてジュール・ヴェルヌ(Jules Verne)の小説をかけ合わせたよう」と書かれた通り、際立っていた。ロンドンでの初のショー以来、奇抜なテーマと破壊的なテーマを融合させた挑発的なデザインで着実に認知度を高めた。「アントワープの6人」の台頭と初期の大胆なコレクションが追い風となり、若い世代を中心に彼の大胆な美学に興味を抱く熱狂的なファンが生まれた。知名度が向上すると、彼はサブレーベルを立ち上げた。

1993年初頭に誕生したヴァン・ベイレンドンクのW.&L.T.は、リー・バウリー(Leigh Bowery)風ラテックス製ボディスーツ同様のスピードで高価ニットウェアラインを上回るほどの人気を博した。低価格とグラフィックを前面に押し出したデザインは、(少なくともヨーロッパでは)『MTV』世代に特に人気を博した。彼のショーは、それまでほかのランウェイでは見たことのないようなSF、未来的雰囲気を醸し出す一大スペクタクルであった。

ヴィヴィアン・ウエストウッド(Vivienne Westwood)が “Tits(両乳首)” Tシャツで観客を挑発したり、ジャンポール・ゴルチエ(Jean Paul Gaultier)が “コーン(円錐形)” ブラで物議を醸していた頃、ヴァン・ベイレンドンクはよりいたずらっ気のあるセックス表現をした。1995年春夏コレクション “Killer/Astral Travel/4D-Hi-D” では、ロンドンのゲイ・コミュニティの40人が、同じ衣装のミニチュア版をまとった子供達と手を繋いでキャットウォークに登場するという演出により、小児性愛を容認していると批評家達から非難を浴びた。また1995年秋冬コレクション “Paradise Pleasure Productions” では、全身ラテックス姿のモデル達でセーフセックスをアピール。その全てを買い取り、W.&L.T.への融資、ヴァン・ベイレンドンクへのクリエイティブ全権付与を行ったのが、ドイツのジーンズ企業MUSTANGだった。

MUSTANGとヴァン・ベイレンドンクはしばらくの間、繁栄を謳歌した。最盛期、W.&L.T.は500以上の小売店舗で販売され、日本にも進出した。日本では、彼のブランドの奇抜なスタイルが最も熱狂的に受け入れられた。「日本でたくさん仕事をしていた時期はとても楽しかった」と彼は言う。彼はプロダクト・デザイナーのマーク・ニューソン(Marc Newson)と共にアントワープのガレージを改装したマルチブランドショップWALTERで、没入型小売体験をつくり出していた。ショップの受付エリアでは高さ2.4メートルの木製猫が出迎え、スピーカーからはマジー・スター(Mazzy Star)が大音量で流れていた。W.&L.T.の影響力は計り知れない。今日のZ世代の若者達も触発され、こうした洋服を生み出したネオグラムロックのユースクエイク(若者の行動や影響から起きる著しい文化的、政治的、社会的変化)を再現したがっている。「90年代の作品に絶大な関心が集まっている。16歳、17歳、18歳の若者達が探し集めている。そんな繋がりを感じられるのはとても嬉しい」と誇らしげに満面の笑みを浮かべる。

1997年までに6つのW.&L.T.コレクションを発表したMUSTANGは、やがてヴァン・ベイレンドンクの実験的取り組みが商業的に存続するものかについて懐疑的になり、彼の創造の自由を制限し始めた。「利益追求に走り始めた。こちらが赤と言えばあちらはグレー、こちらが緑と言えばあちらは黒と言う有様だった」と、ヴァン・ベイレンドンクは財務担当者との間に生じた軋轢を振り返った。MUSTANGとの契約関係は1999年まで続いた。そして彼の名前でのデザイン発表を阻止する裁判を起こしたヴァン・ベイレンドンクは、その後何年もの期間、法廷闘争に身を投じ、事実上破産状態に陥った。

自由の話題となると、ヴァン・ベイレンドンクは率直に語った。「無制限だった予算が完全に止まるわけで、相当な決断だった。アントワープに最高のチームを抱えていたので、たくさんのことを考慮した上で契約終了に踏み切った」と言う。「今思うとあれは人生最高の決断だった。規模を縮小して全てを再考し、再出発し、完全にコントロールできるものを作り上げることができるようになった」

