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Life beyond style

不便から成る益。便利な生活と逆行する発想に陥りがちだ。便利が非で、不便が是であるというわけではない。不便益は、利便性の高い社会とその進化を否定するものでもない。ただ、便利が生まれると同じだけ不便が生まれ、等しく価値が生まれていることに着目をしているだけ。それは価値観の幅を広げ、選択肢を増やす。しかし、不便益の真価はそれだけに非ず。京都大学情報学研究科特定教授、京都先端科学大学教授の川上浩司に話を聞いた。

——「不便益」という言葉はどのくらい浸透していると感じますか?

口伝てに広がっている印象です。ただ、昔の暮らしに戻ることが僕達の理論みたいな感じで誤解してくれる人がいるんですが、そこはちょっと違うというか……。単純に不便万歳みたいな勘違いが案外多いんですよね。

——今はハンコ文化も議題に上がっていて、ハンコを推奨する側からの意見は昔万歳という印象でした。

昔にも不便益はたくさんあると思います。だからといって昔のやり方に戻すというのは実は違っていて。昔のやり方にあった益とは何かをちゃんと見極めて、それを取り戻せればいい。昔のやり方をそのまま踏襲する必要はないんです。

今の時代に合わせて不便益のシステムを作り上げれば良いと。

——当時の教授から不便益を知ったところから始まったとのことですが、なぜそれをつきつめていこうと?

同じ研究室で師匠が教授で僕が准教授をやっていて、思想が直接的に伝わってくる立場にいたというのと、共感もしていました。数年は師匠が一人で語っていただけなんです。いろいろな不便益の事例をたびたび語っているうちに、工学的な匂いのする事例もたくさん出てきて、これは研究になるかなと思ったんです。

——最初は不便益の益がどのようにビジネスや教育に関わっていくのかという前提で研究を進めていると思ったのですが、特にコロナの影響を受けて大きく変わった社会を俯瞰してみると、様々なものに、身近なところに、不便益が関わっていると感じました。

身近なところと言えば、よく出す例ですが、遠足のおやつ300円。子供の頃は「なんで300円やねん」と思っていたんですけど、後から思うとそのおかげで自分のおやつを選ぶというあの時間が楽しかったんだ。後から感じることは多いですよね。

——映画『ウォーリー』の事例も不便益だったと改めて感じました。便利なものが歩くことや考えることをできなくする。生命に関わることだとは衝撃を受けました。そういう意味でも、不便益の大切さが分かりました。

僕があの映画でフィーチャーしたいのは、便利なものがなくなったときにどうしますかというよりも、歩くことって喜びだよね、ということ。歩くことって単なる移動じゃなく、いろいろなプロセスを経て僕達は楽しんでいるのに、便利の押し付けでそれを放棄してしまう方向に無理やりさせられている、ということが大きいです。

——なるほど。楽しいと思う基準、もしくはなくてもいいものの基準は、人それぞれで違うと思います。

なくてもいいものというのは、何にとってかが大事です。例えば、人が生きるためになくてもいいもの、生存するだけであれば、アートもスポーツもゲームも要らないですよね。でもやっぱり必要。何に必要なんだろうなと思いますが、そういう意味ではアートは良い例だと思うんです。

——購入に至るまでの考え方の道筋として、感覚的な非機能的価値よりも、実用性や理論的な説得が購入に結び付くステップになっている気がします。例えば、日本の電化製品と海外のそれを比べてみると、前者は非機能的な価値よりも機能的価値にフォーカスしている印象があります。国民性もあるのかもしれませんが、日本人にとってその価値観の変換は難しいのかもしれません。ですが、不便益という発想の転換法で、非機能的価値を実用性や必要性などとしてうまく理論的に説明できるのではないのかと思いました。そして、不便益が、感性で選ぶ大切さやアートの必要性を考えるスイッチになる気がしています。

それは不便益の文脈で考えたことなかったです。

——ファッションにも近いものがあって、不便益的発想でいうと、普通より高い値段を出して買うことで、自分が美しくなる。それで自信がついて仕事がうまくいくとか、高価なものを持つステータスといった考えは昔からあります。その感覚的価値は数字にし難いというか、数字にできないから最後の後押しにならないというか。だから、発汗促進やヒールを履いて足首を鍛えられるとか……。

でも、それでは興醒めですよね。結局数字にしないと、数字で測れるような表面だけを見ていたらとても狭い気がします。足首を鍛えるのに便利だからっていう文脈になっちゃうと、便利になっちゃうんですよね。足首の強さみたいなものは数値化できます。そういうものに落ちると、ファッションとは別次元の尺度になってしまう。

——確かにそこに固執してしまうとファッションの可能性が狭まってしまう。不便益には6つの性質があると説いていらっしゃいました。そのうちのアイデンティティを与える、綺麗に汚れる、価値とありがたみと意味の部分はファッションやアートに当てはまっていると思います。特に歴史あるメゾンやラグジュアリーと分類されるブランドで。ファストファッションの台頭により、ラグジュアリーブランドの苦戦が強いられる状況の一つにお金という価値基準もあるのだと思います。そういう意味で、より実用的な価値基準が、不便益的発想で見えてくるといいなと思ったのですが……。

やっぱり「実用的な」ですか。実用性って、それは勝負するところなのかな。例えば、宇宙服は宇宙へ行くための実用性があるわけで。それは当たり前で、ラグジュアリーのそれとは違うと思うんですよね。

——実用性や機能性を求める人が多いから、それを追求するビジネスも多くなっている。そういう意味で、不便益という発想が後押ししてくれる気がします。

実用性の尺度の一つとして、不便益を捉えるのは自己矛盾している気がするんですけど、そういう位置付けもできるかもしれないですね。ただ、実用性というのは、ほぼ100%数字に落とせると思うので、もし不便益であることが実用性の尺度だと認めてもらえたとしても、唯一数字には表せないものになるのかな、と。値段も数字ですよね。だから訳の分からないものを数字に落とすというのが値段なのかなと思います。結局、数字で勝負している。

——そもそも値段は基準として考えるポイントではないのかもしれません。値段以外で、不便益的発想をどのように伝えたらいいでしょうか?

