style
Where the runway meets the street

「僕にとってはアーティスト。「DIOR(ディオール)」で一緒に仕事をするアーティストがみなそうであるように、(デザイナーとしてではなく、アーティストとしての)自信を持っている」と、フォール2020のショーの開幕前1時間を切る頃、DIORのメンズアーティスティックディレクターのキム・ジョーンズ(Kim Jones)は語った。カリフォルニア出身のデザイナーで現代のフォークヒーロー、ショーン・ステューシー(Shawn Stüssy)のことだ。その代名詞である手描きスタイルが躍るTシャツは数知れない。

ジョーンズがインタビューに応じてくれたのは、ステューシーとのコラボレーションによるウェーブプリントをあしらったラグジュアリーアイテムで埋め尽くされる、ステージ裏のフィッティングルームだった。このコラボは、ステューシーであり、ブランドの「Stüssy(ステューシー)」ではない(本人は1996年に離脱しているが)。辺りにはレザートート、“サドル”バッグ、エアポッドケース、爪先部分にグログランのリボンを巡らせたクリアラバーサンダルなどが用意されている。隣の部屋のマイアミのデザイン地区の格納庫のような円形劇場内の壁には、やはり同じ手描きスタイルで“DIOR”の文字が大きく書かれ、アートファンやファッション関係者が大勢集まっている。

そこはDIORの真髄のお披露目の場であり、ショーン・ステューシーのDIORコラボアーティストとしてのデビューを飾った場だ。

© DIOR

「レイドバックでオーガニック、人間的なアートをクチュールレベルのテクニックに高めるという話をキムから持ちかけられて、面白いと思った」と今回のパートナーシップについてステューシーは語った。「これだけの大きなプロジェクトを本当に少人数でこなすんだよね。サーフカンパニーでもずっとグループ意識の低いところもあったりするくらいだから、不思議な感じだよ」

ステューシーは「この偉大な将来において / 過去を忘れることはできない」というボブ・マーリー(Bob Marley)の歌詞に頻繁に言及する。既によく知られてはいるが、Stüssyブランドは、ラグナビーチのサーフボードシェイパーが会計士と力を合わせ、ステューシーのシグネチャーハンドスタイルを使ったアパレルブランドを立ち上げたのが始まりだ。あのラフなエッジの手描き文字はどんなフォントを使っても正確に再現できない。

ステューシーが初期に手がけていた“S”のモノグラムや“StüssyNo.4”といったグラフィックは、ラグジュアリーメゾン、CHANELへの明確なオマージュだ。ハーレムにアトリエを構えた伝説的テーラー、ダッパー・ダンと同じく、ステューシーもまた、ステータスのシンボルとしてのロゴの力に気づいていた。そしてハイファッションブティックの敷居の高いイメージを、ストリートで盛り上がってきていたユースカルチャーで和らげたいと考えた。

Stüssyは1990年までに1700万ドルのブランドに成長しており、若きショーン・ステューシーは世界各地を旅する余裕を手に入れた。そしてたくさんの同志と出会う。ロンドンではマイケル・コッペルマンやフレイザー・クック、東京では藤原ヒロシやNIGO®こと長尾智明、ミラノではルカ・ベニーニと親交を深めた。彼らは単にテイストが似ているということではない、より深いところでつながった。それは共通の価値観であり特定のコードであった。彼らは、クルーよりも強い、ギャングというよりはもう少しくだけた(“I.S.T.”をパーソナライズしたスタジャンは作ったが)絆でつながった。だから“International Stüssy Tribe”という呼び名がしっくり来た。

「ステューシーはとても頭が切れるし知識も豊富で、あらゆる最新事情を押さえている。DIORについてもたくさんのことを知っていて、そこがすごくいいと思ったんだ」ーキム・ジョーンズ

6年後、ステューシーは自ら立ち上げたブランドを去る。しかしその頃には既に種をまいてあったグローバルムーブメントがしっかりと開花していた。NY・ソーホーのStüssy旗艦店オープンを手伝ったジェームス・ジェビアは当時、気鋭の新スケートショップ「Supreme(シュプリーム)」に注力していた。藤原は東京・原宿の裏道をショッピングのメッカへと変身させ、ヨーロッパではコッペルマンとベニーニがそれぞれロンドン、ミラノのリテールシーンに革命を起こしていた。

ステューシーはいとも簡単に全てから手を引いた。元々楽しみでしていたことが現実のビジネスになってしまい、さらにはただのビジネスになってしまった。「そんなことを考えも心配もすることなく、20年離れていたからね」と、早期の退陣について語る。そしてステューシーが、元々好きだったサーフボード作りに戻った頃、ストリートウェアの世界に飛び込んできたのがジョーンズだった。かつてStüssyや、コッペルマンの立ち上げたSupremeといったブランドの販売を手がけるロンドンの「Gimme Five」で働いていた。そこから数十年を経て、ジョーンズはSupremeと「Louis Vuitton(ルイ・ヴィトン)」という奇抜なコラボレーションを生み、ファッション史に名を刻んだ。しかし今回フォール2020メンズコレクションでは、一人の創業者に対する然るべき敬意を示している。