財政的苦境に立たされたヴァン・ベイレンドンクだったが、作品はそれまでにも増して注目を集めた。2年間にわたって行われたU2のツアー「PopMart」では、ボノが毎晩W.&L.T.のシャツを着てステージに登場した。スーパーヒーローの筋肉がプリントされたこのシャツは現在、中古市場において高値で取り引きされている。

「当時はU2のファンではなかった。ほかのエレクトロニックミュージックバンドが主に好きだった」と彼は言う。しかし、ダブリンに飛び、ボノから「PopMart」のセットを見せられたヴァン・ベイレンドンクはそのヴィジョンを理解し、ツアー衣装のデザインを引き受けた。「ロックンロールの陳腐なイメージを打ち破って自分達を刷新したいのだと思った。ボノには説得力があった。数週間後にはスケッチを用意していた」

MUSTANGとの決別後に起こった法的問題は長年続き、最終的に解決を見たのは2000年代初頭だった。ヴァン・ベイレンドンクは自身の名前の権利を保持したが、訴訟中は経済面でも創造面でも大きな障害に直面した。契約上の制約により自身の名でコレクションを発表できなかったため、コラボレーションや講師業で生計を立てるようになった。後ろ盾を失った彼は、新たに自身のブランドを築き上げる努力をしなければならなかった。「W.&L.T.での自分のアイデンティティは全て捨てた」と彼は言う。「契約から抜け出した以上、何も持ち出せはしなかったので、ゼロから始めるしかなかった」

2000年代初頭はヴァン・ベイレンドンクにとって比較的静かな時期だった。以前のコレクションの魔法と注目を取り戻したいヴァン・ベイレンドンクではあったが、自身の名前ではなく、aestheticterrorists(エロティックテロリスト)というレーベル名での活動であった。このレーベルは短命に終わっている。「最初のコレクションはまだ自分が存在していることをプレス向けに示すためのようなもので、内容も売れ行きも冴えなかった」と彼は言う。2001年9月11日の同時多発テロ以降の論争を警戒し、aestheticterroristsの名前はわずか4コレクションで封印したが、この頃には再び自身の名前を使用することが正式に可能となったため、WALTER VAN BEIRENDONCK(ウォルター・ヴァン・ベイレンドンク)の名でデザインを継続した。

その後、ファッション界から一時的に離れ、フランダース・ファッション・インスティテュートとヨーロピアン・オープン向けに一連の展覧会のキュレーションを手がけた。目玉のひとつ “2women” では、ココ・シャネル(Coco Chanel)と川久保玲という2人の反逆的デザイナーの二面性を探求した。川久保の参加は、ヴァン・ベイレンドンクが自ら日本に飛び、取り付けたという。

「緊張の瞬間だった。彼女の夫のエイドリアン・ジョフィ(Adrian Joffe))も同席する中、全てを説明した。興奮もありつつ、断られる不安もあった。彼女は静かに考えている様子であまり反応を示さなかったが、しばらくして『いいえ……静的な展覧会はしません。ショーを5回します』と」。ヴァン・ベイレンドンクは川久保の挑戦を受け入れ、従来のランウェイショーの限界を突破するファッションショーを企画した。単なる洋服の展示ではなく、演劇的要素、大胆なヴィジュアル、音楽を融合させ、自身の前衛的ヴィジョンを反映した物語をつくり出す没入型体験であった。

2007年には母校、アントワープ王立芸術アカデミーの校長に就任した。在任中には、ヴェロニク・ブランキーノ(Veronique Branquinho)、アン・ヴァンデヴォースト(An Vandevorst)、オリヴィエ・リッツォ(Olivier Rizzo)、ベルンハルト・ウィルヘルム(Bernhard Willhelm)といった逸材が彼の指導のもとで頭角を現し、新たなデザイン人材を育む温床としてのベルギーの地位を確固たるものにした。

そんな逸材の中にラフ・シモンズもいた。現在PRADA(プラダ)のデザイナーであるシモンズは、1990年代初頭、LUCAスクール・オブ・アーツを工業デザインと家具デザインで卒業後間もなく、ヴァン・ベイレンドンクのもとでインターンをした。2005年の『ニューヨーク・タイムズ』紙のインタビューでシモンズは、ヴァン・ベイレンドンクが自らの作品に感心したことを振り返り「ウォルターがエッグカップのデザイン画に釘付けになり、見事だ、すぐにでも働けると言ってくれた」と語っている。