不便益的には、不便であることは手間がかかったり、頭を使わなくてはならないことを言いますが、そうなると手間がかかるというのは人の動きですよね。人が時間をかけたり動いたりするのは、ものとのインタラクションなわけで、それは、そのものを長く使うとか愛着が湧くとかそういったことに繋がります。安いものを何回も買うよりも、高くても信頼できて長持ちして手間をかけたものが不便益を許してくれるものだと思います。ジーンズもインタラクションした結果、掠れて愛着が湧いて嬉しいとか、それは安くて買い換えられるものより、ラグジュアリーなものですね。

——そういう意味でラグジュアリーは不便益に貢献しているかもしれません。デザイン性>機能性 / 効率性はなんとなくみんな感じていて、大切にする時間の長さなど、他にも何かありそうですか?

直感的にはアートもファッションも効率性以外の指針がありますよね。それ以外の繋がりかぁ……。やはり、効率や機能で測れないものを持っているというところが大きいと思います。アートと不便益は絶対繋がっていると思うんです。根拠が効率や機能で測れないものという一点だけなのは弱いのですが。

会社勤めをしていると効率というものを重視してしまうと思うんですけど、生きていくだけの状態であれば効率を求める必要はなくなると思います。効率を重視する人はおそらくラグジュアリーに興味ないと思うんですよね。

——コロナの影響で変化を強要されるこのご時世に、効率的か不便益的発想か二極化すると思います。

二極化といえば、例えば食事もそうです。効率重視だったらデリバリーを選んで、お客さんが効率的に食事を摂取できるようにというビジネスがあるし、今は食材が売れるらしいのでお客さんが自分で料理をする、ある種非効率な行動をサポートするというビジネスもあります。

——メディアと広告、マーケティングの手法に関しても、デジタル社会で情報が溢れる便利な世の中、逆に情報レスにする方が効果的なのかもしれないです。

押し付けられた情報ではなくて、自分から取りにいった情報は大事にするものです。自分から情報を取りにいくことで自分ごと化する。これも不便の益だと思います。

——戦後のバブル期に日本の車産業などが成功を収めたというのは、現在に近いものを感じます。経験したことはないですが、戦後で何もない、便利なものに対する飢餓状態から考えぬいてアイデアが生まれてきた。これは不便益と考えられますか?

不便を解消するためにみんなが一生懸命働く、その(動機付けの)ために不便は必要、という風になると不便益とは言いづらくなります。不便は無くすものではなく、不便そのものから益を得ようとするのが不便益なので。

——不便を生み出していくというのも不便益と言えますか?

そこに益を見出せるのであれば、僕的にはそれなんですよね。例えば、ものさしのメモリをあえて取るというのが、みんなの興味を引くというか、そしてそこに益が発生する。

——そうするとファッションやアートは不便の結晶だと思うんですよね。

不便益的にいうとそこ(ファッションやアート)で得られる益が綺麗に言語化できないんですよね。何かあるとは思うんですが。人が自然界にない物を作り出すというのもアートですよね。全ての動物はアートする。思いつかなかったら自然界になかった物事があるわけで。アートは本質なんですよね。魚の群れが綺麗なトルネードを作っていたり。英語の意味でアートというと「アーティフィシャル=人工的な」になって、人の行いでなくてはいけないという縛りがあるかとは思うんですけど。

——何か答えへの一歩が見えた気がしました。

効率的、機能的であるかどうかは人間が後付けで作った指針でしかなくて、元々アートは生物が生まれた時からあって、後付けでしか測れない物だとは思います。

便利化する世の中もいいと思うのですが、それに負けないくらい不便さも追求していきたいものです。不便さから得る益もあるのに、それに気づかないのはもったいないですよね。あえて便利から離れて面白いことを探すのもいいですよ。

——今は便利なものがたくさんあるから、不便の益をより感じるのだと思いますか?

便利なものができることで不便さが分かるので、便利なものがどんどん生まれれば、それと同じ数だけ不便も生まれるということです。そのおかげで不便の益が際立って、もし良かったらそれを享受しましょう、ということですね。

——Appleのアダプタはどう思いますか?

不便益認定をするときには条件があって、不便と益が同じ人じゃないとダメなんですよ。不便である主体と益のある主体が同一でないとダメです。アダプタ形状がコロコロ変わって僕らは買い換えねばならないから不便だけど、Appleには売上げ増という益がある、というのはアウトです。

——アダプタを買いに行ってそこで新たなApple製品を見つけるというのは?

それは不便益ですね。

——そこは自分の価値観の判断でいいということですね。山登りの例がありましたが、ロープウェイの方が楽しいと思えばそっちを選べばいい。そういう一方的じゃないところがいいのかもしれません。

押し付けてしまうと凄い気持ちの悪いものになってしまう。先ほど、映画『ウォーリー』で人が歩けなくなる話がありましたが、不便益と言い出した僕の師匠は最初、哲学的な話をしていたんですよ。人が人たるのに必要なのが不便だと。僕も心の底ではそう思うんですけど、あまり宗教的にならないように、人前では話しません。

——こうやって考えること自体がいいのかもしれません。

これに不便の益があるのかなと考えるのも面白いですし、不便なことがあったら拒否反応を起こして思考停止するのではなくて、逆に「益はあるのかな」と考えることによってものの見方が変わり、視野も広がると思います。