「(Stüssy)ライン誕生40年のお祝いをしようと思ったんだ」と、ショーの後ステージ裏でジョーンズは語った。DIORがアメリカでショーを開催するのは今回が初。海辺に位置する会場の雰囲気から、ジョーンズの頭にショーン・ステューシーが浮かんだのは想像に難くない。ステューシーの自由に流れるようなデザインとジョーンズが融合させたのは、1960年イヴ・サンローランがDIORのアーティスティックディレクターだった時代のソワレに登場した豊かなフラワーモチーフだ。

ステューシーがデザインした数通りのDIORのロゴを落とし込んだパターンは「ウェーブプリント」と呼ばれるようになった。そしてステューシーは、メゾンのシグネチャーである“BEE(蜂)”モチーフを再解釈した5〜6通りのデザインに加え、Stüssy全盛期の“Tom Tom”や“Daisy Age”といったサイケデリックな柄に、ニューウェーブバンドの「Tom Tom Club(トム・トム・クラブ)」やヒップホップレジェンド「De La Soul(デ・ラ・ソウル)」を取り合わせたオールオーバープリントをデザインした。

© DIOR

ショーン・ステューシーにとって新アイテムを作るのは初めてのことではない。これまでにも、もう少し大人寄りのグラフィックTシャツを扱ったラインS / Double(Sが2つ。何のマークか、お分かりだろう)や、Gitman Vintageのカスタマイズシャツ、そして何より彼の名を知らしめたカジュアルスポーツウェア、ワークウェア、ミリタリー調のアイテムなどを手がけてきた。しかし今ここマイアミの、ルベルミュージアムから通りを挟んで反対側の倉庫を改装した建物にこそ、彼の作品は居場所を見つけたように感じられる。

「本物のコラボレーションだった。自分が出したデザインにDIORがカラーリングしたんだ」とステューシー。「DIOR側で既にどんな色を使うかは念頭にあって、マイアミでのショーということも視野に入れて、こういうサイケデリックな色使いになったんだね。黒の太ペンで描いた自分のデザインの完成形を見て今夜は楽しかった」

会場はイエローを背景にしたステューシーデザインのDIORのロゴプリントで覆われた。ステューシーのデザインはA4用紙にマーカーで描いたものだった。ラグジュアリーブランドとのコラボレーションを通し、ステューシーを最も驚かせたのは、どれだけ膨大なリソースを使い、どれだけ膨大な仕事を積み重ねてひとつのコレクションが作られているかということだった。

© DIOR

Tシャツやパーカーのスクリーンプリントが定番のステューシーにとって、自分のグラフィックがインドの手縫いビーズで仕上げたスニーカーや、繊細なマーブル柄の生地、そして日本の染色会社による見事なプリントを使ったシャツに取り込まれていく様を見るのは、普段と大きく違うことだったろう。

しかしショーン・ステューシーのデザインとDIORのクチュールの伝統には、実は共通点がいろいろとある。例えば、ステューシーが考えたハンドスタイルは手仕事の一種だ。そしてステューシーがハワイと南仏を行き来して暮らしていることも、キム・ジョーンズとのコラボレーションの礎となった。

「ステューシーはとても頭が切れるし知識も豊富で、あらゆる最新事情を押さえている」とジョーンズ。「DIORについてもたくさんのことを知っていて、そこがすごくいいと思ったんだ」

コラボレーションと言えば、ショーで最も目立っていたのはモデルの多くが着用したフットウェアだった。ジョーンズが1995年のLWPランナーをすっきりとモダンなスニーカーに再解釈した2016年以来「Nike(ナイキ)」と作り上げてきたものだ。

それ以前、10代のジョーンズは、シルバーのVandalや、Hoyaのカラーリングでは(バスケットボールシーンを席巻していたカレッジスタイルをイメージし)ターミネーターのハイトップスニーカーを、自らの名前を冠した卒業コレクション向けに製作していた。しかし彼自身が賛美するスニーカーは常に「AirJordan1」で揺らぐことはなかった。そして今シーズン、ジョーンズは人気シューズとクチュールの世界をさらに近付けた。

誕生から1年のAirJordan1OGDiorは、ラグジュアリーメゾンと歴史あるスポーツウェア企業との2度目の大きな提携だ。「adidas(アディダス)」と「PRADA(プラダ)」のコラボレーションに続く今回のコラボは、ステートメントスニーカーはメンズファッションにおけるITバッグ的存在だ、という発想によるものだ。

イタリアのレザー素材やハンドプリントのエッジを採用したディテール、そしてそれと同じクオリティの、DIORのヒット作、「ディオールオブリーク」モチーフで埋めつくされたスウッシュで限定シューズ(AirJordan1がデビューした1985年にちなんで、ハイカットは8500足の限定生産だった)のシグネチャーカラーにも、ムッシュディオールが愛した“ディオールグレー”が使用されている。ローカットバージョンに至っては、クリスチャン・ディオールが“NewLook”をデビューさせた1947年にちなんで4700足限定と、さらなるレアアイテムということになる。その年から72年のときを経て、キム・ジョーンズ、ショーン・ステューシー、ピーター・ムーア(AirJordan1のデザイナー)は、Diorのメンズコレクションに新たな波をもたらした。

「本物のコラボレーションだったんだ。自分が出したデザインにDIORがカラーリングしたんだ」ーショーン・ステューシー

© JORDAN BRAND

ショー開幕前のバックステージ、コレクションのルックでいっぱいのボード前で、マイアミビーチ、AirJordan、イヴ・サンローラン、そしてショーン・ステューシーのサイケデリックなつながりについて、Highsnobietyチーフエディターのトム・ベットリッジがキム・ジョーンズに尋ねた。

——今回のショーを企画しているときに一番考えていたことは?