それはシモンズのキャリアが確定した瞬間であった。ヴァン・ベイレンドンクの勧めがなければ、彼がファッションデザイナーになることはなかったかもしれない。「(ラフは)インターンシップでパリのショールーム用の小さなインスタレーション、展示会用の作品、小さな家具に重点的に取り組んでいた」とヴァン・ベイレンドンクは語る。「その分野でも優秀だったが、ずっとファッションへの情熱を高め続けていた。勉強を続けるか、それとも直接ファッション業界に進むか考えた末、最終的にインターンシップ終了直後、自身のコレクションを立ち上げる決断をした」

シモンズのような新進気鋭の人材を指導しながらも、ヴァン・ベイレンドンクは、サブカルチャーの美学、大胆なグラフィック、遊び心のある不遜さをファッションに取り入れることに深くに傾倒し続けていた。これらがファッションの同義語となる前の時代においてである。初期のW.&L.T.コレクションから特大のシルエット、グラフィックプリント、“Future Proof” などの遊び心のあるスローガンを取り入れ、ランウェイとアンダーグラウンドの境界線を滲ませた。さらにTシャツは25ドル、ネオプレンジャケットは74ドルという良心的価格帯で提供していた。

ストリートウェアはヴァン・ベイレンドンクが発案したものではないが、彼のデザインは、アクセシビリティ、アティテュード、芸術表現の融合という点で、古くからの服飾産業の反逆者達との共通点を感じさせる。エルヴィン・ヴルム(Erwin Wurm)などのコンセプチュアル・アーティストとのコラボレーションをしたり、ポップカルチャーの要素を恐れずに取り入れたりしながら形成したヴィジュアル言語の形成は、やがてヴァージル・アブローやデムナ・ヴァザリアといったデザイナーの着想源となっていった。現在でもヴァザリアとは「良好な関係」にあると彼は言う。「批判的なことを言うときもあるが、あちらも理解している」

ストリートウェアが本格的にラグジュアリーファッションを取り込み始めたと感じられたのは、2015年になってからだった。アブロー、1017ALYX 9SM(1017 アリクス 9SM)のマシュー・M・ウィリアムズ(Matthew M. Williams)、そしてVETEMENTS(ヴェトモン)でDHLロゴTシャツを3桁の価格で販売していたヴァザリアらに熱狂的な期待が寄せられるようになった。積み重ねられたファッションの歴史が喘ぎ苦しみ、画期的創造性やそれを投影した渾身のコレクションも、Google検索で簡単に見られるようなものになっていた。過去に既に行われていた(過去の方がうまく行われていたという説もあるだろう)ことを自覚せず、同じ内容をキャットウォークに持ち込む若手デザイナー世代も登場した。2021年、ヴァン・ベイレンドンクは、LOUIS VUITTON(ルイ・ヴィトン)の2021年春夏コレクションのデザインについて、ヴァン・ベイレンドンクの2016年秋冬コレクションのマスコットを縫い付けたスーツからの盗用だとしてアブローを非難した。問題のデザインは明らかに酷似していた。アブローの作品がランウェイに登場した直後、ヴァン・ベイレンドンクは自身のInstagramに “I HATE FASHION COPYCATS(ファッションの模倣屋は大嫌いだ)” と書かれた自身の2020年秋冬ショーの服の画像を投稿した。

「時々、自分の昔のデザインと同じようなものが出てくる」とヴァン・ベイレンドンクは言う。「90年代に(“Believe” コレクションでジェフ・ポータス(Geoff Portass)と)マスクやラテックスを使ったフェティッシュなプロテーゼメイクをかなり集中的にしていたが、最近ほかのブランドが同じことをし始めた。ジャーナリストや世間の記憶力はそんなに悪いのかと思ってしまう。確かに昔やっていて記録も残っているのだから、はっきり確認できるはずなのに」

アブローの支持者らはすぐに反発した。カニエ・ウェスト(Kanye West)は、X(旧Twitter)で「ヴァージルはやりたいことをなんでもしていいはずだ」と意見を述べた。ヴァン・ベイレンドンク発の告発とデザインの独創性に関する議論の矛先は突如、ヴァン・ベイレンドンクの過去のコレクションにおける、東洋やアフリカ文化の盗用や人種問題へと向かい、彼をベルギー植民地主義の象徴とみなす者も現れた。この疑惑を受け、アブローは次のファッションショーのメモと共に「植民地主義の残滓とは何か?」「私の先祖は誰のものか?」「偶然とは何か?」といった疑問を書き込んだ83ページのパンフレットを公開した。

こうした白熱したやりとりにより、ファッションにおける文化の借用が持つ複雑性が浮き彫りとなった。それは着想と盗用との間の緊張関係であり、ヴァン・ベイレンドンクのようなデザイナーの仕事を長年定義してきたものだ。2000年代半ばを通して、ヴァン・ベイレンドンクは、大胆なマッシュアップや刺激的な組み合わせに文化的な影響を織り交ぜ挑発的な作品を生み出すことでグローバルデザイナーの役割を刷新した。2008年春夏コレクション “Sexclown” のマリのボゾ民族に着想を得た張り子のペニス帽子、モンゴルをイメージしたネオンカラーのチュニック、マサイ人のビーズ細工による未来的なボディスーツ、2012年秋冬コレクション “Lust Never Sleeps” のブードゥー教の司祭の仮面など、様々な文化的モチーフを統合するコレクター的アプローチはヴァン・ベイレンドンクのシグネチャーとなった。

ヴァン・ベイレンドンクは、コレクションの冒頭にスクラップブックにまとめた画像を公開するなど、着想源を包み隠さずさらけ出す。2011年の回顧展 “Dream the World Awake” では、こうしたスクラップブックや収集品(ガーナのメルセデス・ベンツ型棺、デヴィッド・ボウイ(David Bowie)の写真、『スター・ウォーズ』のフィギュア、キース・ヘリング(Keith Haring)のエイズ啓発ポスター)を展示した。「東ヨーロッパからパプアニューギニアまで、あらゆる文化が大好きだ」と彼は言う。「美しいもの、良いものを見ることが自分にとって大切で、本を何千冊も持っている。着想時にはそういうものを利用したり誤用したりは決してせず、現代的な発想に置き換えている。そこに出るのは自分自身の考え方やものの見せ方だ」

なぜ、今は昔のように資料からの引用をすることができなくなってしまったのかとヴァン・ベイレンドンクは率直な疑問を投げかける。圏外における文化の使用や再解釈をめぐって配慮や責任が求められるようになったことで、芸術表現のプロセスが複雑化し、クリエイターは過去のものの持つ影響力を讃えることはしつつも、文化への敬意とその所有権を履き違えることのないよう、常に微妙なバランスを取らなければならない。しかも議論は絶え間なく進化する。「少しでも『大丈夫』でないことは全て(ウェブ上で)議論の対象になり、(創造的行為として)することができない」と彼は主張する。「世界は危険な進歩の仕方をしている。文化は尊重すべきだが、着想を得たり、創造性を発揮したり、美しいものを見て楽しんだりできるようにすることも必要だ。その自由を失いつつあるのは残念だ」

同業者や世間一般からいかなる創造面、そのほかの批判や悪評を立てられても、ヴァン・ベイレンドンクはこれまで以上に希望に満ちている。エッジィを弱めたり、ヴィジョンを希釈することを拒み、学生の頃と同じ好奇心で規範に挑み、破壊的な存在であり続けている。オーセンティシティと個性への称賛が高まっている今、生々しくも潔い彼のアプローチは適切であり、不可欠とさえ感じられる。参照元に対して疑問を投げかけ、恐れず衝撃を与え、コミュニティを築くべきだと彼は促す。定年65歳という「愚かな」法律のためにアントワープ王立芸術アカデミーでの教職は辞すことを余儀なくされたが、フィレンツェのポリモーダでの指導は続き、妥協なき信念の灯を次世代の若いデザイナー達に受け継がせる基盤を築き、彼らに新しい未来が訪れるよう働いている。社会が社会政治的不安の新たな時代に突入する中、ヴァン・ベイレンドンクはこれまで通り創作によって対応していくことを決めている。これまでのキャリアの大半ではステートメントを発表してきたが、今では要素を削ぎ落とし、フィット、グラフィック、作りに重点を置くようになった。

「政治的主張には少し飽きている」と彼は言う。現代は不吉なニュースが溢れ「押し潰されそう」だとも加えた。「どうなっても大変なことには変わりないが、それでも明るい未来を信じ続けようとは思っている。ファッションはコミュニケーションの手段だと今でも信じている。ファッションにはまだその力がある」

※本記事は2025年4月に発売したHIGHSNOBIETY JAPAN ISSUE14++に掲載された内容です。

【書誌情報】
タイトル:HIGHSNOBIETY JAPAN ISSUE14++:AKASAKI
発売日:2025年4月15日(火)
定価:1,650円(税込)
仕様:A4変型

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