DIOR、マイアミ、イヴ・サンローランがDIORのデザインをしていた1960年代、そしてマイアミの夜について。当時の時代背景、色、メゾンのアーカイブを調べて、それから海辺で行われたショーだったということも考えた。ショーン・ステューシーのことがたくさん思い浮かんだ。彼がサーファーで、1981年にサーフボードに自分の名前を書いてブランドを立ち上げたというあたりのことも。アーティストだと思ってるよ。「DIORで一緒に仕事をしているアーティストに共通する(デザイナーとしてではなく、アーティストとしての)自信が感じられるから」アメリカでのショーは初めてだ。アメリカのトップデザイナーと言えばラルフ・ローレン(Ralph Lauren)、マーク・ジェイコブス(Marc Jacobs)、そしてショーン・ステューシーだと僕は思った。それからSupremeのジェームス・ジェビア(James Jebbia)だね。

© DIOR

——ステューシーと最初に知り合ったのはGimme Fiveで?

ステューシーのことは14歳の頃から知ってはいた。同じソーシャルサークルにずっと入っていてね。ただ、DIORに来るまで、ちゃんと話す機会はなかった。話してみて楽しかったよ。ステューシーは自分のラインを立ち上げて40年だ。そのお祝いの気持ちも込めてDIORのためのアートワークを依頼した。ステューシーのグラフィックアートに60年代のDIORのスタイルでカラーリングをした。“wave cringe(ウェーブクリンジ)”と呼んでるんだけど、サイケデリックな突拍子もない柄やニット、ビーズ付きアイテム、カシミア製のウェアを展開した。

——今回のコレクションでの旅という発想はLouisVuittonで扱っていた旅の発想とは別物?

今回のはタイムトラベルでLouis Vuittonは現実の意味における旅だ。

——話を持ちかけた際、ステューシーの最初の反応はどうだった?

ステューシーはとても頭が切れるし知識も豊富だ。あらゆることについて最新事情を把握している。僕の仕事についても知ってくれていて、一緒に仕事をするのをとても楽しみにしてくれていた。DIORについての知識量も膨大で、そこがすごく良かった。ハワイと南仏を行き来して暮らしているというのもあって適任だと思った。いい人生だよ。自分のしたいと思うことを選択的にしている。あれ(Stüssyからの離脱)以来すごく気持ち良く過ごしている様子だよ。自分のしたい通りの生き方をしている人のサクセスストーリーを目の当たりにするのは気持ちがいいよね。

——南カリフォルニアにはどういう思い入れが?レイモンド・ペティボンとのコラボレーションでも若干触れていたテーマだけれど。

全然意識してなかったな。でも子供の頃、カリフォルニアの地元の子達を見ては、「いいな、羨ましい」なんて言っていたし、アメリカに文通友達が何人かいて、どんなおもちゃを買っているかなんていう話もしていたから、その流れかな。

© DIOR

——サーフィンはできるの?

サーフィンはうまくないけれど、水は好きだ。サーファーではないけどいつも泳いではいる。サーファーとスケーターについてのダイアナ・ヴリーランドの言葉が好きなんだ。「水には心を落ち着かせる効果がある。そんな水に乗って、それを存分に楽しめるサーファーはこの世で一番すてきだ」っていう。

——今回AirJordan1OGDiorを手がけて、どんな感じだった?

1年かかったからね。最高のお気に入りスニーカーだ。前回会ったときは青いのを履いていたね。

自分の一番気に入っているアイコンシューズの仕事ができるのは名誉だよ。昔一緒に仕事をしたこともあるNikeと今いるDIOR。2つのブランドを融合させて、ファッションブランドがバッグを作るときみたいなやり方でスニーカーが作れたらすごく面白いだろうと思った。エッジペインティングに、このシューズのためだけの斜め(パターン)をデザインして、豊富にサイズ展開する。僕は古典主義者だからね。ファンキーにしたり変にしたりはしない。スニーカーらしくありながら、すごくラグジュアリーなものにしたいと思った。

——グレーという色はどこから?

グレーはDIORのグレー。クリスチャン・ディオールは子供の頃グランヴィルの家に住んでいて、空は灰色、壁はピンクだった。それが“ディオールグレー”と“ディオールピンク”の由来だ。

——クリスチャン・ディオールの旅というアイデアの作り込みは本当に見事だね。今後のショーでも毎回誰かとコラボレーションをするの?

いや、毎回ではない。次回はガラッと変わって、僕の大好きな人に捧ぐコレクションにする予定だ。